北前船と金毘羅詣、そして鉄道の町として栄えた多度津
昨日の琴平町と共に、今日の多度津町も、以前、記事にしていますが(丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選)、その際はB級グルメの鍋ホルうどんが中心だったので、改めて今回、多度津について書いてみたいと思います。
前の記事でも少し触れましたが、多度津は、室町時代初めから約200年の間、香川氏の城下町として栄えました。その後、豊臣秀吉の四国征伐で香川氏は滅びますが、江戸時代になって、元禄年間に多度津藩が成立すると、2度目の城下町として栄えることになりました。
ところで、昨日の記事(上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる)で、十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』を取り上げましたが、弥次さん北(喜多)さんは、多度津にも来ています。大坂から丸亀まで船で渡り、こんぴらさんに参詣した二人は、善通寺と弥谷寺にもお詣りして、多度津から丸亀へ戻ります。
『続膝栗毛』の初編が発表された1810(文化7)年当時は、大坂と丸亀を結ぶ金毘羅船が一般的でした。人々は、丸亀の宿に荷物を預けて金毘羅宮へ詣で、また丸亀から大坂へ戻りました。なので、弥次北も、多度津から大坂へ直帰するのではなく、丸亀へ戻って荷物をピックアップしてから、大坂へ帰ったのでしょう。
多度津藩は、1694(元禄7)年、丸亀藩から分封されて成立しますが、藩主は丸亀城の部屋住みで、多度津には少数の家臣が住んで藩政を執り行っていました。多度津に陣屋が置かれたのは、4代藩主京極高賢の時代になってからのことで、次の5代高琢は、桜川の河口港だった多度津湛甫を、4年にわたる大工事の末、1838(天保9)年に立派な港へと変貌させます。
これにより多度津は、讃岐一の良港となり、北前船の基地として発展。讃岐三白と言われる塩や綿、砂糖などを積んで、日本海沿岸から北海道まで航海し、干鰯や肥料などを持ち帰りました。その結果、廻船問屋を始め、万問屋や干鰯問屋など、さまざまな問屋が軒を連ね、多度津は活況を呈します。
また、九州や中国、北陸地方など日本海側の人たちが、北前船で多度津に上陸し、金毘羅宮を目指すようになります。金比羅宮への参詣には、主にこんぴら五街道と呼ばれる道が使われましたが、中でも途中に善通寺がある多度津街道は、信仰の道として多くの人が利用し、多度津の浜には船宿や旅籠が建ち並びました。更に1889(明治22)年には、多度津を基点に北は丸亀、南は琴平までを結ぶ香川県初の鉄道が開通。多度津には車両修繕工場が置かれ、戦後の復興期には、千数百人の職員が働くマンモス工場となって、町は「鉄道マン」であふれました。
このように、四国随一の港を持ち、四国の鉄道網のルーツとなった多度津は、海運と鉄道業で繁栄。往時の面影は、町の中心部に残る町家や蔵屋敷、またSL「ハチロク」やその「動輪」、JR四国の多度津工場などに見ることが出来ます。
※多度津の町を歩いていて、「これ、なんだ?」と思った「清水温泉」は、大正時代に建てられた銭湯だったそうですが、だいぶ前に廃業。最近、それをリノベーションして「藝術喫茶 清水温泉」として営業しているとのことです。
コメント
コメントを投稿