創業130年の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」
一昨日の居酒屋「鍵屋」、昨日のあんこう料理専門店「いせ源」に続く老舗つながりで、編集部があった築地の老舗うなぎ店「つきじ宮川本廛」について触れておきます。
「つきじ宮川本廛」は、1893(明治26)年の創業です。同店のサイトによると、創業者の渡辺助之丞は、深川にあった「宮川」という、うなぎ専門店で修行をした後、暖簾分けにより築地で開業したそうです。
深川の「宮川」は、幕末から営業していた老舗のうなぎ店で、同店の主人だった宮川曼魚が、随筆『深川のうなぎ』(1953年)の中で、次のように記しています。
「維新前に深川八幡前の川岸端に鰻屋があつた。表通りには長い竹樟の先へ紺地に白く染め抜いた『田川』と云ふ『のぼり』がたてゝあつた。木場の人達は、松本や平清の酒後好い気持で芸者や松本の女中を連れて、この『のぼり』へ行くのであつた。仲町の芸者や、松本、平清の女中たちはふだんにもこの『のぼり』へ行つて、白焼で一口やつたあとは、筏で『ごはん』を、と酒落こんでゐた。当時にあつては誰れもが『のぼり』と呼んで通つてゐた。
その『のぼり』が明治になつて『宮川』になつた。そして表通り西寄りの方へ移転して、現今も引続いて繁昌してゐる。昔は松本や平清と倶に深川の名物になつてゐた」
宮川曼魚(渡辺兼次郎)は、日本橋にある老舗のうなぎ屋「喜代川」の次男として生まれました。若い頃、室生犀星や萩原朔太郎らと共に、北原白秋門下として文学活動を始めますが、請われて、後継者がいなかった深川「宮川」を継ぐことになります。そして、うなぎ屋の主人を務めるかたわら、江戸文学の研究を続けました。
「つきじ宮川本廛」のサイトによると、「深川のうなぎ専門店『宮川』での修業を終え、同店の廃業に際し名跡を受け継ぎ、明治26年、散切り頭の助之丞二十八歳は築地橋、東詰めに“うなぎ屋”を開業」とありますが、深川の「宮川」は、戦後も繁盛していたわけですから、「宮川」の名跡を継いだのは、開業と同時ではなかったようです。
ちなみに、1951年6月28日に亡くなった林芙美子は、その前日、『主婦の友』の連載企画「私の食べあるき」で、東京の料理屋を2軒回りました。その1軒が、深川の「宮川」でした。
うなぎが、庶民の食べ物となったのは、江戸時代に入ってから。江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸の町の整備に着手し、1回目の天下普請では、日比谷入江の埋め立てなどを行います。そして、干拓で出来た湿地にうなぎが棲みつくようになり、うなぎは、天下普請のために集められた労働者たちの胃袋に収められるようになっていきます。1852(嘉永5)年の『江戸前大蒲焼番付』には、主だった200軒余りの鰻屋が掲載されており、江戸市中に数多くのうなぎ店があったことがうかがえます。また、うなぎの養殖は、1879(明治12)年、鮮魚商・服部倉次郎が、深川に養魚池を作り、江戸川や中川に溯上するシラスウナギを採捕して、餌づけを行ったことから始まったとされています。いわば、深川は、日本の養殖うなぎのルーツとも言える土地で、林芙美子の取材は、その辺りも含めた企画だったのでしょうか。
で、深川の「宮川」は、1971(昭和46)年まで続いていたらしいので、築地の「宮川」が名跡を継いだのは、正式にはその時だったのでしょう。なお、「つきじ宮川本廛」も、暖簾分けを重ね、現在、「つきじ宮川のれん会」は10店舗により構成されています。
「つきじ宮川本廛」の場合、うな丼もうな重も、イロハニの4種類に分かれていますが、これはうなぎの大きさによります。で、これとは別に、最も値段が高いのが、中入丼です。その名の通り、2段のり弁ならぬ2段うな丼(重)です。ちなみに、記事のトップに入れている写真は、友人たちとランチに行って、イロハニ4種類をオーダーしてみたものです。大きさが何となく分かるかと・・・。
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