2011年3月11日 東日本大震災

東日本大震災一周年追悼式
東日本大震災一周年追悼式

10年前の2011年3月11日は、池袋で取材があり、地震の少し前に築地の事務所を出て、東京メトロ有楽町線で池袋へ向かっていました。地震の瞬間は、地下鉄の中も、ものすごい揺れで、私が乗っていた電車は、飯田橋駅と江戸川橋駅の間で緊急停車をしました。

もちろん、大きな地震があったのは、すぐに分かりましたが、詳しい情報がないまま、地下鉄の中で待つしかありませんでした。その後、15時過ぎにようやく運転を再開しましたが、時速5km以下でそろりそろりと移動。その段階で既に家内とはメールで連絡が取れていましたが、長男や長女、また築地の事務所がどうなっているかなどは、全く分かりませんでした。

東京スカイツリー 東日本大震災犠牲者追悼ライトアップ
東京スカイツリー 東日本大震災犠牲者追悼ライトアップ
20分ほどして、ようやく江戸川橋駅に到着したので、すぐに地上へ出ました。携帯電話はつながらないため、メールを入れますが、事務所のスタッフからは返信なし。事務所のある築地までは7km近くあり、一方、取材先の池袋は4kmほど。

地震の詳しい情報が分からなかったので、とりあえず、取材先の東京芸術劇場へ歩いて向かうことにしました。池袋には、16時過ぎに着きましたが、やはりというか取材を予定していたイベントは中止。しかも、東京芸術劇場がある池袋西口公園は、避難場所になっていたため、人であふれ返っていました。そんな様子もあって、その頃には、ただ事ではないと分かったので、次なる問題は、どうやって自宅に帰るかでした。

とりあえず池袋駅へ行きましたが、電車は全く動く気配がなく、挙げ句、JRは駅のシャッターを下ろして閉鎖するから、構内から退去するようアナウンスを始めました。その間にも、家族や友人、知人とはメールでやりとりし、情報を交換していましたが、誰も状況把握など出来るものではなく、結局、一人ひとりがその場で判断するしかありまでした。

JRに関しては、シャッターを閉めて乗客を閉め出すぐらいですから、全く期待出来ません。他の私鉄も、その段階では当然、動いていませんし、とりあえず運行を続けているバスで移動することにしました。ただ、池袋からどこ行きのバスが出ているのか、全く知らないので、まずバス乗り場周辺を歩いてみることにしました。

すると、目の前で浅草行きのバスが出発。しかも、その後ろにもう1台、浅草行きが停まっていました。そこで、このバスで浅草方面を目指し、そこから乗り継ぐなり、歩くなりすることにし、バスに乗り込みました。ちょうど、前のバスが発車したばかりだったので、車内には空席があり、席に座って発車を待つことが出来ました。


バスが出たのは17時過ぎ。帰る方向は国道4号沿いなので、まずは三ノ輪を目指すことにしました。何とか、池袋から移動することが出来たので、その辺りから、Twitterに投稿を始めていました。「取材予定のイベントが中止になり、いま池袋からバスで移動中(5:09pm/東京都豊島区東池袋1-39)」。で、これに対して数人の知人から反応があったので、「家はみんな大丈夫ですが、事務所の方は連絡が取れていません。携帯メールも反応なしで(6:01pm)」と返信。カメラマンの田中勝明さんからも、「バスがありましたね、電車は復旧見込みなしです。何とかしてうちに帰りたい(5:28pm)」と、返信が入りました。

田中さんの方は、私と入れ違いで築地に移動し、その後、東京駅まで歩いてバスを選択したようです。そして「東京駅からとりあえず錦糸町まで。乗るのに100m位の列です(6:25pm)」「列の三分の一あたりまで来ました。今、号外が配られてます(7:01pm)」「やっとこバスに乗れました(8:23pm)」「バスは全然動きません。地下鉄は徐々に運行開始しているみたいです(9:24pm)」「歩いた方が早いみたい。緊急車両も動けない(9:58pm)」

千住新橋を渡る帰宅難民

一方、私は予定通り明治通りの大関横丁でバスを下り、国道4号を歩き始めました。池袋から大関横丁まで、通常なら40~50分程度だと思いますが、この時は1時間40分ほどかかりました。そして「帰宅難民の群れと共に国道4号線を北上中(6:44pm/東京都荒川区南千住1-15)」とツイート。息子からメールが入ったので、徒歩で帰宅中と返信すると、「なるほど!元気やね・・・」と、息子は、八重洲の会社にとどまることにしたようです。私はと言うと、千住大橋で隅田川を渡り足立区へ入ったのが、19時少し前でした「イマココ(6:56pm/東京都足立区千住橋戸町66)」。

その後、電車の運行を確かめるため、いったん国道を外れ、北千住駅へ向かいました。しかし、この段階では電車は動いておらず、駅周辺は大勢の人でごった返していました。「北千住までは来たものの、バスは到底乗れそうにない(7:23pm)」。そこで再び歩き始め、人通りのない旧街道を通って、国道4号へ戻ることにしました。

途中、「槍かけだんご」で知られる「かどや」の先を左に曲がり、激安焼き鳥の「まるせん」を通過して少し歩いた所で、公衆電話を発見。財布の中にテレホンカードがあったので、自宅へ電話を入れてみました。すると、ちゃんとつながり、家族や親戚の動向を聞き、こちらは電車が動かないので、歩いて帰る旨を伝えました。受話器を置くと、テレホンカードが吐き出されましたが、通話料金はゼロでした。災害時には、公衆電話は無料になるんですね。


そして、この少し先で再び国道4号に出て、荒川にかかる千住新橋を渡りました。それが、19時40分ぐらいだと思います。この頃はauのSportioというガラケーだったので、あまりいい画質ではありませんが、歩きながら動画を撮っていたので、埋め込んでおきます。

その後は、「足立区役所通過(8:05pm/東京都足立区中央本町1-19)」「イマココ(8:25pm/東京都足立区竹の塚3-9)」「やっと草加に入った(8:49pm/埼玉県草加市瀬崎町)」と移動し、ついに草加駅到着。しかし・・・「いやあ、参ったな。。。草加駅まで来たけど、腹は減るし、トイレには行きたいし。が、店は全然開いてない。スタバも閉まってる。。。頼りはコンビニだけだ(9:26pm)」。ところが、そのコンビニもだめ。「コンビニにも食べるものは何もありませんでした。飲み物は冷えてるものばかりだし。。。自動販売機の方がいっぱい設置されている上、温かい飲み物もあって、本当にコンビニエンスなのはこちらの方でした。。。(9:30pm)」「事務所のスタッフは全員無事で、各自帰路に着いている模様。でも、事務所のパーティションが倒れたらしい(9:34pm)」。

旧日光街道 梅田交差点
千住新橋下の旧日光街道梅田交差点

そうこうして、何とか歩き続け、「外環越えた」のは10:22pm(埼玉県草加市旭町1-3)、「越谷に入った」のが10:35pm(埼玉県越谷市蒲生1-14)でした。で、ついに越谷駅前を通過し、「よし! 先が見えた(11:14pm/埼玉県越谷市越ヶ谷1-7-11)」とツイート。この後、家内が途中まで車で迎えに来てくれ、自宅に着いたのは23時33分。何とか11日のうちに帰って来ることが出来ました。

大関横丁から越谷までは、18kmほどですが、江戸川橋から池袋まで歩いたことや、途中、未練たらしく電車の運行を確認するため、北千住駅や草加駅で国道を外れ、何度か遠回りもしたため、歩行距離は28.4km、歩数は、3万6910歩でした。ちなみに、田中さんの帰宅は、12日の午前2時を回っていたようです。その段階でもまだ「ネクタイ姿の帰宅難民がたくさん。歩くより遅い車の渋滞もまだまだ続いています」と連絡をもらいました。

私は帰宅して初めて、現実を知ることになりました。「帰宅後、テレビのニュースを見て、被害の大きさに驚いた(また、余震だ・・・)。帰宅難民は情報難民でもあることが分かった。被災地には知人がいっぱいいる。無事だろうか(0:16am)」。

結局、地震発生から9時間余り、三陸沿岸で大変な事態になっていることを知らずにいたことは、かなりショックでした。更に、震災から10日ほど経って、被災地に入って、あの景色を見た時は、これは復興なんて無理なんじゃないかと暗澹たる気持ちになりました。そして、最初の取材から1カ月は、こちらが半分、被災地が半分という生活で、通勤するサラリーマンのスーツ姿を見ただけで、被災地とのギャップに泣きそうになったり、重機を見ては被災地を思い出したりという状態でした。

しかし、被災地に何度も足を運ぶ中、被災をした人たちから「必ず復興するから、その時はまた見に来てくれ」と言われ、どんなに長くかかっても、この人たちが望む生活を取り戻せるまで、出来ることをやっていこうと思いました。そのため、最初の2年は平均月に2~3回、次の2年間でも月1回はどこかの被災地に入って、被災された方の声を聞き、それを伝えるようにしてきました。その中で、お会いした方たちに恵まれたのでしょうが、被災地に行く度に、こちらが勇気と元気をもらうようになっていました。

昨年は、新型コロナウイルスの影響で、震災後初めて、被災地に一度も出向かない年になってしまいました。コロナ禍が収束したら、近いうちに必ず、大好きな三陸沿岸に伺いたいと思っています。

3.11帰宅マップ

コメント

  1. この日の記憶は曖昧です。私はポートアイランドで揺れを感じ、帰る時に神戸大橋が津波注意報が出て閉鎖される直前に渡ったこと、自宅に戻って当時は地理感がない中、津波の映像をやたら見せられ戸惑ったことくらいです。ただ、朧気ながら鈴木さんのTwitterを覚えていました。

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    1. 地震当日は、自分のことや家族、知人のことで精いっぱいで、震源地がどこなのかとか、大津波で大変なことになっていることなど、つゆ知らず、ある意味のほほんとツイートしながら歩いていました。でも、帰宅してから知った被害の大きさと共に、あの日のことは結構、記憶に残っています。

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