これなくして冬は語れない - 庄内の郷土料理・寒鱈汁
山居倉庫は米どころ庄内のシンボル的存在で、間口13.6m、奥行き約29mの建物が12棟連なっています。そのうち9棟は現役の米保管倉庫となっており、現在は最新空調システムが付いていますが、建てられた当時は土木建築技術の粋を集め、庄内の気候に合わせた機能性を持たせていました。その一つが、倉庫内を一定の温度に保つための二重屋根で、他にも土蔵と屋根の間を空けることで温度と湿度が急激に上昇するのを防ぐなどの工夫が凝らされていました。また倉庫裏にあるケヤキ並木は冬の風雪から倉庫を守るために植えられたもので、夏には生い茂った葉が西日をさえぎる役目を果たします。
ちなみに山居倉庫は、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」の舞台としても知られます。「おしん」は平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%という驚異的な数字を記録し、世界68カ国で放映されるなど、テレビ史に残るヒットとなりました。
そんな酒田市へ行ったのは、2017年1月27日のことでした。酒田までは飛行機を使った方が若干早いのですが、自宅からだと上越新幹線で新潟を経由しても、30分程度しか違わないので、金額的には半分以下のJRを使うことにしました。北へ向かう新幹線の場合、私は上野か大宮から乗るのですが、この時は大宮から乗車。新潟までは約1時間15分、新潟からは羽越本線の特急いなほで酒田へ向かいます。新潟から酒田までは、2時間少々ですが、この日は強風の影響で列車が遅延。途中で停車したり徐行したりで、酒田到着は50分ほど遅れました。2005年12月25日に、この区間で強風によって乗客5人が亡くなる脱線事故があってから、強風時の運行にはかなり慎重になっているようです。予定していた取材があったため、やきもきしましたが、地元の方が駅で待機していてくださり、酒田に到着後、その方の車で取材先へ直行。無事に仕事を終えることが出来ました。ちなみに、酒田駅には全国でも30余りしかない「0番線」があります。かつての国鉄では、駅業務を行う主要な建物に近いホームを1番線とし、建物から離れる従って2番線、3番線としていました。しかし、後になって1番線より建物側にホームを増設した場合、この法則が崩れてしまい、仕方なく「0番線」にしたり、1番線の先端を切り欠いた所へ新規のホームを設置した時に「0番線」にしたりという具合で、「謎の0番線」が誕生したようです。
話が逸れましたが、その日の取材は、庄内出羽人形芝居を継承する人形師・津盛柳貳郎(齋藤均)さんにお話を伺うものでした。ちょうど特別養護老人ホームで訪問公演をするというので、それに合わせて時間を設定していたため、もう少し遅れたら、演目を見ることが出来なかったわけで、ぎりぎりセーフといった感じでした。
齋藤さんは、はたちの時から人形師・津盛柳太郎の下で修行を積み、30歳で津盛柳貳郎を襲名。庄内出羽人形芝居で、クラーゲンフルト国際人形劇祭特別賞(オーストリア)、マリボル夏の国際人形劇祭グランプリ(スロベニア)、庄内文化賞などを受賞しています。
齋藤さんによると、山形と秋田にまたがる鳥海山のふもとに百宅という集落があり、そこの池田与八という人が、明治の中頃に人形芝居を創始したそうです。これが庶民の娯楽として定着、最盛期には60を超える一座が、東北を始め北海道や関東甲信越で活動していたと言われます。しかし、娯楽の多様化と共に衰退し、最終的には名人と呼ばれる数人が、一人で2体の人形を操る「一人遣い」の演目と共に残りました。先代の津盛柳太郎もその一人でした。
定期公演があるわけではなく、地元でも知らない人がいるほどだと齋藤さんは話していましたが、最近は市内の小学校に出羽人形芝居クラブが出来るなどの動きもあり、「東北で生まれ受け継がれてきた人形芝居ですから、子どもたちが興味を持ってくれるとうれしいですね」と、次世代への継承に期待を寄せていました。
この翌日には、齋藤さんが所属する団体も関係する寒鱈まつりがあり、これも取材することになっていたため、その日は酒田駅前のホテルに泊まりました。当時は、ホテルイン酒田駅前という名前でしたが、昨年9月で閉館し、現在は地域密着型のコミュニティホテルを標榜する「月のホテル」になっているようです。
夕食は、遅延していた特急電車で時間を持てあまし、あれこれ検索する中で引っかかった、酒田駅近くのレトロな店「大木屋」さんで中華そば、の予定でした。しかし、店先に貼り紙がしてあり、体調不良で休みとのこと。店構えからして、恐らくかなりお年を召した方がやっているのだろうことは推察出来たので、致し方ないと諦めました(後日、ちょうどその頃に閉業されたとネットの記事で知りました)。
とはいえ、夕食にはありつきたいと駅の方へ行くも、その日は例の強風が吹き付けています。あまりの冷たい強風に恐れをなした私、結局、ホテルに一番近い居酒屋へ退避。その店「おばこ」は、おばあちゃんが一人で切り盛りする店でした。子どもの頃、母方の従兄弟や従姉妹たちが、叔父と内縁関係にあった女性を「おばこ」と呼んでいたので、私もいつしかその女性を「おばこ」と呼ぶようになりました。そして「おばこ」とは、「叔母」の方言か何かだろうと子ども心に想像していました。
その後、「庄内おばこ」や「秋田おばこ」という民謡があることを知って、東北地方の方言なので、相馬出身の母たちの子ども(従兄弟たちは全員東京生まれでしたが)も「おばこ」と呼んでいたのだろうと独り合点したものです。ただ、小さい頃に植え付けられた「おばこ」=「おばさん」という思い込みはそのまま継続。後に「おばこ」の本来の意味が「少女」や「娘」だと知った時には衝撃を覚えました。
で、おばあちゃんが看板娘となっている「おばこ」で、酒田の地酒「初孫」を頂きながら、ハタハタの干物や、かなりおいしかった「もつにこみ」などを食べてきました。私は頭からハタハタにかぶりついたのですが、すかさず女将さんから「頭は骨が多いから、尻尾から食べて頭は残すのよ」とダメだしが・・・。むむむ、逆だったのね。。。
シメには、「べんけいめし」を注文してみました。最初、どんな料理か知らず、ネーミングからして量が多いのではと心配になったので聞いてみると、庄内では焼きおにぎりを「べんけいめし」と呼ぶそうで、「おばこ」でこれを頼むのはほとんどが女性とのこと。そのためあまり大きくせず、具には「べんけいめし」としては珍しく鮭を入れていると説明してくれました。
さて翌日は、朝早くから「酒田日本海寒鱈まつり」の会場へ。魚偏に雪と書くだけあり、厳冬期のタラは産卵のため丸々と太って脂がのり、特に「寒鱈」と呼ばれます。山形県の日本海沿岸、庄内の冬を代表する郷土料理が、この季節のタラを使った寒鱈汁で、庄内では「寒鱈なくして冬を語ることは出来ない」とまで言われます。
海も荒れる大寒の頃になると、庄内地方では「寒鱈まつり」と銘打って、あちこちで冬の一大イベントが開催されます。回数から言うと、酒田日本海寒鱈まつりが今年で第34回、鶴岡市の鶴岡日本海寒鱈まつりが第33回、遊佐町のゆざ町鱈ふくまつりが第26回となっています(ただし今年は新型コロナ感染拡大の影響で、酒田と遊佐は中止、鶴岡はテイクアウトのみで実施となりました)。
酒田日本海寒鱈まつりでは、地元商店街や水産物協同組合などが、それぞれ独自の味付けで寒鱈汁を提供します。私が取材させてもらった団体は、2004年から毎年出店している常連で、こちらの寒鱈汁は、寿司屋の大将直伝のレシピで、昆布だしに味噌、ネギを加え、隠し味に酒粕を入れているそうです。
その味を知っている地元の人たちは、自宅から鍋やタッパ持参で買いに来るほど。1日約400食を用意しますが、毎回2時間ほどで完売。また、タラコをしょうゆ漬けにした「鱈子入り海苔巻」と、エビとだだ茶豆のつみれ入り寒鱈汁うどんも大好評で、これらのサイドメニューも含め、2日間で延べ1200食を売り上げるとのこと。
当日は、三つの鍋を用意。第一の鍋で具を湯通しした後、汁が入った第二の鍋で味を染み込ませ、具を器に盛った後、第三の鍋から熱々の汁を注ぎます。そして最後に風味豊かな岩のりを添えて出来上がり。私もご相伴にあずかりました。
ところで祭りでは、宮城県南三陸町からも出店があり、山内鮮魚店や及善蒲鉾、たみこの海パックなどの商品が並んでいました。「寒鱈まつり」と言うと、酒田市や鶴岡市など山形県の庄内地方が有名ですが、南三陸町でも以前から「南三陸志津川寒鱈まつり」として開催されていました。かつては、志津川湾の冬の主力は「真鱈」で、漁師は手こぎの木製船でタラ漁を行っていたとのこと。そんな志津川の冬の風物詩が、震災後に福興市と結び付いて開催されているのが、「寒鱈まつり福興市」です(南三陸の復興を牽引する「さんさん商店街」)。
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