養蚕が育てた見事な町並みを今に伝える海野宿

東御市(旧東部町)は浅間連山の西のはずれ、湯ノ丸、篭ノ登、烏帽子など諸火山の南麓にあり、町の南を流れる千曲川に向かって緩やかに傾斜しています。千曲川に沿って、信越本線と国道18号が走ります。中心地の田中は、周辺農村の買い物町をなし、第二次世界大戦前は製糸工場でにぎわいました。

田中の駅から、信越本線に沿って東へ15分ほど歩くと、かつて北国街道の宿場として栄えた海野宿に出ます。1625(寛永2)年に設けられた宿駅で、今なお東西600mにわたって、昔日の面影を残す家並が続いています。

北国街道は北陸から江戸に至る主街道で、また佐渡の金を江戸へ運ぶ道でもありました。その宿場だった海野の繁栄は想像に難くありません。しかし、どの宿場でもそうですが、幕府が崩壊し、1888(明治21)年に信越本線が開通すると、海野も宿場としての役割を失い、火が消えたようになってしまいました。

多くの宿場は、そのままごく普通の農村に戻ってしまいました。が、海野の場合は違いました。旅籠屋を営んでいた矢嶋行康氏が、欧米視察から帰った旧知の岩倉具視の勧めに従い、養蚕を始めたのが幸いしました。矢嶋氏の成功で、宿場の人たちも次々と転業。旅籠の広い間取りをそのまま蚕室に生かし、最盛期には海野90数軒のうち、半数が「タネ屋」だったといいます。こうして一大変革期をうまく乗り切ったことで、海野は当時の宿駅の姿を今日まで残すことになりました。

しかも、この時、海野の家々は、宿場時代よりもはるかに本格的な家に変わっていきました。確かに、人まかせの旅籠稼業より、養蚕という産業を基盤としたことで生活は安定します。また、その頃は各地で、立派な民家が続々と建てられた時期でもありました。そのため、海野は町並みの長さもさることながら、それぞれの家も古格をとどめて見応えがします。

養蚕をしていた家の最も分かりやすい特徴である越屋根や、卯建、海野格子など、一定のリズムのある美しい家並が続きます。また街道の中央を流れる用水路も、昔のまま残っています。かつての宿場は、たいてい道の中央に用水路がありました。それが、車社会になって道路の狭さからつぶされたり、片隅に寄せられたりして、いつの間にか消えてしまい、全国でも残っているのはここだけだそうです。こうした点からか、海野は文部省の調査ランクでは木曽の馬籠宿より上だといいます。

他にも、東部町には江戸時代の名力士・雷電為右衛門の生家や、「花の高原」と呼ばれる湯ノ丸高原(上信越高原国立公園)、湯ノ丸高原へ向かう峠道に点在する百体観音などの見所が数々あり、訪れる人を迎えてくれます。

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