難攻不落と言われた総石垣の不思議な山城
太田市は、群馬県の南東部にあり、南に利根川、北に渡良瀬川と、水量豊かな二つの川に挟まれています。江戸時代には、大光院の門前町、日光例幣使街道の宿場町(太田宿)として栄えました。大正期以降は、富士重工業の企業城下町として飛躍的な発展を遂げ、現在も北関東随一の工業製品出荷額を誇っています。
そんな太田市のほぼ真ん中にある金山に、関東七名城の一つで、日本100名城にも選定されている太田市のシンボル金山城があります。1469(文明元)年に、新田氏の一族・岩松家純によって造営されたのが始まりとされます。その金山城は、難攻不落の城と言われ、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏といった有力な戦国大名が、延べ十数回にわたって攻め寄せましたが、戦闘では一度も落城することはありませんでした。
城というと、石垣の上に築かれた天守閣を思い浮かべると思いますが、このような城が一般的になるのは、織田信長の安土桃山時代以降のことです。中世の城は、ほぼ土だけで造られた山城で、石垣はほとんどありません。特に関東では、関東ローム層の赤土で造った城が多く見られます。
そんな中、金山城は、総石垣の山城だったといいます。城が築かれた金山(標高239m)は、岩盤で出来ており、石が容易に手に入ったということもあったのでしょう。そのせいか、石垣だけではなく、城内は石畳となっていたり、池も石垣で囲まれたりと、ちょっと日本らしくない城になっています。
城内の池は、「月ノ池」と「日ノ池」と呼ばれています。山頂にある「日ノ池」は、結構な大きさがある池で、側には石組みの井戸が二つあります。また、谷をせき止め、斜面からの流水や湧き水を溜める構造になっているそうで、これらによって、山頂にありながら、池は涸れることがないといいます。「月ノ池」も、「日ノ池」と同じ造りで、上下二段の石垣で囲まれた池になっています。
城は、岩松氏から由良氏へと城主が替わり、更に1584(天正12)年には北条氏が支配します。しかし、1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡し、金山城も廃城となりました。
現在、金山城跡として、我々が目にしているのは、1992(平成4)年から発掘調査を開始し、往時の通路形態を復元したもので、2001(平成13)年に第1期整備事業が完成。引き続き、04年から第2期整備事業が実施されました。
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