「までい」を合言葉にした村づくり - 飯舘村

道の駅「までい館」

東日本大震災直後、飯舘村は津波の被害が大きかった沿岸部から、約4000人の避難者を受け入れました。その後、原発事故により、村内が高濃度の放射能に汚染されていることが判明。政府により、計画的避難区域の指定がなされ、全村避難が決まりました。

ただ、計画的避難に伴う避難者の第1陣が離村したのは、原発事故から既に2カ月以上が経過した5月15日のことでした。飯舘で生まれ、ずっと村で生活をしてきた渡邊守男さんは、当時のことを次のように話していました。

飯舘村
「震災後、飯舘は停電こそしていましたが、建物の倒壊や道路の亀裂は見られず、自宅もさほど大きな被害は受けていませんでした。困ったのは、買い物をしようにも店に品物が無いこと、そして情報が入らないことでした。12日の午後3時頃、福島第一原発の1号機が水素爆発を起こしたのも、詳しくは分からずにいました。

村では6カ所の避難所を設営し、村の人々が米や野菜を持ち寄り、浜通りの人たちのために避難所を運営していました。そんな中、14日の午前11時頃に原発の3号機が、翌15日の朝6時頃には2号機と4号機が水素爆発を起こしました。この時、漏れた放射能物質が、風で飯舘から福島方面へ広がり、それがみぞれとなって村に降り、土壌に染み込んだのです。

しかし、国も県も村も、飯舘への避難指示は出しませんでした。その一方、浜通りから避難してきた人たちには、どこからか情報が入ったのか、あっという間に避難所から人が消えました。私も知人が避難されていたので訪ねてみたところ、その時はもうどこかへ行かれた後でした。我々はと言えば、村民の不安を感じた村長が栃木県に依頼し、19日になって初めて約500人が集団自主避難をした他は、ほとんどの人が村に残っていました」

政府が、放射線量が年間積算20ミリシーベルトに達する恐れがあると、飯舘村全域を「計画的避難区域」に指定したのは4月22日でした。以下は、震災時を含め6期を勤め上げ、昨年10月に退任された菅野典雄前村長の述懐です。

「政府からの指示は、おおむね1カ月以内に住民全員が避難せよというものでした。これを聞いて、私の頭に浮かんだのは、村をゴーストタウンにしたくないということでした。もちろん住民の健康が大事ですから避難はしますが、何らかの動きを村に残しておきたい。そうすれば後々、村に戻ることが容易になるのではないか。

除染作業中
特に気がかりだったのが、特別養護老人ホームのことでした。お年寄りは身体的にも精神的にも環境の変化に適応する能力が減退しているので、その影響が出ることが心配でした。実際、先行して避難させられた原発20km圏内の自治体では、多くのお年寄りが、転院を重ねて体調を崩したという話を聞いていました。

調べてみると、同じ場所でも室内は線量が低いことが分かりました。そこで、生活することはだめだとしても、室内で介護を受けるお年寄りや、日中における工場内での仕事など、ケースを限定してこれまで通りの活動を継続させてほしいと、政府に要望しました。

最初は政府もなかなかOKを出してくれなかったのですが、最終的には渋々という感じで承認してくれました。その結果、100人以上のお年寄りが入所する老人ホームの存続と、九つの事業所への通勤が認められました。放射能のリスクと同時に、生活変化のリスクも考慮しなくてはいけないというのが、私たちの基本的なスタンスでした」

全村避難に当たって、国から提示された移転先は長野県に600戸、山梨県に300戸など、福島からはだいぶ遠方の地域ばかりでした。飯舘村は、原発事故により避難指示を出された自治体としては後発組となるため、近くの福島市や郡山市など県内のアパートは、先行して避難した市町村の人たちでほぼ埋まっていました。

実は、私の長男は当時、賃貸住宅仲介会社の本社でフランチャイズの仕事をしていたのですが、原発避難者のアパート確保のため、応援部隊として郡山に赴任していました。ちょうど、入進学や入社、転勤などの移動シーズンと重なったこともあり、物件供給数が、借手需要に全く追いつかず、大変だったようです。

そうした中、飯舘村では、役場職員の皆さんが、朝から晩まで、あちこちを回り、何とか村から1時間か1時間半の圏内で避難先を確保。また、避難住民らを飯舘村の臨時職員として採用し、留守宅などをパトロールする「いいたて全村見守り隊」を結成しました。見守り隊には、約350人の村民が参加。避難した当初は不安ばかりだったという渡邊さんも、見守り隊に入り村のパトロールに出掛けるようになって、力が湧いたそうです。

帰還困難区域ゲート

飯舘村には、震災後4回取材に入りました。最初に行った時は、まだ若干線量が高く、除染が終わったと聞いていた役場前のモニタリングポストでも、毎時0.60マイクロシーベルトを表示していました。一方、帰還困難区域のゲート前で、持参した家庭用放射線測定器のスイッチを入れたところ、毎時4.20マイクロシーベルトと、かなり高い値になりました。

飯舘は、内陸部と沿岸部を結ぶ道路が通っているため、車の通行量が多く、防じんマスクを着けた作業員の方が、補修作業に当たっていました。そこから少し離れた除染作業の現場では、完全防護服に身を包んだ人たちが作業を実施。そしてその側を、普段着の村人が歩いているという、不思議な光景が展開していました。

それから1年半ほど経った頃に、再度、飯舘村へ行った時は、私が歩いた範囲だけですが、最も高い場所で毎時0.82マイクロシーベルトと、除染が確実に進んでいるのだろうと推察しました。最後に訪問したのは、帰還困難区域となっている長泥地区を除き、飯舘村の避難指示が解除された2017年のことでした。私が行ったのは、避難指示が解除されて4カ月ほど経った頃でしたが、実際に帰村した人は、村民の1割にも満たない約400人という状態でした。

飯舘村 ゑびす庵

この時、6年ぶりに避難前の店舗で営業を再開した手打ちうどんの「ゑびす庵」で、野菜たっぷりの五目うどんを頂きました。これは、その1カ月ほど前、当時の安部首相も食べたそうで、「ゑびす庵」の人気メニューになっています。

「ゑびす庵」は、全村避難中、飯舘村から45kmほど離れた福島市荒井で営業をしており、そちらには編集部のK嬢がお邪魔したことがありました。店はご主人の高橋義治さんと、店主のちよ子夫人、それに次男の均さんの3人で切り盛りされていました。帰村者が少ないため、赤字覚悟で戻って来たとおっしゃっていましたが、飯舘村唯一の飲食店として、村外から食べに来てくれる人が予想以上に多く、店は連日大盛況となっていました。そのため、「本来ならパートを雇用したいところですが、働いてくれる人が無く、現在はメニューを減らして昼食のみの営業としているんです」と、高橋さんは話していました。

飯舘村 ゑびす庵 五目うどん

同様に人手不足に悩んでいたのは、特別養護老人ホーム「いいたてホーム」(三瓶政美施設長)でした。「いいたてホーム」は、前村長の述懐にあるように、全村避難後も村内で事業を継続、入所者の世話を続けました。利用者は、震災前の112人から34人と大幅に減っていましたが、実際には入所希望者がいるにもかかわらず、人手不足により受け入れることが出来ないのだ、と三瓶さんから伺いました。職員は震災前の140人から58人にまで減少。そのためデイサービスを再開出来ず、それが、村民の帰還を妨げる要因の一つにもなっていました。

道の駅「までい館」

ただ、明るい話題もあり、私が訪問した数日前の8月12日、県道12号・原町川俣線沿いに、道の駅「までい館」がオープンしました。敷地面積約1万6000平方メートルに58台分の駐車場の他、花卉展示販売ホールや軽食コーナー、コンビニなどを備え、国土交通省の重点道の駅に選ばれています。村では、この道の駅周辺を、帰村者支援や産業再生の拠点とするという話でした。

また、避難指示解除後の5月から、村民限定で宿泊業務を再開した「宿泊体験館きこり」(佐藤峯夫総支配人)で、村外からの宿泊客の受け入れも始まりました。きこりは本館とコテージ、自然体験学習館で構成され、本館は宿泊、実習、研修、浴室の4棟から成っています。宿泊棟には8部屋あり、コテージ3室と合わせ最大48人が宿泊出来ます。まだ素泊まりのみで、食事の提供はありませんが、飲食物の持ち込みは可とのことです。

飯舘村 宿泊体験館きこり

 ◆

飯舘村では「までい」を合言葉に村づくりを進めてきました。「までい」とは福島の方言で、「手間暇を惜しまず」「丁寧に」「心を込めて」「時間を掛けて」「じっくりと」「つつましく」といった意味があります。そして、飯舘の村人たちは、これを、小さい村の生き残り策だと思ってやってきたといいます。しかし、東日本大震災に遭ってみると、日本そのものにも通じる考え方だと思うようになった、と菅野前村長は話していました。

「自分のため、自分の家族のため、自分の仕事のためだけに時間を使うのではなく、他人のためにも時間を使う。数えられる豊かさだけではなく、これからは数えられない豊かさも求められるようになると思うのです。成長だけが全てではなく、成熟社会の中でどう成長してくかということを考えていくべき時代になっているのではないでしょうか。

飯舘村 村民歌

『までいライフ』の根底にある『お互い様』という気持ちを大切にし、安心出来る日本を次の世代にバトンタッチしてもらえれば、復興への長い道のりを歩む私たちも勇気が湧き、がんばれると思っています」

東日本大震災から10年、いま日本ばかりか世界中が、新型コロナウイルスに覆われている中、この菅野前村長の言葉が胸に染みます。

飯舘村 心和ませ地蔵


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