千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る

根津神社 透塀

長瀞の寶登山神社、酉の市発祥の花畑大鷲神社に続く、日本武尊東征伝説の第3弾です。今日の舞台は、東京メトロ千代田線の根津駅から、歩いて5、6分の所にある根津神社(文京区)になります。

根津神社は、日本武尊が東征の折に、戦勝祈願のため、今の団子坂辺りに創祀したのが起源とされています。その後、時を経て、江戸城を築いた太田道灌が、社殿を造営しました。

更に時代が下って江戸時代、5代将軍徳川綱吉が、兄綱重の長男綱豊を養子とし、後継に据えた際に、屋敷地を根津神社に奉納し、神社の大造営に取り組みます。現存する社殿や透塀、唐門、楼門などは、この時建てられたもので、これに伴い、旧社地の千駄木から、現在地へ遷座されました。ちょうど、千代田線の千駄木駅から根津駅へ移動したような案配です。

根津神社

綱吉による、天下普請と言われた大造営は、1706(宝永3)年に完成。その社殿は、権現造が特徴となっています。権現造は、石の間と呼ばれる一段低い建物を挟んで、本殿と拝殿をつなぐ構造で、平安時代に京都の北野天満宮で初めて造られました。かつては八棟造と呼ばれていましたが、日光東照宮に採用されてから、徳川家康の神号・東照大権現から権現造と呼ばれるようになりました。

根津神社 透塀

北野天満宮は、何度も火災に遭っており、現在の社殿は、豊臣秀頼により1607(慶長12)年に造営されたもので、同じ年に伊達政宗によって創建された大崎八幡宮と共に、現存する最古の権現造となっています。日光東照宮は、それに遅れること10年、1617(元和3)年に社殿が完成。以来、権現造は神社建築に多く用いられるようになり、綱吉もこれを踏襲したのでしょう。

根津神社は、北野天満宮と違い、火災に遭うこともなく、また関東大震災や東京大空襲などからも免れ、どれ一つ欠けることなく現存しており、国の重要文化財に指定されています。特に、楼門は、江戸時代から残っているのは、都内で根津神社だけといいます。ちなみに、正面右側の随身は、水戸黄門こと水戸藩第2代藩主徳川光圀がモデルとも言われています。

また、社殿をぐるりと取り囲む塀は、格子越しに反対側が透けて見えることから「透塀」と呼ばれています。この透塀は、「唐門東方」「西門北方」「唐門西門間」の三つに分けて重文指定がされていますが、これは唐門と西門の所で分断されていると判断されたためです。透塀は銅瓦葺で、総延長は108間(約200m)、300年以上経った現在でも、寸分の狂いもないそうです。


ところで、根津の南にある湯島にも、日本武尊にまつわる神社があります。日本武尊と、その妃である弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を祭る妻恋神社です。日本武尊が東征のため海を渡っている際、大時化に見舞われ、舟が沈みそうになります。その時、弟橘媛命が、海に身を投じて海神を鎮めたことで、尊たちは無事に上陸して、東国を平定することが出来ました。


湯島は、東征の際の行宮があったとされ、妻を思って嘆く尊の姿を見て、土地の人たちが、二人を祭ったのが、妻恋神社の起源と言われます。後に、五穀の神の稲荷が合祀され、徳川家康から寄進された湯島天神近くの社地に鎮座し、妻恋稲荷と呼ばれていました。しかし、1657(明暦3)年に起こった明暦の大火(振袖火事)で焼失。1660(万治3)年に、神田明神に近い現在地に遷座されました。こちらは、根津神社と違って、関東大震災と空襲で焼けてしまいますが、その都度、有志により再建されています。


文京区は、もともと五つの台地といくつもの谷で出来ており、坂が多いことで知られます。その数、1000箇所以上とも言われ、名前の付いている坂だけでも115箇所あるそうです。妻恋神社の前も坂になっていて、妻恋坂の名が付いています。また、千代田線が地下を走る都道452号神田白山線と蔵前橋通りの交差点は、妻恋坂交差点で、蔵前橋通りは、この交差点から本郷通りまでの間、新妻恋坂と呼ばれています。

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