武田、織田、上杉、豊臣を経て成立した真田10万石の城下町
昨日の記事(戦国武将・真田家の本拠地)では、武田二十四将の一人として活躍した真田幸隆から昌幸、信之・信繁と続く、真田郷から上田城時代の真田氏について書きました。今日は、残った信之が、移封された松代藩についての記事です。
長野市松代町は千曲川東岸、古くは河東と呼ばれた地域で、信之が上田から移されるまで、さまざまな変遷がありました。この地は、武田信玄と上杉謙信が争った川中島に当たり、信玄が、山本勘助に命じて築城させたのが、松代城の元となる海津城でした。以来、海津城は対上杉戦に備えた武田氏の最前線基地となり、川中島の合戦では、ここを本陣として、上杉軍と対峙しました。
武田氏滅亡後は、武田攻めで先鋒を務め、「鬼武蔵」の異名をとった森長可が、海津城に入ります。しかし、間もなく本能寺の変が起こり、森長可は美濃へ逃げ帰り、その後に春日山城から上杉景勝が侵攻して、海津城を奪います。
しかし、一気に天下人へと駆け上がった秀吉によって、上杉景勝は会津に移封され、替わって田丸直昌が入封し、松代藩がスタート。1598(慶長3)年のことですが、秀吉の死により、1600(慶長5)年には、徳川家康が森忠政を入れ、上杉、真田に備えさせます。更に関ケ原の戦いを経て、03(慶長8)年、家康の六男松平忠輝が入封。忠輝の改易後、松平忠昌、酒井忠勝を経て、22(元和8)年、真田信之が移封されてきたことになります。
昨日の記事にも書きましたが、信之は、真田松代藩の基礎を固め、1658(明歴4)年、93歳で天寿を全うしました。信之の後は、次子信政が継ぎ、更に幸道、信弘、信安、幸弘、幸専、幸貫、幸教、幸民と、廃藩まで10代にわたって約250年続き、家名を守り抜きました。
8代の幸貫は、老中松平定信の次子で、徳川吉宗の曾孫に当たります。7代藩主の幸専に実子がなかったため乞われて養子となり、1823(文政6)年に家督を継ぎます。実父定信の影響を受けて文武奨励、殖産興業に努め、幕政においては、水戸藩主徳川斉昭の推薦もあって、1841(天保12)年、老中に就任しました。その際、佐久間象山を顧問に抜擢、水野忠邦の天保改革に協力しました。
その佐久間象山は、幸貫が、病気で老中の職を辞した後、オランダ語を学び始め、2年ほどで修得。オランダの自然科学書や医書、兵書などから洋学の知識を吸収し、1851(嘉永4)年には江戸に移住して塾を開きます。その後、象山の名声は天下に知れ渡り、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが続々入門。ペリー来航後は、藩の軍議役に任ぜられますが、松陰の海外密航未遂事件に連座して、松代に蟄居させられます。蟄居を解かれた翌年、幕命を受けて上京し、公武合体・開国進取を進言しましたが、攘夷派により暗殺されてしまいます。
ちなみに松代藩では、1849年(嘉永2)年に象山が、オランダの文献を基に指示電信機を作り、電信の実験に成功しています。ペリーが電信機を将軍に献上する5年も前のことだったといいます。
1976(昭和41)年に長野市と合併し、その一部になりましたが、松代は、このような歴史と、また新しい時代の先駆けとなった人物を輩出した土地でもありました。その面影を残そうと、山本勘助が築城して444年目となる2004(平成16)年には、松代城を復元。今も残る江戸末期に建てられた真田邸を始めとした武家屋敷と共に、往時の風情が漂う落ち着きのあるたたずまいの町となっています。
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