牛に引かれなくても善光寺参り
昔から、「遠くとも一度は参れ善光寺」「一生に一度は参る善光寺」と言われるほど、全国各地から老若男女が参詣に訪れる善光寺。創建以来約1400年の歴史を持ち、日本最古の仏像と言われる一光三尊阿弥陀如来を御本尊とし、本堂が国宝、山門と経蔵が重要文化財に指定されています。
善光寺の場合、お寺の集団を一山(いっさん)と言いますが、大勧進を本坊とする25力寺の天台宗一山と、大本願を本坊とする14力寺の浄土宗一山、計39の宿坊を兼ねた一山があります。護持に当たる一山は、天台宗と浄土宗の寺々ですが、善光寺そのものは無宗派となっています。そのため、天台とか浄土と言った教団の枠を大きく超えた、庶民信仰の寺として、全ての人に開かれており、毎年、全国から600万人の参拝者が訪れます。
その善光寺の護持と運営の責任者となっていた若麻績倍雄さん(善光寺事務局長・正智坊住職=当時)のインタビューを雑誌に掲載したことがありました。1984(昭和59)年から89(平成元)年にかけて行われた「国宝善光寺本堂昭和大修理」では、善光寺代表役員として着工を手掛けられました。
インタビューの中で若麻績さんは、例の「牛に引かれて善光寺参り」についても、話してくださいました。そこを抜粋してみます。
「今から1000年ほど前、平安時代の中頃から鎌倉時代にかけて、仏教説話文学が盛んになりましたが、『牛に引かれて善光寺参り』も、その物語の一つなんですね。大筋は皆さんご存じのように、欲深のおばあさんが河原で洗濯物を干していた。そこへ、どこからともなく牛が現れて、角に洗濯物を引っ掛けて走り出した。それを取り返すべく追っているうちに、おばあさんは善光寺に来てしまった。
ここまでは、多くの方がご存じだと思いますが、これから先は、あまりご存じない方もいらっしゃるようです。ちょっと触れておくと・・・。
おばあさんは初め、善光寺かどうか分からなくて、大きな寺に来たなと考えているうちに、疲れが出て本堂の内陣でうたた寝をしてしまうんですね。その時、観音様が夢枕にお立ちになって、『今日は牛に化身をして、おばあさんを善光寺へ導きました』と、言われた。そして、おばあさんの自分本位で利己的な日暮らしを一つひとつ戒められたんです。その戒めを受けて、おばあさんは自分を反省し、夜が明けると、朝の善光寺の勤行、お参りをして、自分の家へ帰る道すがらも、今までの人生というものを反省し、更には、これからどのように生きるか、ということを考えた、と・・・。
ですからね、この物語は人の道を教えた物語なんですよ。私たち人間というのは、欲の塊、すなわち煩悩の塊ですね。貪り、怒り、憎しみ、妬み、うらやみの心を持って生きている。自分さえよければという利己的な、寂しい気持ちでその日暮らしをしている。だから私は、この物語のおばあさんは他人事ではなく、私とあなたの生き方を教えている。現代文明は、人間の煩悩をより大きくかきたてる方向に進んできた、その結果が今日の心の荒廃につながっている、といつも皆さんにお話をしておるんです」
ところで、善光寺の縁起によると、本尊の一光三尊阿弥陀如来は、天竺(インド)から百済(朝鮮半島)を経て日本に渡ってきた仏像と伝えられるそうです。しかし、朝廷では仏教の受容を巡って論争があり、廃仏派の物部氏が阿弥陀如来像を打ち捨てました。それを、信濃国司の従者として上洛した本田善光が発見し、自宅のある信濃国伊那郡の若麻績里(現・長野県飯田市)に祭りました(元善光寺)。その後、642年に現在地へ遷座、更に644年に伽藍が造営され、本田善光の名から善光寺と名付けられたといいます。
で、この本田善光は、若麻績東人の名も持っていました。信濃国水内郡誉田里に住んだことから本田善光と名乗り、館を構えた若麻績里に因んで若麻績東人とも呼ばれるようになりました。お話を伺った若麻績倍雄さんによると、「自坊は正智坊と言いますが、坊とつく14坊全部が若麻績一族で、世襲制です」とのことです。世襲ということは、今もそうなんでしょうね。
それと、一光三尊仏というのは、一つの光背に中尊として阿弥陀如来像、その脇侍仏として観音菩薩像と勢至菩薩像が立っているので、一光三尊仏といいます。お釈迦様と同じ時代の古代インドにあった十六大国の一つ、ヴァッジ国の首都ヴァイシャーリーに、グワツカイという大富豪がいて、悪疫が流行した時、釈迦の教えに従って西方の三尊像を造って祈念し、病気を鎮めたと伝えられており、この故事から、インドや中国で一光三尊の仏像が造られるようになったようです。
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