投稿

1月, 2022の投稿を表示しています

千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る

イメージ
長瀞の寶登山神社、酉の市発祥の花畑大鷲神社に続く、日本武尊東征伝説の第3弾です。今日の舞台は、東京メトロ千代田線の根津駅から、歩いて5、6分の所にある根津神社(文京区)になります。 根津神社は、日本武尊が東征の折に、戦勝祈願のため、今の団子坂辺りに創祀したのが起源とされています。その後、時を経て、江戸城を築いた太田道灌が、社殿を造営しました。 更に時代が下って江戸時代、5代将軍徳川綱吉が、兄綱重の長男綱豊を養子とし、後継に据えた際に、屋敷地を根津神社に奉納し、神社の大造営に取り組みます。現存する社殿や透塀、唐門、楼門などは、この時建てられたもので、これに伴い、旧社地の千駄木から、現在地へ遷座されました。ちょうど、千代田線の千駄木駅から根津駅へ移動したような案配です。 綱吉による、天下普請と言われた大造営は、1706(宝永3)年に完成。その社殿は、権現造が特徴となっています。権現造は、石の間と呼ばれる一段低い建物を挟んで、本殿と拝殿をつなぐ構造で、平安時代に京都の北野天満宮で初めて造られました。かつては八棟造と呼ばれていましたが、日光東照宮に採用されてから、徳川家康の神号・東照大権現から権現造と呼ばれるようになりました。 北野天満宮は、何度も火災に遭っており、現在の社殿は、豊臣秀頼により1607(慶長12)年に造営されたもので、同じ年に伊達政宗によって創建された大崎八幡宮と共に、現存する最古の権現造となっています。日光東照宮は、それに遅れること10年、1617(元和3)年に社殿が完成。以来、権現造は神社建築に多く用いられるようになり、綱吉もこれを踏襲したのでしょう。 根津神社は、北野天満宮と違い、火災に遭うこともなく、また関東大震災や東京大空襲などからも免れ、どれ一つ欠けることなく現存しており、国の重要文化財に指定されています。特に、楼門は、江戸時代から残っているのは、都内で根津神社だけといいます。ちなみに、正面右側の随身は、水戸黄門こと水戸藩第2代藩主徳川光圀がモデルとも言われています。 また、社殿をぐるりと取り囲む塀は、格子越しに反対側が透けて見えることから「透塀」と呼ばれています。この透塀は、「唐門東方」「西門北方」「唐門西門間」の三つに分けて重文指定がされていますが、これは唐門と西門の所で分断されていると判断されたためです。透塀は銅瓦葺で、総延長は108間(約

酉の市の起源は日本武尊の命日に立った門前市

イメージ
昨日の記事( 宝登山を甘い芳香で包む黄金色の花「ロウバイ」 )で触れた、日本武尊の東征にまつわる伝説が残る鷲神社(おおとりじんじゃ)の話です。鷲神社は、酉の市で広く知られています。社伝によると、日本武尊が東征の折、天岩戸神話の中で、天宇受売女命が裸で踊った際の伴奏者・天日鷲命を祭る社に立ち寄り、戦勝を祈願したことから、天日鷲命と日本武尊を祭っている、としています。 しかし実際には、隣にある鷲在山(じゅざいさん)長國寺(ちょうこくじ)の境内に祭られていた鷲宮に始まると言われます。長國寺も酉の寺として知られ、浅草酉の市は、この長國寺が発祥とされます。 その長國寺は、寺の縁起によると、1630(寛永7)年に石田三成の遺子といわれる、 大本山長國山鷲山寺(じゅせんじ/千葉県茂原市)第13世日乾上人によって鳥越(台東区)に開山され、1669(寛文9)年に、新吉原の西隣に当たる現在地(台東区千束)に移転してきた、としています。 しかし、こちらもいろいろ不明な点があります。まず、石田三成の遺子は6人(3男3女)いて、長男と三男は確かに出家していますが、長男は臨済宗の僧、三男は真言宗の僧になっています。また、長國寺開山の頃、確かに日乾上人という高僧がいましたが、その日乾は、京都八本山の一つ本満寺第13世を経て、1602(慶長7)年に日蓮宗総本山身延山久遠寺の第21世を務めた人です。 久遠寺を退いた後は、一時、やはり京都八本山の一つ本圀寺に住したと言われ、その後、摂津国(大阪府)の能勢頼次に招かれ、能勢氏の領地(能勢郡)に隠居所・覚樹庵を建てました。頼次は、明智光秀と親しく、山崎の戦いでは光秀についたため、豊臣秀吉に領地を没収されますが、徳川家康に仕え、1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、家康により旧領を回復されました。そしてこの年、本満寺貫首であった日乾上人を招き、山や屋敷などを永代寄進。日乾は、そこに庵を結んだことになります。更に家康が亡くなった後、頼次は恩人である家康の菩提のためと能勢氏の祈願所として、覚樹庵境内に真如寺を建立、日乾上人が法務を執りました。 もちろん、長國寺を開山した日乾上人は、この日乾上人とは、同名異人なのかもしれません。ただ、長國寺に安置されている鷲妙見大菩薩(わしみょうけんだいぼさつ)の由来を聞くと、どうも話が混線したのでは、と思わないでもありません。

宝登山を甘い芳香で包む黄金色の花「ロウバイ」

イメージ
関東平野は、日本の平野の18%を占める、とにかくだだっ広い平野です。その中でも埼玉県は、西部に秩父山塊を抱えてはいるものの、ほとんどが平地で、私が住んでいる越谷市に至っては、ほとんどの場所が海抜5m未満、最も高い所でも8mないという、思い切り平べったい土地です。そのため、高架線を走る電車やホーム、大きめの河川橋の上などからは、東に筑波山、北に日光連山、西に富士山や南アルプス、南に東京スカイツリーが望めます。 東京も似たようなもので、奥多摩以外に高い山はなく、東京23区の最高峰は標高25.7mの愛宕山(港区の愛宕神社)という惨状です。いかに、関東平野がのっぺりしているかという証にはなりますね。 それでも埼玉には、秩父山塊があり、最高峰は秩父市と長野県川上村の境にある標高2483mの三宝山になります。ただ、山頂からの眺望は全くと言っていいぐらいないらしく、登山をする人は、近くの甲武信ケ岳のついで、あるいはアズマシャクナゲがきれいな十文字峠などとセットで登るようです。ちなみに、埼玉、山梨、長野3県にまたがる甲武信ケ岳は標高2475m、三宝山と同じく秩父市と川上村の境にある十文字峠は標高1962mになります。十文字峠には、私も登ったことがあります( 最も奥秩父らしい森林美を持つ十文字峠 )。その時に泊まった十文字小屋は、埼玉県側にあり、標高は2035m地点と、私のしがない登山歴の中では富士山に次ぐ高い山です。 これら2000m級の山々が連なる秩父には、「地球の窓」とも呼ばれる長瀞があります。長瀞の岩畳は、幅約80m、長さ約500mに及ぶ広大な自然岩石で、国の特別天然記念物に指定されています。また、長瀞と言えば、急流を船で下るスリリングな川下りが人気です。 そんな長瀞に、「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で、一つ星を獲得した寶登山(ほどさん)神社があります。今から1900年以上前の西暦111年、父・景行天皇の勅命により日本武尊は東国を平定。そして『日本書紀』によると、その帰途に武蔵国へ入ったとされます。そのため、武蔵国には、あちこちに日本武尊の東征にまつわる伝説が残っています。 寶登山神社もそうですが、秩父の三峯神社や、埼玉と共に武蔵国を形成していた東京の鷲神社(台東区)、根津神社(文京区)などにも、日本武尊伝説が伝えられています。寶登山神社については、尊が宝登山へ向か

植木の里・川口安行の話

イメージ
長男家族は、我が家から約9km、車で20分ぐらいの所に住んでいます。ルートはいくつかあるのですが、国道4号を突っ切るとJR武蔵野線東川口駅南口の戸塚地区、4号線を草加方面へ少し走ってから入ると安行地区を通ります。 安行地区は、「植木の里」と呼ばれ、その歴史は400年以上になります。かつては鋳物と共に川口の2大産業として、隆盛を極めましたが、東京に隣接していることから人口が増えると共に、住宅開発が進み、鋳物工場も緑化産業も徐々に減っています。 それでも安行には、川口市営植物取引センターや川口緑化センター樹里安、花と緑の振興センター、安行園芸センターなど、「植木の里」にふさわしい施設があります。植物取引センターでは、毎週火曜日、植木のせりが行われ、全国から関係者が集まります。また、センターの敷地には、JAさいたまの子会社「安行植物取引所」が運営する植木直売所があり、一般の人が購入出来るようになっています。 川口緑化センターは、川口の伝統産業である植木や花、造園の振興を図るため、緑化産業に関する情報の収集や提供を行う施設です。道の駅「川口・あんぎょう」が併設されており、多種多様な花と緑を販売する園芸販売コーナーや、レストラン、屋上庭園などがあります。 花と緑の振興センターは、県の施設で、生産者や造園業者向けの情報提供や講習を行う他、園内には植木や鑑賞用樹木など、2000種類以上の植物が展示されています。安行園芸センターは、農事組合法人あゆみの農協の施設で、植木や草花、園芸資材を購入出来ます。 安行は、1496(明応5)年、この地に曹洞宗の金剛寺を創建した中田安斎入道安行の名にちなんで付けられた地名と言われています。応仁の乱から20年ほど経ち、時は群雄割拠の戦国時代が幕を開けた頃でした。殺傷が続く戦乱の中、自らの所業に悩んでいた中田氏は、この地を行脚していた節庵禅師による金剛経で救われ、寺を建てることにしたと伝わります。 入道というぐらいですから、在家のまま剃髪し、仏道に進んだのでしょう。中田氏の出自については、いまひとつ分からないのですが、安行の子どもが、太田資長(道灌)の孫である資頼に仕えていたということから、安行も同時代を生きた資長の配下にあったのかもしれません。資長が、道灌を名乗るのは入道してからのことで、安行に影響を与えたと考えられなくもないかと。 戦国時代の中田

住民たちが丹精込めて作った流山の「あじさい通り」

イメージ
以前の記事( 二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街 )に書いた、松戸市の本土寺へ行った際、近くに住む友人の高橋昌男さんが、寺まで案内してくれました。本土寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、初夏には1万株のアジサイや5000株のハナショウブが咲き誇ります。で、ひとしきり、境内でアジサイなどを撮影した後、帰り際に高橋さんが、隣の流山に、「あじさい通り」というのがあって、本土寺とはまた違った趣があるから寄ってみたら、とアクセス方法を教えてくれました。 我が家とは逆方向でしたが、本土寺から1kmほどで、近くには「東部あじさい苑」という群生地もあるというので、行ってみることにしました。まず目指したのは、「東部あじさい苑」でした。国道6号から少し入った辺りで、道路を挟んだ向かいには、流山市東部公民館があるので、かなり分かりやすい場所でした。 ここは、小さな丘の斜面に約100mにわたって、アジサイが植えられていました。斜面には、階段も2箇所作られていて、下から眺めるだけではなく、近くで花を観賞することが出来ます。 斜面側には、建物などはなく、アジサイの奥や両側は、杉などの木々で覆われています。恐らく、杉林だった所を「あじさい苑」にしたのでしょうね。以前、群馬県の赤城山麓で、自生するアジサイを撮ったことがありますが、雰囲気がそこに似ていて、風景写真としても、いい感じの撮影スポットになっていました。 「あじさい通り」は、「東部あじさい苑」のあるバス通りから、2本入った住宅地の中にあります。距離にして400〜500m、歩いて5、6分です。 「あじさい通り」と「東部あじさい苑」は、南柏本州団地自治会の有志が、1992(平成4)年に植え始めたのが発端です。「あじさい通り」と呼ばれ、32種類ものアジサイで覆われる斜面は、以前は竹林だったそうです。それを、通り沿いの有志が、土地の所有者の承諾を得て、竹林の傾斜地を開墾。景観作りのために、アジサイを植栽したのが始まりです。 その後、植栽の範囲を広げ、「あじさい通り」に加えて、「東部あじさい苑」も作り、いつしか噂が噂を呼び、アジサイの群生地として知られるようになってきました。当初は、自治会の会員だけで、植栽や除草、剪定などを行っていましたが、千葉県立特別支援学校流山高等学園からの申し出により、同学園の生徒たちも、作業に参加するようにな

群馬県下で唯一現存する城櫓

イメージ
高崎は平安時代、赤坂の庄と呼ばれ、鎌倉時代には和田氏が城を築き、戦国時代を通じてこの地を治めました。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、上州の諸城は次々と陥落し、和田城もあえなく落城。その年、徳川家康が関東に入部し、和田の地は、徳川四天王の一人井伊直政によって支配されることになりました。 直政は、家康の命によって、和田城跡に城を築き、地名を高崎と改めました。この地は、中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝で、家康はその監視を行う城が必要と考えたのでした。 直政が、関ケ原の戦いで大功を挙げ、近江に移封されてからは、高崎城の城主は有力譜代大名が歴任。高崎は城下町として、また重要街道の宿場町として大いににぎわい、物資が集散し商業も栄えました。 明治維新で廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、または移築されました。現在、建物で残っているのは、乾櫓と東門だけで、実はこの二つも、当時名主であった梅山氏に払い下げられていたのだといいます。 1951(昭和26)年、高崎市史編纂委員数人が、市内を踏査中、下小鳥町で風変わりな土蔵を発見しました。旧高崎城各部実測図と照合したところ、それは乾櫓だということが判明しました。 高崎城には、御三階櫓(天守)と乾(北西)、艮(北東)、巽(南東)、坤(南西)の4基の隅櫓がありました。しかし、残っているのは、乾櫓だけ。しかも、高崎城はおろか、群馬県下唯一の現存城櫓となっています。 こうしたことから、乾櫓はその後74年に、梅山氏から市に寄贈され、現在地に三の丸模擬石垣を造り、その上に移築復元されました。また、東門も梅山氏宅の門になっていたところ、その数年後に乾櫓の隣に移築されることになりました。 東門の復元には、高崎和田ライオンズクラブが関わっています。80年2月、結成10周年を迎えた同クラブが、記念事業として梅山氏から東門を譲り受けて移築し、高崎市に寄贈したのです。その説明板によると、高崎城にはかつて16の城門があり、本丸門、刎橋門、東門は平屋門で、そのうち東門だけくぐり戸がついており、通用門として使われていたとあります。 高崎城東門は、本瓦葺きの単層入母屋造りで、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。向かって左が大戸、中央がくぐり戸、右が東門を出入りする人物改めや荷物改めを行った武者窓付の藩士詰所だとされています。

難攻不落と言われた総石垣の不思議な山城

イメージ
太田市は、群馬県の南東部にあり、南に利根川、北に渡良瀬川と、水量豊かな二つの川に挟まれています。江戸時代には、大光院の門前町、日光例幣使街道の宿場町(太田宿)として栄えました。大正期以降は、富士重工業の企業城下町として飛躍的な発展を遂げ、現在も北関東随一の工業製品出荷額を誇っています。 そんな太田市のほぼ真ん中にある金山に、関東七名城の一つで、日本100名城にも選定されている太田市のシンボル金山城があります。1469(文明元)年に、新田氏の一族・岩松家純によって造営されたのが始まりとされます。 その金山城は、難攻不落の城と言われ、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏といった有力な戦国大名が、延べ十数回にわたって攻め寄せましたが、戦闘では一度も落城することはありませんでした。 城というと、石垣の上に築かれた天守閣を思い浮かべると思いますが、このような城が一般的になるのは、織田信長の安土桃山時代以降のことです。中世の城は、ほぼ土だけで造られた山城で、石垣はほとんどありません。特に関東では、関東ローム層の赤土で造った城が多く見られます。 そんな中、金山城は、総石垣の山城だったといいます。城が築かれた金山(標高239m)は、岩盤で出来ており、石が容易に手に入ったということもあったのでしょう。そのせいか、石垣だけではなく、城内は石畳となっていたり、池も石垣で囲まれたりと、ちょっと日本らしくない城になっています。 城内の池は、「月ノ池」と「日ノ池」と呼ばれています。山頂にある「日ノ池」は、結構な大きさがある池で、側には石組みの井戸が二つあります。また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を溜める構造になっているそうで、これらによって、山頂にありながら、池は涸れることがないといいます。「月ノ池」も、「日ノ池」と同じ造りで、上下二段の石垣で囲まれた池になっています。 城は、岩松氏から由良氏へと城主が替わり、更に1584(天正12)年には北条氏が支配します。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡し、金山城も廃城となりました。 現在、金山城跡として、我々が目にしているのは、1992(平成4)年から発掘調査を開始し、往時の通路形態を復元したもので、2001(平成13)年に第1期整備事業が完成。引き続き、04年から第2期整備事業が実施されました。

ヨシが繁る広大な湿地帯・渡瀬遊水地

イメージ
義父は、関東平野のほぼ中央にある茨城県古河市の出身でした。戦後、ソ連によるシベリア抑留から生還、東京電力で定年まで勤め上げました。私の妻は、東京・中野の家で生まれましたが、義父は定年前に妹夫婦と隣り合わせで古河の土地を買っており、リタイア後は古河で暮らしました。 私の父は、水戸の出身でしたが、若い頃に東京へ出てしまい、祖父も晩年は東京で同居していました。そのため、水戸の実家は既になく、子どもの頃から田舎というものを知らなかった私は、古河が初めての田舎という感じでした。 その古河市のはずれを流れる渡良瀬川は、栃木県足尾町に源を発し、ここで利根川と合流します。渡良瀬川をはさんで栃木、群馬、茨城、埼玉の県境が交差する辺りに広がるのが、渡良瀬遊水地です。その中央には、かつて日本最初の公害事件として知られる足尾鉱毒事件で廃村になった谷中村がありました。 渡良瀬川河川敷で行われる古河の花火 その谷中村の遺跡が、今も谷中湖のほとりに残っています。しかし、湖周辺にはサイクリング・ロードが巡り、湖上ではウインド・サーフィンを楽しむレジャー・スポットに変貌しています。 東西約6km、南北約9km、東京の山手線内とほぼ同じ広さに相当する遊水地一帯は、ヨシが繁る広大な湿地帯です。その景観は、釧路湿原にも例えられるほどのスケールを持っています。都心から電車で1時間足らずの所だとは、ちょっと信じがたい光景です。 ここには、たくさんの野鳥が生息し、フナを始めとする魚も豊富。釣りを楽しむ人も多くいます。人の背丈よりはるかに高く生い茂るヨシは、よしずの材料となります。そのため、早春にはヨシ焼きが行われ、この広大な野が炎に包まれます。 また、遊水地からは東に筑波山、西に富士山、北に日光連山が望めます。冬の夕焼けと、晩秋と春先の早朝に川霧がたちこめる中の朝焼けは、格好の被写体となり、プロ、アマ問わず、多くの写真家が訪れます。特に元旦には、筑波山から昇る初日の出をとらえようと、土手の上にずらりとカメラが並ぶそうです。 もう1カ所、お薦めなのが、古河総合公園です。渡良瀬遊水地に比べると、ぐっとスケールは小さくなりますが、それでも都心に比べれば広い敷地の中、四季の花々が咲き誇り、市民の憩の場となっています。古河城主・土井利勝ゆかりのハナモモは、市の花に制定されていて、2000本もの桃林は4月上旬が見頃となりま

安積原野の開拓と安積疏水開削事業

イメージ
郡山市の麓山公園に「安積疏水麓山の飛瀑」という人工の滝があります。 これは、那須疏水(栃木県)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖‐京都市)と並び、日本三大疏水の一つに数えられる安積疎水の完成を記念して、1882(明治15)年に造られたものです。昭和初期までは、広く人々に親しまれていましたが、いつしか大半が埋められ、ほんの一部が顔をのぞかせるだけの残念な滝になっていました。 その後、平成に入り、安積原野を開拓した先人たちの偉業を後世に伝えるため、麓山の滝を復元しようとの気運が高まり、1991年に郡山市民のシンボルとして滝が蘇り、滝見台も整備されました。2002年には「安積疎水麓山の飛瀑」の名称で国の登録有形文化財となり、更に16年には日本遺産認定と世界かんがい施設遺産登録も果たしています。 明治初期まで、郡山周辺は水利が悪く、雨量も少なかったため、荒涼とした原野が広がっていました。西には国内有数の広さを誇る猪苗代湖がありましたが、猪苗代の水は、奥羽山脈がそびえる東側の安積原野には流れてきませんでした。疏水開さくの構想は、江戸時代からありましたが、水利の問題があり、疏水は夢物語となっていました。 が、明治維新後、開拓と産業振興が国の発展の源だと考えた内務卿・大久保利通が、殖産興業と士族授産を結び付けた全国的なモデル事業を、広大な原野を有する安積で実施することを決断。オランダ人技師の指導で近代土木技術を導入し、実測データに基づく科学的検証で水利問題を解決しました。また、水路工事の最大の難関・奥羽山脈のトンネル掘削も見事成功させ、疏水通水が実現。安積疎水は、後の那須疏水と琵琶湖疏水の建設にも大きな影響を与えました。 郡山市郊外に、大久保利通を祭る大久保神社があります。大久保は会津の仇敵・薩摩出身ですが、疏水の実現は、その恩讐を超える偉業だったのでしょう。 ところで、麓山の滝が復元されて3年後の94年夏、鳥取女子高校社会部の生徒たちが、福島県の喜多方へやって来ました。彼女たちは、「食文化と町おこし」というテーマで、研究活動を続けており、最初はそばの名産地を訪ねていました。そのうち、「そばよりもラーメンの方がいいよ。全国のラーメン食べれるじゃん」ということになり、この年は喜多方ラーメンの本場を訪ねることになったのです。 しかし、喜多方市内でアンケートを実施したものの、回収が思うようにい

山形の芋煮は、京都の「いもぼう」がルーツらしい

イメージ
昨日の記事( 立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す )に書いた山寺から、車で15分ほどの所に、親友の陶芸家・寒河江潤一さんの天童焼若松窯がありました。寒河江さんとは20年来の友人で、パソコン・メールが主流の時代には、神戸のDHさんと3人でいわゆるメル友の間柄でした。その後、DHさんと天童へ伺ったり、国内外のあちこちでオフ会をしたり、顔を合わせるようになりました。私がリタイアした一昨年には、天童でサクランボ援農オフ会の予定でしたが、新型コロナの蔓延により2年続けて中止。今年こそ実現を、と念願していたところ、寒河江さんがこの1月2日に急逝され、コロナ前の2019年3月に、天童と山形ではしご酒をしたのが、最後となってしまいました。 その寒河江さんに誘われ、山形の秋の風物詩・芋煮会を初体験させてもらったことがありました。もう12〜13年前の話ですが、寒河江さんとの思い出の一つとして、残しておきます。 芋煮会は、近畿ろうあ連盟と小樽ろうあ協会のスキー交流会について、明石の橋本維久夫さんや小樽の西本吉幸さんが、地元の寒河江さんらと打ち合わせるため、天童に集まるタイミングで開催されたものでした。私も、寒河江さんから話を伺い、旧知の皆さんとお会いするため、福島の取材後、天童へ立ち寄りました。 芋煮会当日は、朝5時半起きで里芋の収穫にゴー。この畑は、食の安全が揺らいでいる折、お年寄りに安心でおいしい野菜を食べてもらおうと、有志がボランティアでたち上げ、無農薬・有機肥料の野菜作りに取り組んでいるもので、「有気菜園」と名付けていました。収穫した野菜は、市内にある特別養護老人ホームの清幸園と明幸園にプレゼント。年間約30種類の野菜を育て、お年寄りに季節ごとの野菜を届け喜ばれているそうです。 そして、どうせなら、と芋煮会用の里芋も作っていて、ついでにトウモロコシと枝豆も芋煮会に合わせて収穫出来るよう植え付けていました。トウモロコシと枝豆は、私も友人の高橋昌男さんの畑で収穫経験があり、慣れたものですが、里芋は初めての経験でした。 いったんホテルに戻って朝食の後、今度は芋煮の下準備にゴー。やがて枝豆が茹で上がり、ここでビールを1本。そして、また1本。更に用事を済ませた寒河江さんが到着して1本・・・と、結局、本番の乾杯の前に4本も空けてしまいました。 最初の芋煮は、汁だくで・・・正直、具はあま

立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す

イメージ
同じ編集部にいたK嬢は、階段フェチでした。あるエッセーで、「階段が好きだ。歴史ある寺社の石段、しかもちょっと長いぐらいの方がうれしい。頭上で待っている景色への期待を高めつつ、一段ごとに景色が変化してゆくのも楽しい。すり減った石段には、古の人も同じように息を切らしながら上ったのだなあと思う。そして何より、最上段に到達した時の達成感がたまらない。後で襲ってくる筋肉痛は覚悟の上だ」なんてことを、書いていました。 当然、取材で訪れた山寺の1015段の石段なんざ、うれしいだけだったようです。その証に、東京に戻ってから、ネットで「日本一」と「石段」のキーワード検索をしてみたそうです。その結果、熊本県美里町にある金海山大恩教寺の釈迦院に通じる石段が、3333段で日本一だったとのこと。ちなみにこれは、1988年に完成したもので、それまでは山形県・羽黒山神社の参道2446段が日本一だったらしく、これらにも、いつか挑戦してみたい、と酔狂なことを言っていました。 何を隠そう、山寺へは私も2度ほど行っています。なので、行きはよいよい帰りは怖いじゃないですが、下りの方が膝にくるのを体験しております。そう言えば、前の記事に書いた愛知県新城市の鳳来寺表参道( 私のルーツ旅その二 - 新城編 )も、麓から1425段の石段が続く完全な山道でした。カメラマンの田中さんと私は、当然、参道入口で写真を撮った後、本堂近くまで車で移動しました。K嬢だったら、徒歩で石段にチャレンジしたかもしれません。 山寺は、正しくは宝珠山阿所川院立石寺と言います。清和天皇の勅願により860(貞観2年)に慈覚大師円仁が開山したと伝えられる天台宗の古刹です。荒々しい奇岩を露わにした岩山は、杉木立に覆われ、山腹に大小40余りの堂塔が建ちます。石段は鬱蒼とした緑の中を縫って、奥之院まで続いています。 山寺の登山口は、JR仙山線山寺駅から徒歩約7分。参道ではなく、潔く登山口と言っちゃってるところは好感が持てますが、それで石段の数が減るわけではありません。で、最初の石段を登り切った所に、国指定重要文化財である根本中堂があります。その側には、俳聖・松尾芭蕉像と、弟子の曾良像が立っています。 芭蕉が、『おくの細道』の途次、ここを訪れたのは1689(元禄2)年の旧暦5月27日、太陽暦では7月13日のこと。そして芭蕉は、有名な一句「閑さや岩にし

前田真三さんが愛した美瑛の丘

イメージ
以前の記事( 東海随一の紅葉の名所・香嵐渓と足助の町並み )にも書きましたが、かつて編集に携わっていた雑誌で、写真家の前田真三さんに1年間表紙をお願いしたことがありました。その企画は、凸版印刷アイデアセンターの担当者から持ち込まれたもので、前田さんが、写真集『奥三河』で毎日出版文化賞特別賞を受賞した翌年、ちょうど『丘の四季』が出版された頃でした。 で、前田さんが、7月号用に選んだ写真は、美瑛の丘の写真でした。拓真館のウェブサイトにある「 心に残る10枚 」の一つ、「麦秋多彩」が、その写真です。これについて前田さんは、本誌のエッセーで「麦熟れる丘」と題して、次のように書いていました。 「さわやかな初夏の風が、心地よく丘を吹き抜けていた。あたり一面、真っ白いジャガイモの花畑である。ゆるやかな丘は、適当な起伏を保ちながら果てしなく続いている。空は抜けるように青い。目を東に向けると、まぶしいばかりの残雪のなかに噴煙を真っすぐ天に突き上げている十勝岳の主峰。やや北に転ずるとトムラウシから大雪連峰が指呼の間に望まれる。そのとき私は、あまりにも雄大で美しい風景に心を奪われてしまった。そして、馬の背のようななだらかな丘の上に整然と並んだ一条のカラ松林を見た。それは周囲の風景とよく調和している、というよりも、この丘のカラ松のために丘をとりまく大風景が存在している、という感じであった。「これこそ日本の新しい風景だ」と、思わず心のなかで叫んだ。これがこの丘との最初の出会いである。 この丘に通いはじめて、やがて16年になろうとしている。この丘とは、北海道中央部、旭川市から富良野市に至る中間の美馬牛峠および深山峠付近の丘陵地帯である。この付近一帯は、人工的に整地された畑作地帯であるから、やや野趣に欠ける面もあるが、ジャガイモをはじめ小麦やビートなど西洋的な作物が多く、ゆるやかな丘の連なりは、ヨーロッパの田園に匹敵するしゃれた風景であるといっても過言ではない。 さて、この写真はその丘陵地帯の真ん中にある美瑛町で撮影したものである。すでに日暮れに近い時刻で、空は異様に暗かった。四囲の緑がようやく落ち着きをみせ、麦畑がゆるやかな起伏で広がっていた。わずかな雲のすきまから夕日が差し込み、麦秋の丘は一段と赤味を増していた。そんな光の魔術に、とりつかれたように私はシャッターを切った。風景写真に理屈はいら