海と祭りに生きる山田の人々
山田町は岩手県沿岸部のほぼ中央、北を宮古市、南を大槌町に挟まれています。東日本大震災では、津波で壊滅的な被害を受け、更にその後に発生した火災で、町役場周辺の約500棟があった区画が焼き尽くされました。焼失面積は推定で約18haと、今回の震災で発生した東北沿岸部の火災では最大の被害となりました。
震災後、山田町を最初に訪問したのは、4月15日でした。釜石、大槌、山田に支援物資を搬入する河合悦子さんのグループ(「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」)を取材するためでしたが、この時にお会いした山田町の方たちには、その後何度も、取材でお世話になりました。その一人、千坂清一さんに、当時のことを伺ったことがあります。
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震災前は海から100mほど離れた国道沿いで薬局を経営していました。あの日、私は2坪強の調剤室、二人の従業員は店舗、家内は2階の自宅で遅い昼食を取り寛いでいました。そこへあの揺れがきました。予想外に長く強い揺れに、店では化粧品の瓶が割れ、従業員の悲鳴が聞こえてきました。調剤室でも棚やロッカーが倒れ、飼っていた猫が飛び込んできて私の足元をすごい速さでグルグル回りました。初めて見る行動で、恐ろしいことが起きると、動物の本能で察知していたようです。ようやく揺れが収まった後、すぐに店を閉め、家内には近所に一人で暮らす義母(当時93歳)を連れて避難所である役場に行くよう、従業員にはすぐに自宅に帰るように指示しました。
義母、家内と私の3人が役場の中庭に避難してから約30分、周囲が異様な雰囲気に包まれました。何人かが海の方向を見て息をのむような声にならない声を上げていました。屋根が左から右へ、かなりの速さで動いていくのです。周囲には黄色い煙が上がっていました。後に、大津波が建物を根こそぎ破壊していたのだと分かりました。
それからは町内の一角で発生した火事が一晩かけて広がる様子を、役場の敷地内から呆然と見ていました。翌12日の朝に見た山田町はがれきの山と焼け跡、それに異臭が加わり、とても現実とは信じられませんでした。
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最初の訪問から数日後の4月21日、青森県の弘前東奥ライオンズクラブが、岩手県山田町の保健センター前で炊き出しを行い、弘前名物のかに汁とおにぎりを800食ずつ山田町の人たちに振る舞いました。
かに汁は、桜の名所・弘前の花見に欠かせない津軽地方定番の季節食。陸奥湾から直送したとげくりかにを使うもので、普通のかによりみそが多く、味が濃厚なため、非常においしいだしとなります。この日は、三陸地方特有のやませが吹き、寒い1日となりましたが、体の中から温まるかに汁の炊き出しと、温かいまま配られたおにぎりに、山田町の人たちは心からうれしそうでした。
この炊き出しで、山田町の人たちばかりか、支援に当たっている自衛隊や医療チームなどが注目したのが、かに汁を煮た大鍋でした。実はこれ、2日後の23日から始まる弘前さくらまつりのために、弘前市旅館ホテル組合が作ったもので、19日に出来上がってきたばかりだったそうです。それが、組合のご好意で、本番のさくらまつり前に、被災地でデビューを飾ることになりました。
当日は鍋班7人が午前4時に弘前を発ち、9時から鍋の仕込みにかかりました。一方のおにぎり班10人は夜中の2時から1200個のおにぎりを作り上げ、12時の配食に間に合うよう6時に出発。地元山田町の陸中山田ライオンズクラブからも大勢の会員が出動、町民と触れ合いながら、炊き出し奉仕を手伝いました。なお、この活動には、弘前東奥ライオンズクラブと交流のある台湾の圓山ライオンズクラブが、支援金40万円を協賛してくれたとのことです。
これらの取材は、被災地支援活動の特集企画として雑誌に掲載したのですが、ここで予想外のことが起こりました。特集に掲載した支援活動は16件あったのですが、それらのグループがお互いに連絡を取り合い、「緊急災害支援ネットワーク」を立ち上げたのです。これには、山田町で炊き出しをした弘前東奥ライオンズクラブも参加しましたが、当初はさほど乗り気ではなかったようです。後に、弘前の木村知紀さんが、次のように明かしてくれました。
「ネットワークを立ち上げるための会合をやるから出て来てくれと言われ、『まあ、行ってみようか』という感じで参加だけしてみたんです。そうしたら、全国から熱い心を持った人たちが集まってるんですよ。それを見て、これは本腰入れるべきだって変わりました」
その後、ネットワークに加盟するグループが米を提供し、仮設住宅で暮らす方たちに配布する「サークル米」の活動が始まりました。第1弾は9月18日に山田町で実施され、弘前から22人、釜石に支援物資を届けた石鳥谷(「東日本大震災後、最初に訪問した被災地・釜石」)から13人が参加。地元の方の案内で、町内5カ所、約600戸の仮設住宅を訪問し、米を1kgずつ手渡しました。
更に11月にも「サークル米」の活動が行われ、この時は、弘前、石鳥谷に加え、青森県の八戸と藤崎、岩手県の宮古、それに岐阜県の土岐からも参加がありました。土岐から参加したのは、復興屋台村・気仙沼横丁の提灯支援を主導したKMさんでした(「復興屋台村取材で出会った気仙沼の名物グルメたち」)。KMさんたちは、製陶会社を経営する加藤海蔵さんが、自社の陶器を被災された方たちのために役立てたい、と申し入れたことがきっかけで、土岐市が誇る伝統産業・美濃焼で、東日本大震災の被災地支援を行うことになりました。
ただ、提供された陶器は全部で6700点と、半端ない量でした。そのため協力者を探していたところ、雑誌に「緊急災害支援ネットワーク」の活動が紹介され、協働を打診。ネットワークでもこれを快諾してくれ、話し合いの中で仮設住宅での配布の他、ネットワークの加盟グループが地域でバザーを行い、その売り上げで緊急災害支援ネットワークで取り組んでいる「サークル米」の買い付けも行うことになりました。そうした経緯もあり、KMさんは父と共に、片道約920kmの道のりを車で駆け付け、「サークル米」の配布に参加しました。
ところで、最初の「サークル米」配布が行われた日は、ちょうど「山田祭」が行われた日でした。「山田祭」は、山田八幡宮例大祭と大杉神社例大祭の総称で、本来は両神社の暴れ神輿が終日、町中を駆け回る勇壮な祭りです。ただ、震災で両神社の神輿も被災。この年の「山田祭」に暴れ神輿の姿はありませんでした。
とはいえ、山田町の人たちは、祭りのために生きている、と言われるほどの祭り好き。故郷を離れた人々が帰省するのは、お盆ではなく「山田祭」が開催される9月なのだといいます。そのため、祭りを愛する山田町の人々の熱い思いによって、震災で開催が危ぶまれていた「山田祭」が、復興祈願例大祭として執り行われることになったのです。
「山田祭」では神輿だけでなく、虎舞や神楽、鹿舞などの郷土芸能も奉納されます。山田の人たちは小さい頃から、いずれかのグループに入ってそれらの練習をします。この記事のトップ写真は、山田八幡宮に明治時代から奉納されてきた「八幡鹿舞」。笛による印象的なお囃子に乗って、木を薄く削って束ねた「カンナガラ」を身にまとい迫力ある舞を披露します。これは山から里に下りてきた精霊が、祖霊と豊作のために舞い、鹿が踊る様子を摸しているのだそうです。
山田町で、もう一つ有名なのが、カキです。震災前、殻付きカキの生産量日本一を誇っていた山田湾には、約4800基の養殖いかだがありました。しかし、津波で9割以上が流され、残ったのは450基ほど。そこで、浮き球を使った養殖でリスタート。今では、町の主産業カキの養殖については、ほぼ回復しました。震災の2年前には、岩手県で初めての「かき小屋」が開店。震災で被災しましたが、場所を変えて再開し、現在は10月末から5月末まで、完全予約制で山田湾でとれた新鮮なカキを提供しています。
カキの養殖が行われている山田湾には、二つの小島が浮かんでいます。大きい方の大島は、オランダ島と呼ばれていますが、鎖国中の1643年、暴風雨のため仲間の船とはぐれたオランダ船が、島の近くに投錨したことから、そう呼ばれるようになりました。周囲約900m、東北唯一の無人島の海水浴場でしたが、現在は震災の影響で海水浴場は利用出来ないようです。
さて、この山田に46年続く老舗の居酒屋「初音」さんがあります。店主の佐々木政昭さんは、山田町の生まれで、東京の和食店などで修行した後、29歳で地元に帰り開業しました。震災前は、夜のみの営業だったようですが、再開後は復興関係者やボランティアのために、昼も店を開けていました。私は、山田町を訪問する度に、昼も夜もお邪魔していて、夕食をお任せでお願いした時、刺身とかきフライで完了かと思いきや、キンキが後から出てきて「欣喜雀躍」した覚えがあります。新鮮な旬の地魚を中心とした料理や刺身、また焼き物はくし焼きからうな重まで、さまざまな肴がそろっていました。
「初音」さんは、陸中山田駅の近くにありましたが、このエリアは、津波で大きな被害が出たため、裏手の山を削って出た土砂を、大型のベルトコンベアで運び、約3mかさ上げする工事が行われました。この大規模復興事業の間、国道45号寄りの仮設店舗で営業をされていましたが、今は元の場所に戻って「三陸山田旬味処 初音」として営業を再開。新型コロナの緊急事態宣言以降、テイクアウトなどもやっておられるようですが、いつの日かまたお邪魔したいので、それまでお元気で営業を続けて頂きたいと願っています。
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