道祖神とわさびで知られる「早春賦」の里 - 安曇野

安曇野


「春は名のみの風の寒さや」で始まる唱歌「早春賦」は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授などを務めた文学者・吉丸一昌さんが、安曇野の風景を思い浮かべて作詞したものと言われます。吉丸さんは旧制長野県立大町中学(現在の大町高等学校)の校歌の作詞を、教え子の一人で、当時同校の唱歌教師だった島田頴治郎さんを通して依頼され、そのために大町を訪れた際、隣の穂高にも立ち寄っていたとの推測が、「早春賦」安曇野発祥説の元になっています。

が、吉丸さんが大町や穂高を訪れた記録は残っておらず、実際には校歌作詞のため島田さんから聞いた大町の風景をモチーフに「早春賦」の詞を書いたのでは、という説を唱える人もいます。ただ、島田さんが吉丸さんを訪ねて校歌を依頼したとする記録もないそうです。その上、吉丸家で長く家政婦を務めていた女性が、「先生が温泉旅行をした帰りに安曇野に立ち寄り、その時の感じを思い出しながら作詞されていました」と証言した、といった未確認情報などもあって、「早春賦」の背景は謎に包まれているようです。

そんなこともあって、「早春賦」の歌碑は現在、安曇野と大町の双方にあり関係者は互いに気遣い、特に声高に発祥の地をアピールしているわけではないようです。元々、安曇野というのは、犀川、穂高川、高瀬川が形成する扇状地周辺の呼び名で、範囲としては現在の安曇野市、大町市を始め、いくつかの市町村が含まれます。穂高町や豊科町などが合併して安曇野市という行政区分が出来たので、少しややこしいですが、「早春賦」は地名としての安曇野の風景と思えば、間違いないのかと・・・。

わさび園
黒い遮光シートに覆われたわさび田

吉丸さんは1912年から「新作唱歌」全10集を編著、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけて発表しました。作曲には、東京音楽学校出身の中田章さん(代表作「早春賦」)、梁田貞さん(代表作「どんぐりころころ」)、船橋栄吉さん(代表作「牧場の朝」)、弘田龍太郎さん(代表作「鯉のぼり」)といった新進気鋭の作曲家を起用。「早春賦」はその第3集に収録されました。

1911年から14年にかけて文部省が編纂した尋常小学校用の教科書「尋常小学唱歌」の作詞委員会代表を務めていましたが、文部省主導型による唱歌政策に疑問を抱き、それが「新作唱歌」に結び付いたようです。こうした吉丸さんの姿勢は、北原白秋や西條八十、野口雨情、そして本居長世、弘田龍太郎、成田為三、山田耕筰といった有能な児童文学者、詩人、作曲家たちが推し進めた童謡運動に大きな影響を与えたと言われます。

さて、安曇野は何も吉丸さんでなくとも、心引かれる地です。黒澤明監督の映画「夢」の最終話「水車のある村」も、旧穂高町(安曇野市)で撮影されました。

安曇野

黒澤監督は、水車小屋の老人を通して、自然を尊び共存する人間の姿を語らせます。それは、全八話からなる「夢」の締めくくりとして、黒澤監督が見せた人間への希望のメッセージだと言われています。そして、その舞台として選ばれたのが、穂高町であったわけです。

安曇野は、残雪を頂く北アルプスの下、広々とした田園風景が展開し、道端には道祖神がたたずんでいます。まさに、日本の原風景を見るような、ゆったりとした景色が広がります。吉丸さんや黒澤監督ばかりでなく、日本人の多くが、安曇野に魅力を感じるはずです。

そんなのんびりとした安曇野の一角に、一面緑のジュータンを敷きつめたような、広大なわさび田が続き、その間を青い帯のように清らかな水が流れています。清冽な水はさらさらと、新鮮な緑の葉はさやさやと揺れます。背景には、真っ白い雪を頂いた北アルプスの山々が、青い空をキャンバスに、雄大な姿で描かれています。

穂高は、日本一のわさび産地です。以前は、わさびと言えば山間の傾斜地を利用して、谷間のわずかばかりの土地で生産しているイメージがありました。ところが穂高の場合、平地栽培である上、集団大量生産をしています。

わさび

穂高は北アルプスのふもとに広がる扇状地の末端にあります。アルプスに発した水は、いったん分岐した後、再び集まり、穂高で合流します。この清冽な地下水を利用して、広大なわさび田が開かれたのです。

穂高で、わさびが本格的に栽培されるようになったのは明治後期。が、しばらくは、伊豆の本場物に対し、場違い品として扱われていました。その後、大正12年の関東大震災で、伊豆のわさび田が崩壊、この時、信州わさびが大量に東京の市場に入りました。そして、品質の優秀性もあって脚光を浴び、これを機に生産が急伸、今では伊豆と並び称されるわさび産地となっています。

ここでちょっと、わさびについて一くさり。わさびはアブラナ科の多年草で、日本特産。学名はWasabiajaponica。本わさびは、水がきれいで水温が年間を通して13~16度、水の量や流れの強弱が一定で、日差しをさえぎるための落葉樹があるなど、さまざまな条件がそろった土地でないと育たない、と言われます。安曇野に湧き出る北アルプスの地下水は、四季を通じて水温13度前後。まさにうってつけなのです。

安曇野
以前は蓼川と万水川に木橋が架かってい
わさびは季節に関係なく1年中収穫出来ますが、わさびの花が咲くのは2月下旬から4月にかけての「早春賦」の季節。この時期、冬眠から目覚めたかのように、可憐な十文字の白い花が咲きます。「春は名のみの風の寒さ」を肌で感じつつ、わさびの花を堪能してみてはいかがでしょう。

ちなみに、わさびの花は茎同様に食べることが出来ます。天ぷらにすると、おいしいらしく、爽やかな苦味と独特の風味がたまらないそうです。


安曇野市の大王わさび農場の隣を流れる蓼川沿いに、黒澤映画「夢」で実際に使われた水車小屋が3基残っています。水車の前では、北アルプスの湧き水をたたえて流れる蓼川と、万水川(よろずいがわ)が、まるで一本の川のように平行して流れています。二つの川は、水車小屋の少し先で合流します。蓼川は湧水起源のため、水温は年間を通して一定ですが、万水川は夏と冬で水温の差が大きく、川が合流しても季節によっては水がなかなか混じり合わないという不思議な現象が見られます。

水車小屋の近くには、以前は二つの川の対岸から小さな木の橋が設置され、「水車のある村」の登場人物のように川を渡ることが出来ました。が、現在は橋は取り外され、他のルートが設けられています。その代わり、蓼川をボートで下るアクティビティがあり、川から水車小屋を見ることも出来るようになっています。

また、大王わさび農場や穂高川わさび園周辺はのどかな田園風景が展開し、近くには早春賦碑があり、道祖神も多く点在。日本の近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)や高村光太郎などの作品を展示する碌山美術館もあります。

コメント

  1. ワサビのコメントを書いたけど反映されてないようです。

    ワサビは水質の良い所が適している話は聞いてましたが、先日久しぶりに会ったインド人の友人が最近ブータンでワサビ栽培を始めたようです。

    いまは外国人にも人気のワサビですね。

    返信削除
    返信
    1. 今は練りわさびとか粉わさびが、できあいの寿司に付いていますが、あれってアメリカのステーキにはよく使われる西洋わさび=わさび大根ですよね。
      日本人は練りわさびで代用する一方、外国人が本物志向になってきたんでしょうか。

      まあ、本わさびは高いですからね。ヘタな刺身より高いかも。。。

      削除

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