甲賀忍者の古里は、日本六古窯の一つ信楽焼の産地
甲賀市は、滋賀県東南部、三重、京都、奈良と境を接し、大阪と名古屋のほぼ中間にあります。江戸期には水口藩加藤家が置いた水口城の城下町として発展、また市域を東西に横断する東海道の宿駅が水口と土山に置かれ宿場町としても栄えていました。
「甲賀」という言葉を聞いて、まず思い浮かべるのは忍者でしょう。
こう書くと、昨日の記事(伊賀忍者の古里は、俳聖・芭蕉生誕の地)と、ほぼ似た文章になってしまいますが、甲賀と伊賀はお隣同士。2017年には、「忍びの里 伊賀・甲賀ーリアル忍者を求めてー」として、伊賀市と甲賀市が、ダブルで日本遺産に認定されています。
というわけで、甲賀市も伊賀市同様、市内には忍者をモチーフにしたあれやこれやがあふれています。JR東海道本線の草津駅とJR関西本線の柘植駅(三重県伊賀市)を結ぶJR草津線には、今年の6月までラッピング列車「SHINOBI-TRAIN(忍びトレイン)」が運行していました。1時間に上下4本程度走っていましたが、運行日も時間も公表されない忍者列車で、その神出鬼没ぶりも人気の一つでした。当初は2019年までの予定でしたが、好評のため延長され、今回、車両の定期点検でラッピングを外す必要があり、「忍務」完了となったそうです。
ただ、甲賀市には忍者にまつわる施設が盛りだくさん。甲賀流忍者を学んだり、体感出来たりする「観光インフォメーションセンター甲賀流リアル忍者館」、水ぐも体験などが出来る「甲賀の里忍術村」、甲賀流忍者の住居として歴史的にも貴重な「甲賀流忍術屋敷」の他、忍者が長けていた薬術に関する資料を展示する「くすり学習館」や、忍者の信仰を集めたと言われる「油日神社」などがあります。
甲南町にある甲賀流忍術屋敷は、代々望月出雲守を名乗る甲賀忍者の頭目望月家総領家の居宅です。忍者が暮らしていた本物のからくり屋敷で、現存しているのは日本で唯一ここだけです。屋敷には、「隠し扉」や「からくり窓」、「どんでん返し」など、不意の敵襲があった際に、逃げるための仕掛けが残っています。
また、甲賀町にある甲賀の里忍術村は、山の自然をそのまま生かした広い敷地内に、研究資料の一部を展示する忍術博物館やからくり屋敷が点在しています。からくり屋敷は、忍術三代秘伝書『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』の編者の一人とされる藤森保義の居宅を、解体移築し活用しています。忍術博物館は、甲賀忍者に縁のある旧岡田家の茅葺き屋根の民家を、その保存も兼ね移築・改装したものです。館内には、室町時代に足利義昭が甲賀武士に協力を要請した書状を始め、忍者にまつわるさまざまな資料が収集展示されています。博物館では、これらの資料を基に忍術の解明、更に織田信長や徳川家康ら戦国武将と甲賀忍者の関係などの研究も行ってきました。
村長の柚木俊一郎さんを以前、雑誌で取材したことがありますが、柚木さんは、ハリウッド映画『スリー・ニンジャーズ』に出演したり、イタリア、ハワイなどのショーに招かれ、自ら結成した甲賀忍者隊を率いて遠征したりと、海外でも活躍していました。
柚木さんは、中学生の時、忍術の本に記されている「正心」と「将知」 の言葉を知り、これこそ忍者の真の姿に違いないと考えました。高校時代には、県教育委員会文化財保護課の職員だった水野正好氏(元奈良大学学長)が開いた勉強会に参加。生まれ育った甲賀とその周辺に集中する中世の城跡の発掘などに没頭し、そこからやがて、興味は忍者に移行。そして20代半ばで甲賀・伊賀忍者の武術についてまとめた甲賀忍者の古文書『萬川集海』 (1680)を復刻し、解説書と共に出版しています。
さて、このように、甲賀で真っ先に思い浮かぶのは忍者ですが、甲賀市となると、これまた伊賀市と同様、忍者は決してイコールではありません。まず、甲賀市は、備前、丹波、越前、瀬戸、常滑と共に日本六古窯の一つに数えられる信楽焼の産地です。また、745年に聖武天皇によって紫香楽宮が造営されるなど古い歴史を持ち、奈良時代には既に天皇が行幸出来る道路も整備されていました。他にも、薬品の知識や調合に長け薬売りとして全国を行脚したと言われる甲賀忍者の名残とも言われる医薬品製造業が集中したり、日本五大銘茶の一つ朝宮茶と、滋賀県最大の栽培面積・生産量を誇る土山茶という二つの茶産地を持ったりしている町なのです。
ところで、以前の記事(ゆうがおの町・壬生で300年続くかんぴょう作り)で、国内生産の99.6%を占める栃木県のかんぴょうは、約300年前に滋賀県の水口から入ったとされる、と書きました。その部分を抜粋すると、こうです。「1712(正徳2)年、その近江国水口の城主鳥居伊賀守忠英が、下野国壬生藩に移封されて来ました。当時、壬生領内にはこれといった産物がなく、ために忠英は、殖産興業策として、前任地水口からかんぴょうの種子を取り寄せ、栽培させたといいます」。
水口のかんぴょうは、慶長の初め(1600年頃)、豊臣政権五奉行の一人・長束正家(近江水口5万石)が作らせたのが始まりとされます。江戸時代に入り、徳川氏の直轄地となった水口は、東海道の宿場町に指定されます。安藤広重の代表作『東海道五十三次』を見ると、水口では名物かんぴょうが描かれており、少なくとも幕末には、かんぴょうは水口名物となるほど、知られていたことがうかがえます。
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