上州名物空っ風と冬の風物詩・干し大根 - 笠懸町


みどり市笠懸

伝統的な干し大根の取材で、群馬県みどり市笠懸町を訪問した時のこと。

事前の打ち合わせの中で、笠懸町在住のある方が、取材全般の手配をしてくださることになっていました。そのため、まず最初にその方の所へ向かいました。何かのお店だったと記憶しているのですが、対面時のインパクトが強すぎて、その辺の記憶が飛んでいます。

取材当日、撮影担当のカメラマン氏が運転する車で笠懸へ向かいました。コーディネートを引き受けてくださった方の所はすぐに見つかり、打ち合わせをさせて頂こうと、店に向かいました。店内からは大きな声が聞こえていたのですが、何を言っているのかは分からず、そのまま中へ入ってごあいさつをしました。

しかし、中にいた二人の男女はそれには答えず、何やら口論をしています。夫婦喧嘩でしょうか・・・、どうやら絶妙なタイミングで、ばつの悪い場面に遭遇してしまったようです。やがて、ギャラリー側だった私たちにも「何しに来た」と矛先が向けられ、なぜか湯飲みか何かを足元に叩きつけられました。それを見た女性が、「早く帰って!」と、金切り声を上げます。その声にカメラマン氏と私は、何が何だか分からぬまま慌てて車に飛び乗り、店を離れました。

みどり市笠懸

しばらく車を走らせたものの、行くあてがありません。そもそも取材のコーディネーターから追い返されてしまったのですから、取材そのものが大ピンチ。でも、取材をしないと誌面に穴が開きます。それはマズイ!

とりあえず行政やJAなど、思いつく限りを回って相談し、取材を受け入れてくれる所を探しました。結果、加工などの撮影は難しいものの、干し大根に関する話だけならOK、そして大根を干す作業は翌朝に撮らせてもらえることになりました。

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みどり市笠懸町は古くから干し大根の産地として知られます。上州名物と言われる冷たく乾いた空っ風が、干し大根に適していたからかもしれません。初冬になると、畑や屋敷の周囲に5段やぐらが組まれ、大量の大根が干されます。やぐら掛けという作業で、白い大根が赤城山を背景に干された眺めはまさに壮観。群馬県を代表する初冬の風物詩となっています。

みどり市笠懸


みどり市は群馬県東部にあり、2006年、新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村が合併し、群馬県12番目の市として誕生しました。その中心地で、岩宿遺跡で知られる笠懸は、渡良瀬川の扇状地になっており、ここの大根はその肥沃な土壌の恩恵に預かっています。

たくあんに適した大根は、晩秋から初冬にとるいわゆる秋大根のうちでも、晩生に属するものがいいそうです。笠懸では、11月中旬頃から大根の収穫が始まります。朝、引き抜かれた大根は、すぐに洗って干し場に吊るされます。約2週間、空っ風にさらされ、太さが半分、重さが3分の1ぐらいになったところで出荷されます。干された大根は、生のものより無駄な水分が抜けて糖化され、栄養分がアップ、非常においしい漬物となるのです。

笠懸では、最盛期には1500tもの干し大根が作られていましたが、作り手の高齢化により、年々出荷量が減っています。これは笠懸に限らず、全国的な傾向のようで、今では巨大なタンクで塩を使って水分を抜く「いち押し」といわれる大根が一般的ですが、まだまだ干し大根の需要は多いようです。

生品神社

さて、そんな笠懸を自分たちでロケハンしながら回っている時、不思議な光景に出合いました。神社の境内に、大根がたくさん吊るされていたのです。明らかに干しているのでしょうが、大根を干すイメージとはかけ離れています。第一、なぜ神社?

そう思って近所の人に聞いてみたら、風通しが良く、雨よけになる木が多いため、近くの農家が場所決めをして干しているのだと教えてくれました。日陰で干し上げることで、色が変わらず、真っ白い干し大根が出来上がるそうです。

大根が干されていたのは、阿左美地区にある生品神社で、境内はアラカシを主とした照葉樹林で、この地方のかつての原生林の面影を色濃く残していました。

生品神社


ところで、この辺りには生品神社という名前の神社が、干し大根の生品神社以外にもいくつかあります。中でも有名なのが、旧新田町(現太田市)の生品神社。ここの社歴は古く、平安時代に編集された『上野国神名帳』にその名が記されています。新田義貞が、この生品神社の社前において、鎌倉幕府打倒の旗挙げをしたと伝えられており、毎年5月8日には、白い着物に袴姿の地元小学生十数人が、鎌倉の方に向かって一斉に矢を放つ鏑矢祭が行われます。

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たくあんは、澤庵和尚が広めたことから、その名が付いたと言われます。京都・大徳寺の僧であった澤庵和尚は、三代将軍徳川家光の時、出羽国上ノ山(現在の山形県上山市)に流されます。雪深い出羽で暮らすうち、民衆が、冬の食べ物に困っているのを知った澤庵和尚は、人々においしい貯え漬けの作り方を教えました。この時、塩辛いばかりだった貯え漬けを改良し、柿のあま味を加えたといい、これがたくあん漬けのおこりとされています。

その後、和尚は罪を許されたばかりか家光に重用され、品川・東海寺を開きました。ある時、将軍の突然のお成りがありました。和尚が湯漬けと改良した貯え漬けを出したところ、家光は大いに賞味し、江戸城の御膳方を東海寺に派遣して製法を学ばせたと言います。こうして甘柿と米糠を使った新しい漬物が誕生。以来、江戸城中で評判になったばかりでなく、参勤交代で諸国の大名が国元に持ち帰り、日本全国にたくあんが広まったと言われています。

そう言えば、六代目圓生のまくらを集めた『噺のまくら』に、「大名の飯炊き」という話が収められています。

その日食べた漬け物が、前に食べたものに比べてイマイチだと思った大名が、家来に訳を尋ねます。するとご家来が、先だってものは菜の本場である三河島で下肥をかけて作ったものなので、味わいが良かったのでは、と説明します。そこで殿様が、菜に下肥をかけると味が良くなるわけか、と聞くと、ご家来は「御意にございます」と答えます。そこで、お大名、無邪気にこう申し付けます。

「うん、苦しゅうない。少々これへかけてまいれ」



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