日本最北端・風の街 - 稚内

宗谷岬


稚内には羽田から1日1往復、夏は2往復の直行便が飛んでいます。午前中に羽田を出発する便は、昼過ぎに稚内空港へ降ります(今年は新型コロナウイルスの影響で、7月は羽田便はなく、8月も1日1往復らしいです)。

稚内空港は国内で1、2を争う欠航率の高い空港と言われます。その原因は、年間の平均風速が7.5m、10m以上になる日が年に90日という強風にあります。が、私はかなりの晴れ男なので、取材のため向かったこの日も普通に稚内空港へ降り立つことが出来ました。

取材は夜だったのですが、地元の方が空港まで迎えに来てくれ、時間まで市内をいろいろ案内してくださいました。最初に訪れたのは宗谷岬。言わずと知れた「日本最北端の地」です。

北緯45度31分22秒、現段階で日本人が到達出来る「日本最北端」がここです。岬の先端には「日本最北端の地」と書かれたモニュメントが建っています。

厳密に言うと、宗谷岬の西約1kmの沖合にある無人島・弁天島(北緯45度31分35秒)の方が北にあり、更に北方領土を入れれば択捉島のカモイワッカ岬(北緯45度33分28秒)が最北端ということになります。が、日本人が通常訪れることの出来る最北端は、紛れもなくこの宗谷岬ということになります。

風力発電

宗谷岬の南には、標高20mから400mまでのなだらかな丘陵地帯・宗谷丘陵が広がります。この丘陵は、2万年前の氷河期に、地盤の凍結と融解の繰り返しによって形成されたもので、こうした地形を周氷河地形と呼ぶそうです。宗谷丘陵は、明治時代に山火事によって樹木が消失。気温が低く強風が吹くため、現在も樹木が回復しておらず、樹木にさえぎられずに周氷河地形を確認出来る数少ない場所となっています。

この丘陵地帯はまた、日本最大級のウインドファームになっています。航空機を欠航させる原因ともなる強風に目を付けた稚内市によって事業がスタート。1998年に稚内風力発電研究所が2基の風力発電機を設置したのを皮切りに、次々と風車を増設。宗谷岬ウインドファームでは現在、57基の風力発電機が稼働し、稚内市の年間消費電力の約6割に相当する電力を発電しています。

更に宗谷丘陵以外にも風力発電の導入が進み、今では稚内市全体で84基、発電量にして約11万kwの風車が建設されています。そして、この風車による発電量は、稚内市の電力需要の120%に相当するのだそうです。

稚内市街地

宗谷岬の後は、稚内市の中心部へ入り、高台にある稚内公園で、市街地を望みながら稚内の概要などを説明してもらいました。この公園には、かつて日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑「氷雪の門」や、南極観測隊に同行した樺太犬を称える「南極観測樺太犬訓練記念碑」が建っています。犬ぞり隊編成のために稚内周辺から集められた樺太犬が、8カ月もの厳しい訓練を受けた地でもあり、記念碑はタロ・ジロの奇跡の生還を受け、稚内市が建立したそうです。

公園からは、稚内港と、その港を守る「北防波堤ドーム」も、はっきりと確認出来ます。稚内港は日本最北の港として、道北の産業や生活に関わる物流の拠点である他、沿岸漁業や沖合漁業の基地、利尻島と礼文島とのフェリー発着港としての役割を持っています。その左手にあるのが、北防波堤ドームで、稚内港の防波堤としての役割を担うと共に、桟橋から駅までの乗り換え通路を兼用するため、1931(昭和6)年から5年間をかけて建設されたものです。

北防波堤ドーム
古代ローマ建築を思わせる重厚で美しいデザインが、防波堤の外観としてはかなり異色で、北海道遺産にも指定されています。樺太へと渡る人々でにぎわった頃のシンボルでもありますが、太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊が注目され、テレビドラマやコマーシャルのロケに使われたり、さまざまなイベントに用いられたりしています。

その後、ノシャップ岬を超え、稚内半島の反対側を走る「宗谷サンセットロード」へ案内されました。その名の通り夕日の名所で、夕暮れ時には日本海に沈む夕日が感動的な瞬間を演出してくれます。真正面には礼文島と利尻島が望め、私が行った時には、ちょうど礼文島に大きな夕日が落ち、利尻富士の美しいシルエットと共にドラマチックな光景が展開しました。

夕日を待つ間、木で組んだものがあちこちにあるのが気になりました。聞くと、稚内は日本一の棒鱈産地で、木を組んであるのは真鱈の干し場とのこと。冬になると、納屋掛けといって真鱈をここに掛けて天日干しし、海からの寒風にさらしながら旨味を引き出すそうです。

いい棒鱈は、冬場に強い空っ風が吹く土地でないと出来ないと言われ、強風の地・稚内はその条件にぴったり。北海道沖の子持ち真鱈が、最もおいしくなる12月から3月頃までが棒鱈づくりの最盛期で、3カ月かけてじっくり干し上げます。すると、10kgの鱈が、1kgの棒鱈に仕上がり、釘が打てるくらい固くなるんだそうです。

江戸時代中頃、棒鱈は松前から北前船で北陸の港へ陸揚げされ、そこから陸路と琵琶湖を経て京都へ運ばれました。京都のおせち料理には棒鱈の甘辛煮が欠かせないといい、作られた棒鱈のほとんどが京都で消費されます。

以前、京料理の老舗「いもぼう平野家」さんの13代目ご当主に、お話を伺ったことがあります。「いもぼう」さんは、創業から一貫して芋と棒鱈の料理で300年前から続く老舗中の老舗です。

夕日

ここで13代目は、棒鱈は1週間から10日をかけて水で戻し、それを海老芋と一緒に30時間ほどかけて炊くと話されました。普通、30時間も炊いたら、芋が溶けて煮崩れしそうですが、そこについては次のような説明でした。

「芋は皮をむくと手がかゆうなる汁が出ます。あれは芋の灰汁(あく)です。これが棒鱈を柔らかくする。棒鱈の膠質(にかわしつ)が芋に染み込んで形を保つ役目をする。素材がそれぞれ持っている性質がうまく作用し合っている、出合いのものです。そうした出合いを利用した料理はニシンとナスといくつもあり『夫婦炊き』と言うてます」

稚内で棒鱈の干し場を見て、この話を思い出し、棒鱈づくりを「取材したいリスト」に入れました。が、稚内はやはり遠く、いまもってリストに入ったままになっています。

利尻島夕景

その夜、地元の皆さんと一緒に食事をさせて頂きました。その際、棒鱈は出て来ませんでしたが、鱈のかぶと煮が登場。また、稚内はミズダコの産地で、たこ焼きならぬ焼きタコやスモークタコなど、珍しい料理がいっぱい出て来ました。タコしゃぶも稚内発祥だそうで、利尻島ではカレーと言えばタコカレーだという話も聞きました。

翌日は次の取材で利尻島へ行く予定だったので、これは耳寄り情報。絶対に「本場タコカレー」を探してみようと決意した私でした。

コメント

  1. いきなり最北の地に飛んでしまったわけですね。北海道好きにとってはたまらないお話しでした。道北には何度も足を運んでいますが、名寄より北に行ったことはありません。名寄でしたよね?(笑)

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    1. そうなんです。関東近郊ばかりだったので、このままでは北海道や九州は当分出て来ないと思って、いきなり最北へ飛んでみました。

      ご一緒したのは、名寄が最北ですね。その次が士別かな。士別のジンギスカン、おいしかったですね。。。

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    2. 士別でジンギスカン食べましたか?サホークの羊は山ほど見せてもらいましたけど。私が忘れているのは、その後の旭川の○女バー 満月とモクモク煙の中で食べた羊の焼肉のせいかもしれません。

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    3. そっか。士別のジンギスカンは前日に、士別のAさんたちに連れられ、カメラマンのTさんとライターのSさんと一緒に行ったんでした。で、次に名寄にご一緒した際、士別で途中下車したものの、そこがたまたま休みで、結局、旭川でジンギスカンを食べたんでしたね。

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    4. 調べたら14年前の10月のことでした。

      馬場ホルモンの写真がありました。

      と言うことはジンギスカンではなく、ホルモンでしたね。

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