山形の芋煮は、京都の「いもぼう」がルーツらしい
昨日の記事(立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す)に書いた山寺から、車で15分ほどの所に、親友の陶芸家・寒河江潤一さんの天童焼若松窯がありました。寒河江さんとは20年来の友人で、パソコン・メールが主流の時代には、神戸のDHさんと3人でいわゆるメル友の間柄でした。その後、DHさんと天童へ伺ったり、国内外のあちこちでオフ会をしたり、顔を合わせるようになりました。私がリタイアした一昨年には、天童でサクランボ援農オフ会の予定でしたが、新型コロナの蔓延により2年続けて中止。今年こそ実現を、と念願していたところ、寒河江さんがこの1月2日に急逝され、コロナ前の2019年3月に、天童と山形ではしご酒をしたのが、最後となってしまいました。
その寒河江さんに誘われ、山形の秋の風物詩・芋煮会を初体験させてもらったことがありました。もう12〜13年前の話ですが、寒河江さんとの思い出の一つとして、残しておきます。
芋煮会は、近畿ろうあ連盟と小樽ろうあ協会のスキー交流会について、明石の橋本維久夫さんや小樽の西本吉幸さんが、地元の寒河江さんらと打ち合わせるため、天童に集まるタイミングで開催されたものでした。私も、寒河江さんから話を伺い、旧知の皆さんとお会いするため、福島の取材後、天童へ立ち寄りました。
芋煮会当日は、朝5時半起きで里芋の収穫にゴー。この畑は、食の安全が揺らいでいる折、お年寄りに安心でおいしい野菜を食べてもらおうと、有志がボランティアでたち上げ、無農薬・有機肥料の野菜作りに取り組んでいるもので、「有気菜園」と名付けていました。収穫した野菜は、市内にある特別養護老人ホームの清幸園と明幸園にプレゼント。年間約30種類の野菜を育て、お年寄りに季節ごとの野菜を届け喜ばれているそうです。
そして、どうせなら、と芋煮会用の里芋も作っていて、ついでにトウモロコシと枝豆も芋煮会に合わせて収穫出来るよう植え付けていました。トウモロコシと枝豆は、私も友人の高橋昌男さんの畑で収穫経験があり、慣れたものですが、里芋は初めての経験でした。
いったんホテルに戻って朝食の後、今度は芋煮の下準備にゴー。やがて枝豆が茹で上がり、ここでビールを1本。そして、また1本。更に用事を済ませた寒河江さんが到着して1本・・・と、結局、本番の乾杯の前に4本も空けてしまいました。
最初の芋煮は、汁だくで・・・正直、具はあまりなかったのですが、続いて出来上がった鍋は具だくさんで、とってもおいしい芋煮を堪能させてもらいました。聞けば、山形に限らず、東北各地で芋煮はあるそうですが、例えば山形は醤油ベースで牛肉を使うのに対し、宮城は味噌仕立てで豚肉を使うなど、土地土地によって個性があるようです。
ところで、この芋煮、実は京都の「いもぼう」がルーツなんだとか。
日本一の棒鱈産地・稚内の記事(日本最北端・風の街 - 稚内)でも触れましたが、京都のおせち料理には、真鱈を干した棒鱈の甘辛煮が欠かせないといい、稚内で作られた棒鱈のほとんどが、京都で消費されます。その歴史は古く、江戸時代中頃には、稚内などで作られた棒鱈が、松前から北前船で北陸の港へ陸揚げされ、そこから陸路と琵琶湖を経て京都へ運ばれました。そのため、京都で鱈といえば、干物の棒鱈の方が有名なくらいなんだそうです。
「いもぼう」は、この棒鱈と芋を合わせた料理です。「いもぼう」の芋は、里芋の品種の一つ「唐芋(トウノイモ)」です。以前、雑誌で「いもぼう平野家」13代当主の北村多造さんのインタビュー記事を掲載したことがありますが、その際、この組み合わせについて、次のように教えてくださいました。
「初代の平野権太夫は、若い頃、御所の警固役、今で言う警視総監のような役でした。天皇の九州行幸にお供をした際『唐芋』を持ち帰り、これを円山に植えた。それがうまく育ち、形が海老に似ているので『海老芋』と称した。この芋と松前藩からの献上物の棒鱈とを、一緒に焚き合わせることに成功した。これが京名物の『いもぼう』となったわけです」で、これがなぜ、山形の芋煮のルーツなのかというと、ここにも北前船が関わっているのです。
山形県内の北前船寄港地は、庄内藩の本拠地・鶴岡と、最上川の河口都市・酒田がありました。特に酒田は、北前船発祥の地とも言われ、「西の堺・東の酒田」と称されるほど栄えました。それを支えたのが、最上川の舟運で、酒田からは最上川流域で作られた米や紅花などが京や大坂へ運ばれ、逆に京文化や各地の産物が、酒田経由で最上川流域にもたらされました。
その最上川舟運は、1694(元禄7)年に最大の難所・黒滝の瀬(白鷹町)の岩盤掘削工事が完成するまで、出羽三山参詣の宿場町でもあった長崎(中山町)が終着点でした。長崎は、山形藩や米沢藩の船荷が積み換えられる重要な船着場となっていました。その際、荷を降ろすだけならともかく、荷受けをするには、相手の到着を待たねばならず、その時間調整が結構大変だったようです。
最上川舟運の船頭たちは、荷を待つ間、北海道の棒鱈と船着場近くにある小塩の里芋を、川岸の松の枝に吊した鍋で煮て食べるようになりました。山形の内陸部も、京都同様、魚と言えば干し魚が主流で、山形の郷土料理「棒鱈煮」は、京文化に影響を受けたものとされます。そうした下地もあって、京都の「いもぼう」にあやかった料理を作ったのではないでしょうか。
そしてこれが、芋煮会のルーツとされ、鍋を吊した松は「鍋掛松」と呼ばれるようになりました。松は、1917(大正6)年の大風で倒れたり、左沢線の工事で伐採されたりしましたが、その都度復元され、現在、最上川中山緑地公園の側にある鍋掛松は、実は5代目なんだとか。
ちなみに、いもぼう平野家の北村さんが、「いもぼう」の秘密を知ったのは、友人から教えられてのことでした。いもぼう平野家では、棒鱈を1週間から10日かけて水で戻し、これと海老芋を約30時間かけて焚くのだそうです。30時間も焚いたら、普通、煮崩れしそうなものですが、それがいわゆる「夫婦焚き」というやつで、素材がそれぞれ持っている性質がうまく作用し合っているということらしいです。それについて、北村さんは、次のように話してくれました。
「私もただ出合いのもの、というくらいで、よう分からしませなんだ。私の学校時代の友人で、京都大学の農学部長やっているのがいまして、同窓会で一緒になった。そこで『ターちゃん、芋と棒鱈、なんで一緒に焚くか知ってるか』言わはる。『博士や思うて偉そうなこと言うな。昔から出合いのもので、ずうっとそうしてるがな。どうせあんたは芋や棒鱈すり潰して、顕微鏡で見てんやろ』『そや。だけどあんた、それでよう料理組合の組合長さんやってますな。あんたにだけ教えたろ。芋の灰汁はな、顕微鏡で見ると、雪の結晶みたいになってる。それが棒鱈の身にギュッと食い込んで、棒鱈の膠質を溶かす。棒鱈をすり潰すと、膠の代わりになるようなネバーッとしたものになる。これやがな、ターちゃん。これが棒鱈の身崩れを防ぎ、膠質が芋に食い込んで形を崩さんのや。お前の先祖は偉いな。今ごろ俺が研究して分かったことを、300年も前からやってはるんやから」
指名代打のDHです。
返信削除何度か天童にはお邪魔しているのに芋煮会未体験です。秋の風物詩ですから、機会がなかっただけですけど。
今年は援農どうなるでしょうね?
寒河江さんのいない天童に行っても・・・とも思いましたが、昨年末にやりとりした際、来年こそはと話していましたし、こんな時期で葬儀にも伺えなかったので、出来れば今年は行きたいです。。。
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