安積原野の開拓と安積疏水開削事業

安積疏水麓山の飛瀑
郡山市の麓山公園に「安積疏水麓山の飛瀑」という人工の滝があります。

これは、那須疏水(栃木県)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖‐京都市)と並び、日本三大疏水の一つに数えられる安積疎水の完成を記念して、1882(明治15)年に造られたものです。昭和初期までは、広く人々に親しまれていましたが、いつしか大半が埋められ、ほんの一部が顔をのぞかせるだけの残念な滝になっていました。

その後、平成に入り、安積原野を開拓した先人たちの偉業を後世に伝えるため、麓山の滝を復元しようとの気運が高まり、1991年に郡山市民のシンボルとして滝が蘇り、滝見台も整備されました。2002年には「安積疎水麓山の飛瀑」の名称で国の登録有形文化財となり、更に16年には日本遺産認定と世界かんがい施設遺産登録も果たしています。

明治初期まで、郡山周辺は水利が悪く、雨量も少なかったため、荒涼とした原野が広がっていました。西には国内有数の広さを誇る猪苗代湖がありましたが、猪苗代の水は、奥羽山脈がそびえる東側の安積原野には流れてきませんでした。疏水開さくの構想は、江戸時代からありましたが、水利の問題があり、疏水は夢物語となっていました。

が、明治維新後、開拓と産業振興が国の発展の源だと考えた内務卿・大久保利通が、殖産興業と士族授産を結び付けた全国的なモデル事業を、広大な原野を有する安積で実施することを決断。オランダ人技師の指導で近代土木技術を導入し、実測データに基づく科学的検証で水利問題を解決しました。また、水路工事の最大の難関・奥羽山脈のトンネル掘削も見事成功させ、疏水通水が実現。安積疎水は、後の那須疏水と琵琶湖疏水の建設にも大きな影響を与えました。

安積疏水麓山の飛瀑

郡山市郊外に、大久保利通を祭る大久保神社があります。大久保は会津の仇敵・薩摩出身ですが、疏水の実現は、その恩讐を超える偉業だったのでしょう。

ところで、麓山の滝が復元されて3年後の94年夏、鳥取女子高校社会部の生徒たちが、福島県の喜多方へやって来ました。彼女たちは、「食文化と町おこし」というテーマで、研究活動を続けており、最初はそばの名産地を訪ねていました。そのうち、「そばよりもラーメンの方がいいよ。全国のラーメン食べれるじゃん」ということになり、この年は喜多方ラーメンの本場を訪ねることになったのです。

しかし、喜多方市内でアンケートを実施したものの、回収が思うようにいきません。結局、「来年また来よう」となりました。そしてこれが、思わぬ結末を生むことになるのです。

翌95年早春、喜多方での調査が早く終わったので、女子高生らは福島県立博物館を訪ねてみました。その中に、安積原野開拓の歴史を示す展示コーナーがありました。そこで顧問の先生が、思いもかけず「鳥取」の2文字を見つけました。「なんだこれは?」。


その夏、顧問と部員たちは、改めて郡山を訪問。市内に住んでいた旧鳥取士族子孫の人の案内で宇倍神社を訪ね、神社の書庫に予期せぬ重要資料を発見します。鳥取士族一家の安積野開拓に関わる約1万枚もの古文書でした。消失したと言われていた資料です。運命的な出会いでした。

安積原野の開墾は、1873(明治6)年、元米沢藩士である中条政恒・福島県典事の積極策により始まりました。その5年後、安積開拓は政府の士族授産事業として本格化。福島県内の旧二本松・棚倉藩の旧藩士を始め、遠く福岡県・久留米や愛媛県・松山、岡山他、諸藩の旧藩士族が入植しました。鳥取からは、1881(明治14)年に旧藩士が初めて入植、郷里の宇倍神社から分霊して福島・宇倍神社を建立しました。

郡山市には、鳥取ゆかりの地名があります。それなのに、鳥取女子高生がやって来るまで、鳥取と郡山に格別の交流はありませんでした。しかし、大正、昭和を超え、平成になって急に時計が動き出し、交流が活発化。2005(平成17)年には、郡山市と鳥取市の姉妹都市提携が実現しています。

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