城のある風景 - 蝦夷の誇りに対峙した拠点
古代、東北の地は、自然と共生する人々のまほろばでした。土地は肥え、恵み豊かな地でした。これを視察した武内宿禰(たけうちのすくね)は、「撃ちて取るべし」と断じました。
仙台平野の北の一角、今の多賀城市の小高い丘陵に、律令国家の東北地方平定の拠点が築かれたのは、724(神亀元)年のことだったといいます。
その頃、この地方の人々は蝦夷(えぞ、えみし)と呼ばれ、辺境の荒くれ者、まつろわぬ野蛮人と見られていました。上古から豊かな文化を誇っていた人々にとって、それはまさに征服者の論理でした。
律令国家の東北の拠点は多賀城と呼ばれました。外郭およそ900m四方の周囲には、高さ1m、幅2.3mの築地が巡らされて、陸奥の国府と鎮守府が置かれ、政治・軍事の中枢となっていました。
初め、政庁の建物は、全て掘っ立て柱構造でした。しかし、760年から780年頃には、主な建物が礎石を使う構造に改築され、門も整備されて、蝦夷を威圧するかのようであったといいます。
が、780(宝亀11)年3月、見下され、蔑視された人々が立ち上がります。俘囚(律令国家に帰服した蝦夷)の族長である伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が、抵抗の火の手を上げ、郡の長官と巡察高級官を殺害し、多賀城を襲います。彼らは、倉庫に積まれた品々を奪い、城に火を放って引き揚げました。
江戸時代、この城跡から多賀城碑という砂岩が発掘されました。碑は、古来有名な「壼の碑(つぼのいしぶみ)」と言われていますが、この碑には城の起源が刻まれ、多賀城の位置をこう刻んで、当時の蝦夷最前線の緊迫感を伝えています。
「京を去ること1500里、蝦夷の国界を去ること120里」
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