天の岩戸が飛来し修験道の聖地を形成した戸隠

戸隠神社随神門
戸隠神社随神門

北陸新幹線長野駅から20km余り、2005年に長野市に編入された戸隠地区は、戸隠神社の門前町として発展してきました。この辺りは、戸隠信仰の下、戸隠講の参詣者を受け入れるため大規模化した宿坊が、在家と呼ばれる農家や職人などの一般住宅と一体となって町並みを形成しています。

このように、山岳修験道の聖地としての一面の他、宗教者以外の生活の場としての集落も一体となっているのは、全国的に見ても希有な存在だそうです。そうしたことが認められ、2017年、中社・宝光社地区が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

選定されたのは、戸隠宝光社の全域と中社、宝光社東、宝光社西、堂前林、向林(むけべし)、東谷、上泡原(かみあわら)の一部で、対象面積は約73.3ヘクタール。戸隠地区は、標高1100m以上の高地にあり、「高距(標高が高い)信仰集落」として選定され、宿坊群としては全国初となりました。

戸隠神社宝光社
宝光社

中心となる戸隠神社は、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の5社からなります。奥社は、紀元前210(孝元天皇5)年と伝えられますが、九頭龍社の創建はそれよりも古いと言われ、ひとまず大ざっぱに2000年余りの歴史とされます。

そもそもの起こりは、神話の「天の岩戸」に由来します。この神話は、皆さんご存じだと思いますが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、弟である須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴に困り、岩屋に隠れたことが発端です。大御神は太陽神だったので、世界は暗闇に包まれ、困った神々は一計を案じて宴を開催。天宇受売女命(あまのうずめのみこと)が裸で踊って座が盛り上がると、気になった大御神が岩戸を少し開けて覗いた瞬間を逃さず、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が怪力で岩戸をこじ開け、はるか遠くへ放り投げ、再び世の中に光をもたらしました。投げられた岩戸は、なんと信濃国まで飛んで行き、落下地点で山になったことから、その山を戸隠山と称するようになったという話です。

この神話から、戸隠山は古くから御神体として、厚く信仰されてきました。平安時代には、「戸隠三千坊」と言われ、比叡山、高野山と共に修験道の道場として栄え、全国各地から修験者が集まったといいます。

戸隠神社参道 杉並木

また、江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、山中は門前町として整備されました。この時、奥社参道に植えられた杉は、今や大木に成長し、約500mにわたる見事な杉並木となって、参詣する人を厳かに迎えています。

戸隠が、修験道場として栄えた平安時代、修験者の携行食として、そばがこの地に入ってきました。昼夜の気温差が大きく、朝霧が発生しやすい場所を「霧下地帯」と言い、そこで栽培されるそばを「霧下そば」と呼びます。冷涼な気候が、そばをおいしくし、その一方で朝霧が霜に弱いそばを優しく守ります。加えて火山灰地で水はけが良いことも、うまいそばが実る条件となります。戸隠高原は、そうしたおいしいそばの生育環境を全て満たす土地柄だったことから、修験者によってもたらされたそばは、「戸隠そば」の名で全国に知られるようになりました。

ガレット

ガレット

そんな戸隠のそば粉を使った「ガレット」が、戸隠高原の鏡池湖畔にある「どんぐりハウス」で食べられます。ガレットとは、フランス・ブルターニュ地方の郷土料理です。そば粉・水・塩などを混ぜた生地を、熱した平鍋や鉄板の上で薄い円形に伸ばしたもので、生ハムなどの肉類や魚介類、チーズ、卵、サラダなどが添えられます。外は香ばしく、中はもっちりとしており、もりそばなど一般的なそばとはひと味違った見た目と食感で、戸隠そばの持つ芳醇な香りを味わうことが出来ます。

鏡池は、その名の通り、戸隠の山々が鏡のように水面に映り込む絶景スポットです。荒々しい岩山に抱かれる広葉樹は季節によって色を変え、四季折々の風景を見せてくれます。

鏡池

ここで話は大きく展開しますが、以前の記事に書いた髙木次雄さんに、千葉県野田市にある道場「武神館」に案内してもらったことがあります。修業しているのは全て外国人という道場で、道場主の初見良昭さんは、髙木さんの友人で、何でも戸隠流忍術34代目継承者とのこと。一瞬、道場にいるのは、忍者オタクの外国人なのかと思ったのですが、彼らの多くは世界各国の軍人や警察官だと聞き、大変失礼な早とちりだったと分かりました。

さて、その戸隠流忍術ですが、源頼朝・義経兄弟の従兄弟で、木曾義仲の名でも知られる源義仲の家臣・仁科大助が、開祖とされます。仁科大助は、1181(治承5)年、源氏に平氏打倒の挙兵を促した以仁王の令旨に応じた義仲の家臣として、平家方の大軍と激突した横田河原の戦いに加わりました。

義仲は、1183(寿永2)年、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破り、破竹の勢いで入京。翌1184年には征夷大将軍となりますが、朝廷の最高権力者・後白河法皇の命により、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢と戦い、近江国粟津の地で討ち死にしました。仁科大助は、南へ逃れ、落ち延びた地が、伊賀でした。もともと、戸隠で妖術や忍法の類とされる「飯綱の法」を身に付けていた仁科は、ここで伊賀流忍術を修得。その後、戸隠の地に戻って、戸隠流忍術を開きました。野田の初見さんは、その34代目宗家ということになるそうです。

ちなみに、戸隠神社奥社参道の入口近くには、「戸隠民俗館・戸隠流忍法資料館・忍者からくり屋敷」があります。忍者フリークの方にはお勧めです。

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