南三陸の復興を牽引する「さんさん商店街」
前のブログ(「がれきの町から踏み出した復興への歩み - 南三陸」)の続きです。震災まで南三陸の名前も知らなかった私ですが、震災後は、宮城県の中で、最も多く訪問した土地になりました。前回の記事で触れた4月24日の炊き出しに続き、5月18日には神戸のDHさんと編集部のK嬢と、また6月2日には石垣島のSYさんと編集部のK嬢、Y嬢と共に、7月31日には市川のYTさん、東京・世田谷のSYさん、そして編集部のK嬢と福興市を訪問するなど、ほぼ毎月、南三陸へ行き、その後も定期的に訪問していました。
福興市は、前記事で書いた通り、震災前、志津川のおさかな通り商店街で常に中心となってきた3人(山内鮮魚店・山内正文さん、及善商店・及川善祐さん、マルセン食品・三浦洋昭さん)が、町の復興の起爆剤にしようと企画したものでした。第1回は、4月29、30日の両日に、避難所となっていた志津川中学校の校庭で開催されました。
この福興市には、被災した多くの町民が駆け付け、震災以来、久しぶりに親しい人たちと再会し、抱きしめ合ったり、お互いのことを話し合ったりしました。山内さんたちが「市」を企画した根底には、失意のどん底にあった町民にとにかく集まってもらい、決して独りではないんだと感じてほしいとの思いがあり、町の復興はそこから始まると考えたそうです。
私も、福興市には4回ほど伺いましたが、中でも印象に残っているのは、2012年1月に開催された「寒鱈まつり福興市」です。
「寒鱈まつり」と言うと、日本海側の鶴岡市や酒田市など山形県庄内地方が有名ですが(「これなくして冬は語れない - 庄内の郷土料理・寒鱈汁」)、南三陸町でも以前から「南三陸志津川寒鱈まつり」として開催されていたそうです。かつては、志津川湾の冬の主力は「真鱈」で、漁師は手こぎの木製船でタラ漁を行っていたとのこと。そんな志津川の冬の風物詩が、福興市と結び付いて開催されたのが、「寒鱈まつり福興市」でした。
震災翌年の1月は、まだ仮設商店街が出来ていなかったので、会場はベイサイドアリーナ前でした。駐車場に車を入れ、会場に一歩足を踏み入れた途端、まず出会ったのが、山内鮮魚店のブースに吊されたタラたち。サケは卵を持つメスが人気ですが、タラは白子のあるオスの方が人気なようです。で、これが、「福まき大会」といって、復興市の中で行われる餅まきの際、30本アタリが出るというのです。そこで、すぐその気になってしまう私、うちの奥さんは魚をさばくの苦手だし、当たったらどうしよう、と早くも心配を始めました。もちろん、餅を取らなければいいんですが・・・。そして、今回のハイライト、「福まき大会」がスタート。餅まき役は、佐藤仁町長、山内実行委員長、及川副実行委員長、三浦事務局長らが務めました。私はというと、写真を撮るか餅を取るか悩んだ結果、途中でカメラをしまい、餅の確保に走りました。その結果、餅を3個ゲットしましたが、「心配していた」アタリはありませんでした。私の隣のおじさんは、見事アタリ入りの餅をゲット! 寒鱈1本お持ち帰りとなりました。
復興市の中心となった山内さん、及川さん、三浦さんは、石巻の記事(「十三浜ワカメに焼きハゼ、石巻焼きそば、そして鯨の刺身」)で紹介した「セキュリテ被災地応援ファンド」を通じて資金調達を図る一方、国の第1次補正予算によるグループ補助金を受けて工場を再開。同じく水産加工品の製造販売を手掛ける伊藤株式会社を加えた4社共同で、製氷工場を運営する新会社も作りました。そして「寒鱈まつり福興市」の1カ月後、震災から1年を前にした2012年2月25日には、仮設の南三陸町福興名店街「南三陸さんさん商店街」もオープン。商店街には、飲食店や魚屋、酒屋、衣料品店など生活に密着した30店が出店しました。
その中には、南三陸の追跡取材で親しくなった方たちも、何人か入っていました。「デイリー衣料 アベロク」の阿部英世さんや「雄新堂」の阿部雄一さん、「佐良スタジオ」の佐藤信一さんに、「山内鮮魚店」の山内さん、「及善商店」の及川さん、「マルセン食品」の三浦さんです。「アベロク」では、南三陸の復興タオルやエコバッグを購入、エコバッグは今もほぼ毎日、近所のスーパーへ行く時に使用しています。
洋菓子店「雄新堂」を営む阿部さんは、仮設商店街で焼きたてパンの販売を始めました。震災前は洋菓子専門店でしたが、避難所にいる時、父親の代にやっていたパンを懐かしんで話しかけてくれたお客さんがいたこと、また配給のあったパンをおいしそうに食べる人たちの姿を見て、洋菓子に加えてパン作りにも挑戦することを決意。一関市にあるベーカリーでパン作りを学びました。10月に入ると、NGOピースウィンズ・ジャパンの支援で提供された移動販売車で販売を開始。朝2時に起きて車で1時間余りの一関へ向かい、3時半から作業、10時半には焼き立てのパンを車に積み、昼食時までに町へ戻るという日々を年末まで続けました。
「さんさん商店街」に入ってからは、毎朝4時前に工場に入ってパンを焼き、その後は洋菓子作りと、寝る暇もない忙しさ。レシピが流され、以前と全く同じというわけにはいきませんが、町の人たちにとっては懐かしいお菓子です。あの日、一緒に津波から逃げた若い従業員は、一人は出産のため、もう一人は震災の後に心を病んで、退職しました。店の再開に当たって新たに二人の従業員を採用しましたが、どちらも自分と同じ50代。商店街の他の店でも、求人を出しても若い応募者がないと言います。震災前は約1万8000人の町民がいましたが、今は1万2400人ほど。住所は残したままで町外に住む人もおり、実際にはもっと減っていると言われています。
講談社出版文化賞を受賞した写真集『南三陸から』で知られる佐藤信一さんも、若い世代の流失を実感しています。佐藤さんは、震災当時、志津川小学校のPTA会長を務めていました。志津川小学校には450人の児童がいましたが、震災の後は200人に減少。夏休みが終わる前に仮設住宅が完成したものの、戻ってきた子どもは50人もいませんでした。
佐藤さん自身は、町を離れるつもりは全くありません。商売道具のカメラバッグ一つを持って写真館から避難し、「復興を遂げるその日まで町の姿を記録する」と、心に決めました。ただ、日が経つにつれ、ファインダー越しに見つめる町の人たちに、不安の色が濃くなるのを感じています。1年目は、全てを失い落ち込みはしても、負けずにがんばるぞという気概がありました。たくさんの支援を受けて、何かやれるんじゃないかという高揚感も感じられました。それから時間が経ち、厳しい現実が目の前に迫ってくると、この状況がいつまで続くか、長いトンネルに入ったような感覚を誰もが感じていると言います。
そんな中、「さんさん商店街」は、予想以上に順調なスタートを切りました。オープン当初は、この忙しさで体がもつのかと皆が心配したほどでした。しかし、冬場は客足が減り、そうなると不安が込み上げてきます。そこで商店街では、深刻な状況になる前に、早めに対策を講じました。
そうした最中、チリ津波地震のつながりで交流してきたチリから、モアイ像が届きました。チリ津波があった1960年、防災と友好の証しとしてチリからモアイ像が贈られ、町のシンボルとして町民に愛されてきました。しかし、東日本大震災で像の頭部が流出。 2012年3月、南三陸町を訪れたチリのセバスティアン・ピニェラ大統領が新たな像の寄贈を約束し、その後、イースター島の石工が制作を続けて、2013年になって日本にやって来ました。
イースター島以外で本物のモアイを見られるのは世界でただ1カ所、この南三陸さんさん商店街だけです。イースター島代表や駐日チリ大使も参列して行われた贈呈式の席上、佐藤仁町長は、「モアイは後世に震災の記憶を伝承する象徴。多くの善意が詰まったこの像を、町民みんなで大切にしていきたい」と語りました。このモアイ像の宣伝効果は絶大で、一時減少していた観光客が、モアイの登場後は増加に転じました。その後、南三陸町では復興事業が本格化。2015年には、津波で壊滅した宮城、岩手両県の六つの公立病院で初めて、南三陸病院が本格復旧。翌16年には、震災以来、佐藤町長が「まずは・・・」と口癖のように言い続けてきた優先案件「住宅再建」が大きく前進。宅地造成850戸、災害公営住宅730戸が完成しました。また、17年3月3日には、「南三陸さんさん商店街」が本設でオープン。更に基幹産業である水産業では、震災前の水揚げ量を上回るなど、着実に復興が進みました。
2016年7月にお会いした際、佐藤町長は、南三陸病院のことに触れ、「新病院の建設には56億円を要しましたが、そのうちの22億円は台湾からの義援金でした。東日本大震災では、台湾を始め世界中の方々から大きな支援を頂きました。我々がこうしていられるのも、皆様からのご支援のたまものです」と話しておられました。そして、その気持ちを実際に伝えるため、佐藤町長は2019年6月から、復興御礼のため全国行脚を始めました。
関係している団体に対しても、感謝状を下さるという連絡を受けたのは、志津川小学校の元PTA会長で阿部藤建設社長の藤谷廣司さんからでした。その後、藤谷さんを通して日程調整をし、佐藤町長が東京・京橋のオフィスに来られたのは、東日本大震災から8年8カ月を迎えた2019年11月11日のことでした。
その際、佐藤町長は、「10年間の震災復興計画を完遂出来る見通しが立ちました。ここまで来られたのは全国、そして世界中の皆さんからご支援頂いたおかげです。『かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め』と言われますが、感謝の気持ちを何とか皆さんにお届けしたいと考えました。そこでまず職員を派遣してくださった自治体は全て回ろうと考え、それで100件。次に各課の課長から今まで受けた支援をリストアップしてもらいました。これが約3000件に上り、その中から特に功績があった個人や企業、団体、それに支援を頂いた国の大使館など約120件を選ばせて頂き、震災10年となる2021年3月までに、北は北海道から南は沖縄まで全国220カ所を訪問させて頂くことにしました」と、話されました。
この時、感謝状を受け取ったのは、2011年6月に一緒に南三陸を訪問した石垣島のSYさんでした。SYさんは翌年にも南三陸を訪れ、戸倉地区の仮設住宅で寸劇を披露したり、沖縄菓子を配ったりしながら、被災された方たちと交流しました。その際、沖縄県恩納村の方たちも同行されていたのですが、南三陸と恩納村は、以前から交流があるそうで、佐藤町長も震災前、恩納村を訪問しており、その時にお会いしていた方と再会を喜び合っていました。
ちなみに、戸倉の仮設住宅訪問の際、沖縄からの訪問団をマイクロバスで案内してくださった星喜美男さんは、震災前、戸倉地区で民宿を営んでいました。しかし、民宿は津波で流され、今は高台で「今度は居酒屋だよ 日の出荘」と、業態を変えて営業されています。
「日の出荘」は、ランチ営業もされており、私はここでアジフライ定食を頂きましたが、客の9割は男性らしく、一番人気は焼き肉定食だとか。なお、沖縄の方たちを戸倉地区の仮設住宅に案内してくれた時のマイクロバスは、津波被災から免れたもので、今は団体さんの送迎に活用しているそうです。※コロナ禍の中、現在はテイクアウトも実施されています。
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