群馬県下で唯一現存する城櫓
直政は、家康の命によって、和田城跡に城を築き、地名を高崎と改めました。この地は、中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝で、家康はその監視を行う城が必要と考えたのでした。
直政が、関ケ原の戦いで大功を挙げ、近江に移封されてからは、高崎城の城主は有力譜代大名が歴任。高崎は城下町として、また重要街道の宿場町として大いににぎわい、物資が集散し商業も栄えました。
明治維新で廃城令が発令されると、高崎城の多くの施設が破却、または移築されました。現在、建物で残っているのは、乾櫓と東門だけで、実はこの二つも、当時名主であった梅山氏に払い下げられていたのだといいます。
1951(昭和26)年、高崎市史編纂委員数人が、市内を踏査中、下小鳥町で風変わりな土蔵を発見しました。旧高崎城各部実測図と照合したところ、それは乾櫓だということが判明しました。
高崎城には、御三階櫓(天守)と乾(北西)、艮(北東)、巽(南東)、坤(南西)の4基の隅櫓がありました。しかし、残っているのは、乾櫓だけ。しかも、高崎城はおろか、群馬県下唯一の現存城櫓となっています。
こうしたことから、乾櫓はその後74年に、梅山氏から市に寄贈され、現在地に三の丸模擬石垣を造り、その上に移築復元されました。また、東門も梅山氏宅の門になっていたところ、その数年後に乾櫓の隣に移築されることになりました。
東門の復元には、高崎和田ライオンズクラブが関わっています。80年2月、結成10周年を迎えた同クラブが、記念事業として梅山氏から東門を譲り受けて移築し、高崎市に寄贈したのです。その説明板によると、高崎城にはかつて16の城門があり、本丸門、刎橋門、東門は平屋門で、そのうち東門だけくぐり戸がついており、通用門として使われていたとあります。
高崎城東門は、本瓦葺きの単層入母屋造りで、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。向かって左が大戸、中央がくぐり戸、右が東門を出入りする人物改めや荷物改めを行った武者窓付の藩士詰所だとされています。
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