酉の市の起源は日本武尊の命日に立った門前市

長國寺 酉の市

昨日の記事(宝登山を甘い芳香で包む黄金色の花「ロウバイ」)で触れた、日本武尊の東征にまつわる伝説が残る鷲神社(おおとりじんじゃ)の話です。鷲神社は、酉の市で広く知られています。社伝によると、日本武尊が東征の折、天岩戸神話の中で、天宇受売女命が裸で踊った際の伴奏者・天日鷲命を祭る社に立ち寄り、戦勝を祈願したことから、天日鷲命と日本武尊を祭っている、としています。

しかし実際には、隣にある鷲在山(じゅざいさん)長國寺(ちょうこくじ)の境内に祭られていた鷲宮に始まると言われます。長國寺も酉の寺として知られ、浅草酉の市は、この長國寺が発祥とされます。

鷲在山長國寺

その長國寺は、寺の縁起によると、1630(寛永7)年に石田三成の遺子といわれる、 大本山長國山鷲山寺(じゅせんじ/千葉県茂原市)第13世日乾上人によって鳥越(台東区)に開山され、1669(寛文9)年に、新吉原の西隣に当たる現在地(台東区千束)に移転してきた、としています。

しかし、こちらもいろいろ不明な点があります。まず、石田三成の遺子は6人(3男3女)いて、長男と三男は確かに出家していますが、長男は臨済宗の僧、三男は真言宗の僧になっています。また、長國寺開山の頃、確かに日乾上人という高僧がいましたが、その日乾は、京都八本山の一つ本満寺第13世を経て、1602(慶長7)年に日蓮宗総本山身延山久遠寺の第21世を務めた人です。

長國寺 酉の市

久遠寺を退いた後は、一時、やはり京都八本山の一つ本圀寺に住したと言われ、その後、摂津国(大阪府)の能勢頼次に招かれ、能勢氏の領地(能勢郡)に隠居所・覚樹庵を建てました。頼次は、明智光秀と親しく、山崎の戦いでは光秀についたため、豊臣秀吉に領地を没収されますが、徳川家康に仕え、1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、家康により旧領を回復されました。そしてこの年、本満寺貫首であった日乾上人を招き、山や屋敷などを永代寄進。日乾は、そこに庵を結んだことになります。更に家康が亡くなった後、頼次は恩人である家康の菩提のためと能勢氏の祈願所として、覚樹庵境内に真如寺を建立、日乾上人が法務を執りました。

もちろん、長國寺を開山した日乾上人は、この日乾上人とは、同名異人なのかもしれません。ただ、長國寺に安置されている鷲妙見大菩薩(わしみょうけんだいぼさつ)の由来を聞くと、どうも話が混線したのでは、と思わないでもありません。

長國寺 酉の市

長國寺では、開山当時から、11月酉の日に、大本山鷲山寺の鎮守である鷲妙見大菩薩(鷲大明神)の出開帳が行われ、 それに合わせて立った門前市が、浅草酉の市の起源だと言われます。その後、1771(明和8)年に長國寺第13世日玄上人によって、その鷲大明神が、鷲山寺から長國寺に勧請されます。そして、鷲大明神が安置された鷲宮は、「おとりさま」と尊称され、多くの人が参拝に訪れるようになりました。

鷲山寺の鎮守だった鷲神社は、天日鷲命と日本武尊を祭神としており、浅草の鷲神社が伝える由来は、こちらの鷲神社に伝わる話かもしれません。ただ、茂原の鷲神社は、1689(元禄2)年の創建らしく、日本武尊の東征とは明らかに時代が違うので、やはり無理がありそうです。

長國寺 酉の市
ところで、浅草酉の市は、長國寺が発祥だということは分かりましたが、酉の市自体は、もう少し北の花又村(現・足立区花畑)の大鷲神社が最初だとされています。この大鷲神社には、それこそ日本武尊伝説が残っています。

日本武尊が、東征の帰途、この地に本陣を置き、蝦夷を平定して人々を解放したと伝えられます。人々は尊の善政に厚く感謝し、崩御の後に日本武尊をお祭りし、命日とされる11月酉の日に神恩感謝の祭りを行うようになりました。やがて祭りに合わせて、門前市が開かれるようになり、これが、「酉の市」の起源と言われています。

古い時代の酉の市には、御祭神の好物とされるニワトリが、生きたまま奉納され、翌日、浅草観音に納められました。大鷲神社の氏子は、ニワトリを神様が召し上がる物として、自分たちは決して食べなかったといいます。この風習は昭和20年頃まで続き、今も一部で継承されているとも言われます。

江戸時代中頃までは、花又の酉の市のみ博打が認められていたこともあって、ものすごい人出で、あまりの参詣人の多さに、千住大橋が下がると形容されるほどだったようです。そのため当時は、花又を「本の酉」とか「一ノ酉」、千住にある大鷲院勝専寺を「中の酉」もしくは「二ノ酉」、長國寺を「新の酉」や「三ノ酉」と呼んでいました。しかし、花又での賭博禁止や、長國寺のすぐ側に新吉原が控えていたこと、更には鷲大明神が勧請されたことで、浅草酉の市の方が賑わうようになりました。

鷲神社 酉の市

そして、明治新政府が出した「神仏分離令」により、長國寺から鷲神社が分離、浅草酉の市も、それぞれに開催するようになり、現在に至っています。

なお、「中の酉」「二ノ酉」と呼ばれていた勝専寺の酉の市は、明治時代に廃絶します。しかし、徳川秀忠と家光愛蔵の大鷲大明神像は、今もしっかりと本堂に安置されています。また、この寺の本尊は阿弥陀三尊ですが、荒川から引き上げられ、千住の地名の由来になったと言われる千手観音像(非公開)も収蔵しているそうです。

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