ゆうがおの町・壬生で300年続くかんぴょう作り
かんぴょうは、他県でも作っている所はありますが、栃木県はそれらを全く寄せ付けず、全国生産の99.6%を占めています。特に、壬生町を中心とした県南一帯が栽培好適地で、その主産地となっています。
かんぴょうは古い食物で、室町時代の『節用集』にも記されておリ、仏道では精進料理として鎌倉時代から食用に供されていたといいます。しかし、昔は関西が主産地で、栃木県(下野国)にかんぴょうが入ってきたのは、今から約300年前、滋賀県(近江国)水口からであったとされます。
水口は東海道五十三次の宿場町の一つとして知られますが、安藤広重の代表作『東海道五十三次』を見ると、水口では名物かんぴょうが描かれています。
1712(正徳2)年、その近江国水口の城主鳥居伊賀守忠英が、下野国壬生藩に移封されて来ました。当時、壬生領内にはこれといった産物がなく、ために忠英は、殖産興業策として、前任地水口からかんぴょうの種子を取り寄せ、栽培させたといいます。もっとも、全国の99.6%を占めるほどの名産になろうとは、当の忠英自身、想像もしていなかったに違いありません。
ところで、このかんぴょうが、実は夕顔の果実から作られることをご存じでしょうか。夕顔は、ウリ科の1年草で、かんぴょうはその変種フクベで作ります。真っ白い花が開く夏の夕暮れ時、花合わせといって、雄花を摘んで雌花に人工交配させます。やがて小さい丸い実をつけ、半月ほどで5kmぐらいの果実に急速に成長します。
かんぴょうは、これをむいて、1日天日で干し上げて作ります。最盛期は7月下旬からほぼ1カ月。この間、壬生の農家は文字通り、町の花・夕顔で明け、夕顔で暮れていきます。
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このかんぴょうの取材で壬生を訪問した日の夜、台風崩れの温帯低気圧が日本列島に接近。この台風は、典型的な雨台風で、コースに当たった東日本を中心に記録的な大雨をもたらしました。壬生でも、夜中にバケツをひっくり返したような大雨が降り、いつもは眠りが深い私でも、さすがに起きてしまうほどでした。外の様子を見ようと、灯りを付けると、なんと泊まっていたホテルの部屋が雨漏りをしているという驚愕の展開。同じ頃、隣の部屋のカメラマン氏も気がついたようで、ハッセルを抱えて部屋の中を右往左往していたようです。
翌日は台風一過の晴天となり、朝一番でかんぴょうむきを撮影するため、ある農家にお邪魔しました。すると、水路に近いその農家は、かんぴょう畑が全部水につかってしまっていました。これからが収穫本番という時期だっただけに、ご主人は「今年は、もうおしまい」と寂しそうに笑っていました。
それでも、前日までに収穫していたフクベを取り出し、かんぴょうむきを実演しれくれ、撮影もさせて頂きました。そして、好意に対し礼を言い、次の撮影に向かおうとすると、「まあ、ごゆっくり。お茶を入れますから」と、奥さんが声をかけてくれました。そのごく自然な呼びかけに、ついつりこまれて、図々しくも家の中に上がり込んでしまいました。
お茶を入れてもらい、「お菓子をどうぞ」とすすめられたので振り返ると、お菓子はなぜか箸でつままれていました。せんべいは袋に入っているし、アメも包んである。別に手で出してくれても、何の不都合もないんだけど・・・そんな思いが頭に浮かびます。
ところが、そのあと他の撮影で行った農家が全て、同じようにしてお菓子を出してくれたのです。接待用の取り箸として菓子箸というのがあるのは知っていますし、お茶席では菓子を取るのに箸を使いますが、壬生の場合、日常的に菓子箸を使うんでしょうか。この謎、いまだに解けていません。
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