熊本地震支援活動 - 西原村・益城町
熊本地震が起きた2016年4月14日は、取材で宮崎県の高鍋町にいました(児童福祉の父・石井十次のルーツを訪ねる - 高鍋)。宮崎県でも、阿蘇に近い高千穂町などで震度5強を観測しましたが、高鍋町は震度4の揺れでした。それでも、大きな地震であったことはすぐに分かりました。
しかし、その2日後に本震がくるなんて・・・。
4月16日午前1時25分頃、熊本県熊本地方を震源とする強い地震があり、益城町と西原村で震度7の激しい揺れを観測しました。14日にあった震度7の揺れは、この日の地震の「前震」とされたのです。
翌17日、東日本大震災の被災地支援で知り合い、前年9月の関東・東北豪雨でも常総市に詰めて活動した茨城県水戸市の若林純也さんが、早くも熊本の被災地に入り、特に被害が大きかった益城町、西原村、南阿蘇村を回って、状況の確認とニーズの把握、支援の調整を始めました。ちょうど、東日本大震災の被災地・南三陸へ同行したり、後の西日本豪雨では一緒に真備へ入った、南海のシーサーこと石垣島のSYさんから、熊本地震の被災地で炊き出しをしたいが、どこがいいだろうと相談を受けていたので、若林さんに連絡し、炊き出し場所の調整をお願いしました。
若林さんは、すぐに西原市災害対策本部と調整をしてくれ、4月25日に避難所となっている西原中学校で炊き出しを受け入れてもらえることが決まりました。
熊本市から東へ約20km。阿蘇外輪山の西麓にある西原村は、昭和35年に山西村と河原村が合併。両村から1文字ずつをとって新しい村名としました。熊本地震では、16日未明の本震で震度7の激しい揺れを観測。住宅約2300棟のうち344棟が全壊、1087棟が半壊と、6割以上の家が大きな被害を受けました。また、倒壊した建物の下敷きになるなどして、5人の方が亡くなっています。
石垣島からやって来たSYさんたちは、沖縄での戦没者遺骨収集活動などで以前から交流のある福岡の友人らと共に、24日夜、西原村に到着しました。そして、避難所の責任者と打ち合わせを行った上で、休む間もなく翌日の設営を開始。手際よくテントやテーブルなどの配置を済ませた後、車の中で仮眠をとり、翌朝の炊き出しに備えました。
SYさんたちが提供したのは、八重山そばと天ぷら。また、話を聞きつけた恩納村商工会女性部の方たちが、1000食分のだしと、サーターアンダギー500人分を用意。サーターアンダギーの包装一つひとつに「チバリヨー」の激励メッセージが添えられていました。
炊き出しは早朝6時からスタート。最初の1杯を通学前の高校生に出すと、その後は次々と避難所で暮らす人や、用事があって役場を訪れた村の人たちがテント前に並び、温かい沖縄そばに笑顔を見せていました。
朝食が一段落した後は、近くの村民体育館、にしはら保育園、構造改善センターの各避難所を回って声がけ。更に前日に開設したばかりのボランティアセンターと、行方不明者捜索や被災地警備に当たる警察署に人数分を出前するなど、被災地のために働く人たちも応援しました。
ちなみに、西原村には熊本に駐留する陸上自衛隊第8師団が入り、給食支援、給水支援、入浴支援を実施していました。25日の朝は沖縄そばの炊き出し支援があったため、自衛隊の炊き出しは昼に行われることになり、ご飯と味噌汁が配食されていました。私は、一つでMax200人分のご飯が炊ける釜を6基持つ自衛隊の炊飯器に興味津々でした。なんせ、一度に1200人分が炊ける優れものですからね。
あ、そう言えば「銀だこ」もキッチンカーを派遣して、たこ焼きを無料提供していました。なかなかやりますね。
その後、炊き出しを調整してくれた若林さんは、水戸の仲間と共に自分たちの炊き出しも計画。その最終調整のため、5月7日から再び現地入りしました。ちょうど、東日本大震災被災地支援活動以来の共通の知人・木村知紀さんが、はるばる青森から熊本に入っていたため、お互いに情報交換をしながら、炊き出し場所の調整を行いました。
その結果、5月10日から18日まで、益城町と西原村の12カ所で、二つのグループによる炊き出しが行われました。
若林さんたち水戸チームは、5月12-18日の1週間、延べ100人が参加して、益城町と西原村の避難所や役場、ボランティアに向けて約6000食の炊き出しを実施。併せて、がれきの片付けやボランティアセンターの補助、物資搬入などの活動を行いました。
一方、木村さんたちのチームは、このブログにも何度か登場している兵庫県明石の橋本維久夫さん(災害支援の仲間内では「大体長」で知られる人)を中心に、東京、千葉、福井、愛媛、山口、鹿児島の有志が参加して、西原村山西小学校ボランティアサテライトで炊き出しを実施。ハヤシライス、牛すき丼、タコ焼き、焼きそばなど、2日間で約2000食をボランティアや近隣の被災者の皆さんへ提供しました。
私は両方を行ったり来たりしていましたが、西原は4月に来ていて土地勘があったため、ほぼケータリング担当でした。
益城町にはその後、2019年に再建された益城町学校給食センターの取材にも行きました。
益城町の給食センターは地震により建物全体が傾き、ボイラーが破損するなど壊滅的な打撃を受けました。その一方、地震直後から、自衛隊を始め被災地支援団体から町に対し、炊き出し用に給食センターを使わせてほしいとの要請が多く寄せられましたが、機能不全に陥っていたためセンターを活用することは出来ませんでした。そこで町ではこの教訓を踏まえ、災害時に活用出来る施設として再建することを目指しました。しかし、被害を受けた公共施設は給食センターばかりではなく、多くの復旧復興事業を抱える益城町にとって、給食センターの事業は重い負担となっていました。
そんな時に、国際的な奉仕団体が、厨房機器や配送車、食器など、約3億7000万円の及ぶ備品の支援をしてくれ、2019年の新学期から、町内の全小中学校で自前の給食を再開させることが出来るようになりました。再建されたセンターは、オール電化で1日最大3500食の調理が出来、炊き出しのための非常用調理室や備蓄倉庫、自家発電装置などを備えています。総事業費は、奉仕団体からの支援なども含め約20億5000万円。益城町内の小学校5校、中学校2校の児童・生徒約3400人分の給食提供にフル稼働しています。
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