母方の古里(かもしれない)相馬の海の恵み「常磐もの」

相馬中村神社

東日本大震災から1年ほど経った頃、相馬でお会いした八坂神社の岩崎和夫宮司(当時)は、「相馬は幸い放射能は少ないのですが、それでも海産物や農作物などに影響が出ています。相馬のカレイやアイナメは本当においしいんですよ。でも1年以上、地元の魚を食べていません」と、話していました。

相馬市は震災前、高級魚主体の近海漁で名をはせていました。しかし、大津波で港が破壊され、漁船や漁具も流されました。更に原発事故により海が汚染され、近海漁は自粛を余儀なくされてしまいました。

そんな中、相馬市長の発案で、港に近い原釜地区の漁業関係者が、NPO「相馬はらがま朝市」を立ち上げました。活動目標は、被災した人たちに生きる勇気を届け、「一人の落伍者も出さない」こと。そして震災2カ月後の2011年5月から、毎週末、飲食ブースや支援物資の配布をする朝市を開催していました。

相馬駅

相馬市の仮設住宅には、市内で被災した人たちばかりでなく、飯舘村や南相馬市など、原発事故避難者も多く入居していました。この人たちからも「落伍者」を出したくない。そのため、「相馬はらがま朝市」は「朝市に来れば何かに出逢える」を合言葉に、笑顔のコミュニティーとしての役割も担うよう努めていました。

岩崎さんとお会いしてから、更に半年ほど経って、この「相馬はらがま朝市」を取材しました。当日は、茨城県笠間市の方たちが、支援活動で訪問していました。笠間は日本一の栗産地として知られ、びっくりするほど大量の栗が投入された栗おこわや、つきたての餅を被災された方たちに振る舞いました。

相馬はらがま朝市

また、前日に、6人がかりで3時間掛け、畑から抜いてきたという約550本の大根も無料で配られ、大好評でした。

笠間の皆さんが、「相馬はらがま朝市」を訪問するのは2度目のことで、震災の年の12月に餅つきと手打ちそばで参加したのが最初だそうです。「その時、地元の人たちも一緒になって盛り上げてくれ、復興のため自分たちもがんばろうという気持ちが強く感じられました。それを見て、また来なくちゃと思い、朝市の代表者にそう伝えちゃったんです(笑)」と、訪問団の代表が話していました。

相馬はらがま朝市

相馬を始め福島県と茨城県北部の沖合いは、親潮と黒潮が交じり合い、カレイやヒラメなど150種以上の魚が集まる好漁場となっています。ここでとれた魚は、「常磐(じょうばん)もの」と呼ばれ、鮮度と質の高さで知られています。相馬で、その「常磐もの」が水揚げされるのが、松川浦漁港(原釜地区)です。

松川浦は、大小の島や岩が点在し、「小松島」とも称される景勝地です。震災前は多くの観光客でにぎわっていましたが、津波の直撃を受けて様相が一変。漁業復活の見通しがなかなか立たず、観光の目玉である相馬産魚介類の提供が出来ないために、大きな痛手となっていました。

松川浦漁港

そんな状況を打破するため、観光協会と旅館組合が中心となり、観光に携わる27の事業所が手を組み、「松川浦観光振興グループ」を結成。まず「松川浦=おいしい魚の町」というイメージが、人々の記憶から消えることがないよう、情報発信をすることになりました。

その第1弾として、11軒の旅館や民宿、飲食店が、それぞれ工夫を凝らしたオリジナル・メニューを開発。それを共通の「復興チャレンジ丼」の名の下に提供し、松川浦観光の復興を目指すことにしました。この企画はその後、「復興チャレンジグルメ」と名を変え、現在も多くの参加店により継続して取り組まれています。

復興チャレンジ丼

ただ、当初は地元の「常磐もの」を使うことが出来ず、食材を県外から取り寄せるなど課題もありました。そのため事業者からは、風評被害を考えると先が見えない、と悲観する声も聞かれ、漁業同様、こちらも厳しい状況にありました。

現在、松川浦漁港を始め、福島県の沿岸漁業は「試験操業」となっています。これは、福島第一原発事故の直後、福島県沖の一部の魚から放射性物質が検出されたための措置で、県による放射性物質のモニタリング検査の結果、安全性が確認されている魚種に限定して、漁業再開に向けた基礎情報を得るために実施しています。

また、福島県から出荷されている魚は、全てモニタリング検査を実施し、安全性が確認されています。従って、他の産地よりも、安心安全が担保された海産物と言えるわけです。

松川浦のコウナゴ

何度目かの相馬訪問の際は、ちょうど春の訪れを告げるコウナゴ漁が始まった翌日でした。コウナゴはイカナゴの稚魚で、漢字では「小女子」と書きます。日本の各地でとれ、釜ゆでにして干したものや、甘露煮風の佃煮にしたものなど、食卓ではおなじみの小魚です。

沿岸漁業の主力の一つコウナゴ漁は、東日本大震災の翌日3月12日が解禁日でしたが、その年は一度も漁に出ることはありませんでした。そして翌年も自粛。コウナゴの試験操業が始まったのは2013年からです。コウナゴ漁の解禁にぶつかった年の相馬訪問では、初日に70隻が出船して、約980kgを水揚げしたと聞きました。それらの検査の結果は、放射性物質は検出限界値(1kg当たり12ベクレル)未満で、地元はもとより東京など県内外へ出荷されました。

松川浦の白魚

また、これに先立つ3月5日にはシラウオ漁が復活。福島沖の漁港には震災後初めて「白いダイヤ」と呼ばれるシラウオが水揚げされ、3年ぶりの漁に沸いていました。そしてこちらも検査で放射性物質は「不検出」となり、相馬市のスーパーなどで生のまま販売されていました。

その日、取材でお会いした立谷健二さんは、原釜の海岸から200mの所に自宅があり、いつも新鮮な魚を食べていたそうです。しかし、当時は試験操業の対象となる33種以外、カレイやヒラメを始めとれた魚の多くは海に戻さなければならず、非常に残念な思いで、それを見ていたと言います。


立谷さんを始め、この時にお会いした地元の方たちは、私が食べた「復興チャレンジ丼」は食べる気がしない、と言っていました。今は、調理に使われる相馬産の海産物も増えてきていますが、当時はまだ、食材が地物ではないというのが、食べたくない理由のようでした。

八坂神社の岩崎宮司がおっしゃっていたように、相馬の魚、特にカレイやアイナメなど、底の方にいる魚はとてもおいしいそうで、早く地物を自由に心ゆくまで食べたいんだろうなと思ったものです。「松川浦のおいしい魚」だけで、「復興チャレンジグルメ」が提供出来るまで、松川浦観光振興グループのチャレンジは続きそうです。

お会いした立谷さんは、120年続く味噌醤油醸造業を営んでおり、自宅も工場も全てが流されました。そのため復興を優先しなければならなかったものの、立命館大学在学中に所属していた茶道部のOBから、立谷さん宛てに多くの支援物資が届くようになり、それを毎日、避難所(体育館)を回って配り歩いていたそうです。

立谷味噌醤油店

日本は災害が多い国ですが、その分、こうした絆が深く、被災した方たちを支えています。東日本大震災で大きな被害を受けた立谷さんも、世の中の温かさをしみじみ感じた震災だった、と述懐されていました。

立谷さんはその後、やや高台の土地に移って、味噌と醤油作りを再開。自宅兼店舗を工場の近くに建て営業も始めましたが、得意先台帳も流されたため、販路開拓が大変だと話されていました。立谷さんにお会いした際、「とてつもない財産を持っていた」と語っていた母校・立命館大学では、この現状をリポート、校友会のウェブサイトで立谷味噌醤油店の応援記事を掲載しています。

 ◆

相馬市は江戸時代、中村藩6万石の城下町として栄えました。相馬野馬追や、相馬盆歌を始めとする民謡の古里としても知られます。野馬追は起源を1000年以上前に持つ伝統行事で、国の重要無形民俗文化財に指定され、妙見三社(相馬市の相馬中村神社、南相馬市の相馬太田神社と相馬小高神社)の合同例祭に合わせて行われます。

相馬中村神社

八坂神社の岩崎宮司によると、馬追神事が続いてきた背景には、強い妙見信仰があるのだそうです。総称して「相馬三妙見社」と呼ばれる妙見三社は、相馬氏の始祖である平将門が、平安時代の承平年間(931〜937年)に下総国猿島郡に建立した妙見社を起源とします。野馬追は、将門が、敵兵に見立てた馬を牧に放って追捕する軍事訓練として、また捕えた馬を神前に奉じる妙見の祭礼として始めたと伝えられています。

相馬中村神社

一方、坂東武者の雄・千葉氏は、妙見信仰から生まれた月星紋を家紋としていますが、そこには昔、将門と共に挙兵した先祖の平良文が、妙見菩薩の化身によって窮地を救われたとの言い伝えがベースにあるそうです。千葉一族の千葉周作が創始した北辰一刀流の「北辰」も、「北極星=北辰」を神格化した妙見菩薩からきています。

そうしたことから、千葉一族の奥州相馬氏も、地域の結束を高める大切な行事として馬追神事を行っていました。それは明治維新後も、相馬三社の祭礼として受け継がれ、現代に至るまで続いています。

相馬中村神社

ところで、私の母方は、どうも相馬の出身と思われる節があります。思われる節、というのも変ですが、実のところ、よく分かっていないのです。

私は、東京の新宿区で生まれましたが、幼いうちに引っ越したようで、物心ついた時は、中央線沿線の小金井市に住んでいました。自宅は、武蔵小金井駅の北口から歩いて5分ほどの所で、その反対側の南口から歩いて5分の場所に、母方の祖父母や叔母の家族が住んでいました。

母は、5人兄姉の三女で、南口に住んでいたのは、祖父母と長女の家族、それに四女の家族もその隣の敷地にいました。ちなみに、長男は中央線で西へ2駅(現在は3駅)の国立に、次女は武蔵小金井駅から北へ6kmほどの東久留米に住んでいました。

晩年、一緒に暮らしていた父方の祖父は、亡くなった後、水戸の菩提寺に入りましたが、母方の祖父母の墓は、駅から南へ1.5kmほどの多磨霊園でした。お彼岸には、みんなで墓参りに行ったもので、そうしたこともあって、母方の一族は小金井市の出身なのだとばかり思い込んでいました。

相馬市 鰻屋「やまと」
相馬駅前にある鰻屋「やまと」

相馬市 鰻屋「やまと」

大学に入って、車の免許を取ってからは、母と叔母たちを乗せ、よく多磨霊園へ行きました。その時、母たちの会話の中に、相馬の話や中村という固有名詞が出ていたことを後になって思い出しました。しかも、最初に出て来た長女を追いかけて、次々と姉妹が上京したような思い出話をしていたような記憶も蘇ってきました。してみると、それに祖父母までもが、付いてきてしまったということなのかな、なんぞと思ったりする今日この頃です。

祖母は、私が子どもの頃、道路に面した自宅の一角を店にして、駄菓子屋をしていました。私や、1歳上の従姉妹が遊びに行くと、気前よくお菓子を持たせてくれ、私たちは、孫思いの優しいおばあちゃんだと思っていました。しかし、のちに従姉妹から聞いた話だと、私たちに持たせたお菓子代を親に請求していたらしく、なかなかどうして、ちゃっかりしたばあさんだったようです。

そんな祖母を、私たちは、その口癖から「ナンツ」と呼んでいましたが、あれは、相馬弁だったんでしょうか?

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