熊本と聞いて思い浮かぶ事ども
2016(平成28)年4月の熊本地震から5年、修復が終わった熊本城天守閣の公開が、6月28日から始まっています。とはいえ、このコロナ禍では、県外からはおいそれとは行けず、しかも完全復旧は2037年と、まだ16年も先とのことで、個人的には生きてるうちに見られるか、という状況になっております。
さて、この熊本城、加藤清正が築いた城です。天守閣前の2本の銀杏は、城の完成を記念して植えられました。その時、清正は、銀杏が天守閣の高さにまで成長したら、兵乱が起こるだろうと予言したといいます。
慶長年間、清正は一大築城工事を始め、白川と坪井川、井芹川の三つの川を外濠と内濠に利用して、壮大な城を造りました。
熊本城には、大小3基の天守を含め、5階の櫓が5基もあったそうです。実戦に強い名城と言われ、特に石垣は、清正公石垣と呼ばれる独特のものでした。それは、武者返しとも称され、上がそり返った独特の構造で、敵兵がよじ登って来れば、上の所ではね返す形になっていました。
実戦についての考えは徹底していました。城内には、120カ所の深井戸を掘り、天守閣の畳の芯には、カンピョウとかズイキなど食料になるものが使われたといいます。籠城戦に耐えられるようになっていたのです。銀杏も、実が保存出来るという発想で植えられたという説がありますが、この銀杏、実は雄木で、実はならないそうです。たぶん、後世の俗説なんでしょうね。
この名城も、清正の後、2代忠広の時に細川氏のものとなってしまいます。家中をまとめきれていないということで改易になったのですが、加藤氏が去っても、予言は城に残りました。
1877(明治10)年、西南の役が起こります。兵乱とは関係のなかった熊本城ですが、この戦いに巻き込まれてしまいます。銀杏は成長して、天守の高さに達していました。
熊本城には、政府軍の谷干城らの熊本鎮守台兵が立てこもり、それを、西郷隆盛を擁した薩摩士族軍が襲います。守りに強い名城はびくともしませんでした。しかし、この時の城内の出火で、宇土櫓などを残して、主な建物は焼失してしまいました。そしてこの時、銀杏も一緒に焼けてしまいます。現在の銀杏は、焼け残った根元から出た脇芽が成長したものです。
また、3層6重の一の天守と、2層4重の二の天守は、1960(昭和35)年に復元されました。今回、いち早く復旧した天守閣は、復興のシンボルとして最優先で工事が進められました。しかし、重要文化財建造物は、以前の瓦や柱などを可能な限り使う必要がありますし、10万個を超えるとも言われる石垣の積み直しなど、これからまだまだ多くの難題が残っているそうで、16年という年月も仕方ないのでしょう。
ところで、『鉄道唱歌 第二集 山陽九州編』は、68番まであって、熊本はその51番、熊本城は52番に出て来ます。「眠る間もなく熊本の 町に着きたり我汽車は 九州一の大都会 人口五万四千あり」(51)、「熊本城は西南の役に名を得し無類の地 細川氏のかたみとて 今はおかるる六師団」(52)。というわけで、この歌が出来た1900(明治33)年当時は、熊本は九州一の大都会で、国の中枢機関なども熊本市に置かれていました。その名残で、現在も九州における行政の中心地となると共に、県内人口の4割以上の約75万人が住む、日本最南端の政令指定都市となっています。
そんな熊本ですが、2017年に実施された「熊本県と聞いて思い浮かぶもの」というネット調査で、熊本城を抑えて第1位となったのは、くまモンでした。ちょっとビックリですが、分からないでもないのが怖いですわ。。。結果を入れておくと、1位「くまモン」28.8%、2位「熊本城」16.7%、3位「阿蘇山」11.4%、4位「馬刺し」9.5%、5位「熊本地震」6.5%でした。
くまモンは、2010(平成22)年に登場した熊本県のPRマスコットキャラクターで、翌年には第1回ゆるキャラグランプリで王者になり、一躍全国区に。熊本県営業部長として、熊本市中央区の鶴屋百貨店本店東館1階にある「くまモンスクエア」に勤務する一方、全国各地に出張して、熊本の魅力をアピールしています。
そう言えば、くまモンと一緒に写真が撮れるというスマホのARアプリ「くまフォト」がありました。観光地や空港にある「くまフォトマーカー」にカメラを向けると、くまモンが飛び出してきて、写真が撮れるというものです。私も面白がって、観光地などで撮っていましたが、そのうち「くまフォト」のARマーカーがあれば、どこでもくまモンを出現させられる、と思い至りました。
最近はすっかり忘れていましたが、孫たちに見せてあげたら、喜びそうです。
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