城のある風景 - 天下に抗した町ぐるみの城
ああでもない、こうでもない、どうすればいい、そりゃだめだと、なかなか結論が出なくて会議が長引くと、「小田原評定」などと言われます。
小田原城で評定が行われたのは、1590(天正18)年のことで、その年の3月、豊臣秀吉は、なんと21万の大軍で小田原攻略に向かいました。天下の大軍と争うことになって、城内では出撃か、籠城か、さてどうするかと軍議を尽くしましたが、結論が出ません。
ところが、3月末に小田原城下にやって来た秀吉軍は、力攻めに攻め取るのを止め、長期包囲作戦に出ました。
秀吉軍が、大軍で押し寄せたのは、この城が、どんなに攻めにくいか、よく知られていたからかもしれません。小田原城は、15世紀に、北条早雲が攻め取ったもので、3代目の氏康が二の丸の構えを造り、上杉謙信、武田信玄も、この構えを突き破ることが出来ませんでした。氏康は、更に三の丸を築造して構えを堅固にし、氏政の代になると、周囲10kmの大外郭で町を囲んでしまいました。町が城となり、城が町でした。こんな城はどこにもありません。
秀吉は先刻承知で、速攻は初めから考えていなかったでしょうし、大軍で出向いたのはデモンストレーションでもあったでしょう。20万石もの米を用意して町を包囲し、海上にも軍艦を配置して、北条側の輸送路を断ちました。後は、時間つぶしに酒宴や茶会。しかも周囲の支城はしっかり攻め取っていました。
しかし、小田原側も負けてはいません。食糧はたっぷり用意していましたから、こちらも酒宴で気を紛らわし、祭礼や市もいつもと変わらず行われるという有り様でした。
こうしておよそ100日、両軍の根比べが続きましたが、しょせん小田原は孤立無援、内通する者も出て来て、さすがの巨城も膝を屈しました。
巨大な城は、徳川氏の時代に壊され、本格的な天守閣も、明治に入って解体されてしまいました。今あるのは、戦後に再建されたもので、内部は博物館を兼ねています。
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