二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街
本土寺のアジサイ |
松戸市は千葉県北西部、ここより西は江戸川を挟んで東京都と埼玉県になります。古くは水戸街道の宿場町として栄え、江戸や水戸との関わりが深く、将軍家や、水戸黄門こと徳川光圀など水戸藩の藩主が鷹狩りに訪れていたようです。
松戸市の北端に近い長谷山(ちょうこくさん)本土寺には、徳川家康の側室・秋山夫人の墓があり、その墓石は、光圀が建立したと伝えられています。秋山夫人は、甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、家康との間に生まれた信吉は、武田氏の名跡を継ぎ武田信吉を名乗りました。信吉はその後、家康の関東移封に従って、下総国小金城3万石(現在の松戸市)へ移り、この時、松平姓に復し、松平信吉と改名しました。
本土寺 |
以前のブログ(私のルーツ旅 水戸・常陸太田編)でも触れましたが、信吉は、出羽に転封となった佐竹氏に代わって常陸に入封。が、その翌年、21歳の若さで病死してしまいます。次に水戸へ入った家康の十男頼宣も、間もなく駿府、紀州と転封となり、紀州徳川家の祖となります。頼宣の後は、その弟で家康の十一男頼房が入封。この頼房以降を水戸徳川家と呼び、水戸徳川2代目が、頼房の三男光圀となります。
光圀にとって秋山夫人は、叔父である信吉の母という間柄ですが、信吉は水戸徳川家の藩祖というわけではありません。しかし、儒教に強い影響を受けていた光圀は、父頼房の兄で、最初に水戸へ入った信吉にも、礼を尽くすべきと考えたのかもしれません。
本土寺は、JR常磐線北小金駅から歩いて10分ほど。駅から寺へ向かう道は、松と杉の並木が続く参道で、これらの木々は光圀が寄進したと伝えられています。本土寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、初夏には1万株のアジサイや5000株のハナショウブが咲き誇ります。また、春は桜、秋には紅葉が境内を彩ります。
松戸は、最初に書いたように、江戸川を挟んで東京、埼玉と接しています。市の最も南にある矢切には、細川たかしのレコード大賞受賞曲でも知られる「矢切の渡し」があります。矢切の渡しは、江戸初期、利根川水系河川の街道筋15カ所に徳川幕府が設けた渡し場のうちの一つ。松戸市の矢切と東京都葛飾区の柴又とを結んでいます。現在、東京近辺で定期的に運航されている渡しは、この矢切の渡しだけになってしまいました。
矢切の渡し |
対岸の柴又側にある船着き場は、寅さんでお馴染み帝釈天の裏手に当たり、観光客も結構、渡し船に乗りに来ます。そういう人たちは渡し船そのものが目的らしく、矢切側に着いても船からは降りず、そのまま柴又へ帰って行きます。
確かに、矢切の船着き場を上がっても、河川敷のゴルフ場以外何もありません。河川敷の土手の向こうも、あるのは一面のネギ畑だけ。が、この矢切は伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の舞台となった場所でもあり、船着き場から歩いて20分ほどの西蓮寺の境内に、その文学碑が建っています。
『野菊の墓』は、1906(明治39)年に、俳誌『ホトトギス』に発表されました。『ホトトギス』はもともと正岡子規が始めたものですが、子規の没後、高浜虚子が引き継いでいました。『野菊の墓』は、やはり『ホトトギス』に発表した『我が輩は猫である』で空前の大ヒットを飛ばした、夏目漱石から「自然で、淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があって(中略)あんな小説ならば何百ぺん読んでもよろしい」と称賛されました。
小説の舞台となったのは松戸市矢切周辺で、矢切の渡しは、小説の冒頭、「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所」という一節があり、これによって、その名が広く知られるようになったと言われています。
そんな松戸の名産の一つに、白玉粉があります。全国シェア30%を占め、日本一の生産高を誇っています。
松戸駅にほど近い旧水戸街道沿いに本社がある川光物産は、玉三のブランドで知られる古くからの白玉粉メーカーです。もともとは米問屋でしたが、得意先の一つの廃業に伴い「玉三」の商標と共に会社を継承、白玉粉の製造にも乗り出しました。
白玉粉の製造(川光物産) |
白玉粉は中国から渡来し、平安・室町貴族に愛用されたと伝えられています。庶民に食されるようになったのは江戸期に入ってからで、「玉三」の玉屋三次郎は、元禄時代に白玉粉の製造を始めたと言われます。白玉粉の原料はもち米ですが、江戸川流域で古くから良質なもち米が作られていたことから、松戸での白玉粉作りが始まりました。
よく江戸を舞台にした落語などで、白玉売りが出てきます。担ぎ売りで、白玉を水桶に浮かべ、一椀四文で砂糖をかけて売っていました。江戸っ子はトコロテンや白玉が大好物で、白玉売りを見かけたら前を素通り出来ないほどだったらしく、白玉はまさに江戸の夏の風物詩だったようです。
今ももちろん、氷白玉など江戸時代と同じような食べ方もありますが、ぜんざいやみつまめなどの甘味類、更には大福や求肥等、和菓子の材料として幅広く使われています。また、最近では即席白玉や冷凍白玉など、手軽に食べられるものも製造されています。
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松戸市の東郊、二十世紀が丘として区画整理がされ住宅地となっている丘陵地の一角に「二十世紀梨原木記念碑」があります。二十世紀梨というと、鳥取県の名産として知られますが、実はその原木は松戸で芽生え、育成されたものでした。
1888(明治21)年、松戸覚之助という少年が、近所のゴミ捨て場で2本の梨の苗木を拾いました。少年の父は松戸で梨園を経営しており、その苗木は虚弱だということで捨てたものだったようです。
小暮梨園 |
苗木を家に持ち帰った少年は、見よう見まねで木を育て始めました。が、父が一度は捨てただけあって、病気にかかりやすく、果実もよく実りませんでした。それでもあきらめずに、さまざまな肥料を施しながら育てたところ、なんと10年目になって、ようやく成熟梨が実りました。
恐る恐る食べてみると、心地よい甘みと水分を持ったすばらしい味でした。しかも、それまでの梨に比べ、芯が小さく果肉が多い。これはすごいと大騒ぎとなり、青梨新太白の名で売り出されました。
その後、1904(明治37)年、東大助教授らが、「これぞ20世紀最高傑作」として二十世紀梨と命名。それが、鳥取を始め全国に広がっていきました。
二十世紀梨の原木は35年(昭和10)年に国の天然記念物に指定されましたが、44年に本土空襲で焼夷弾にやられ、残念ながら47年に枯れてしまいました。枯れ木はその後、保存処理され、松戸市博物館に保管されています。
高橋農園の完熟イチゴ |
現在も松戸や市川、鎌ケ谷など東葛飾地方には梨園が多くあります。栽培しているのは主に幸水や豊水ですが、いずれも二十世紀梨を片親として生まれたもので、二十世紀梨は進化しながら、今もルーツ松戸で生き続けています。
松戸市金ケ作にある小暮梨園のオーナー小暮一政さんは、「梨は病気に弱いため非常に手間がかかり、収穫まで気が抜けませんが、それだけ愛情を込めて育てているので、味には自信があります」と胸を張って、話してくれました。
松戸はまた、近郊農業も盛ん。先に触れた本土寺の近くに、友人の高橋昌男さんが経営する高橋農園があります。高橋農園では、枝豆やトウモロコシのオーナー制度を設けたり、野菜の自動販売機を設置したりと、ユニークな経営で知られます。主力はイチゴで、ミツバチによる自然交配のイチゴを育て、完熟状態で出荷出来るよう、特別な容器を使うなど工夫を凝らしています。
私や他の編集スタッフも、毎年その季節になると、枝豆やトウモロコシの収穫を心待ちにしています。また、完熟イチゴも、ただ甘いだけのイチゴとは違い、本来の酸味もあって、とてもバランスのいいイチゴです。店頭には並ばず直売のみなので、イチゴの季節になったら、ホームページをチェックしてみてください。
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