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義経・弁慶も賞味したと伝わる「五郎兵衛飴」 福島県会津若松

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飴は、我が国で発明された最も占い甘味料だと言われています。言ってみれば、甘さの根源のようなもので、古代の飴は米もやしで作られ、近世の中期には麦もやし(麦芽)が使われるようになったそうです。 米から作る飴は、一晩水につけたもち米を蒸して、それにこうじの粉と水を入れてかき混ぜ、弱火にかけて甘酒のようになったものを袋に入れて絞り、煮詰めるのだそうで、これを水飴と言いました。更に練って固くすると堅飴(クロ飴)、もっと練り固めていくと白飴に変わります。 どちらにしても、それほどに古い甘味料ですから、飴にまつわる言い伝えや風習も実にさまざまあります。会津の五郎兵衛飴について語られている物語も、そんなお話の一つと言えるでしょう。 五郎兵衛飴には、源義経が食べたという言い伝えがあって、義経に従って奥州へ下った弁慶の証文と言われるものが伝わっています。これは、義経主従が会津へ来た時に五郎兵衛飴を食べ、その代金一貫文を借りたという借用証で、借りたのが義経、保証人が弁慶というものです。借りた日付は、文治4年(1188)となっています。 義経が奥州平泉へ下り、藤原氏の許へ身を寄せたのは文治3年のことで、5年には、衣川館で自刃して果てます。ところが、義経は実は生き延びたのだという伝説があって、それによると、文治4年、危険を察した義経主従は、密かに平泉を逃れて、北上し、本州北端から北海道へ渡ったことになっています。つまり、義経が五郎兵衛飴を食べて代金を借りたのは、ちょうど一行が北上を開始した年に当たるわけです。そんな伝説が残るほど、古くからある飴だということになります。 米から作る飴は、稲の刈り入れが終わった10月頃から次の年の春くらいまでの間に作るのが良いとされています。義経主従が食べたのも、この時期だったのかもしれません。 この五郎兵衛飴は、やがてこの地を治めた蒲生氏や松平氏に、長く携帯食として採用され、幕末には、白虎隊も携行したということです。 これは、もち米に麦芽糖を加え、寒天で固めてオブラートで包んであります。澱粉が溶けて、滑らかな舌触りを楽しんでいると、控えめの甘さが口の中にあふれ出し、後から後からいつまでも尽きぬもののように広がる古典的逸品です。

京阪の伝統干菓子「粟おこし」 大阪

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おこしは、せんべいと並んで古くから干菓子の代表とされ、どちらも我が国最初の百科辞典『和名類聚抄』(931〜937頃)に取り上げられています。その頃はもち米を煎って、水飴でこねて固め、好みの大きさに握って丸めたり、竹の筒などにつめて押し出したりしたものだったそうです。 江戸時代の初めの頃になると、鳩麦の実をよく干して、キツネ色になるまで煎り、砂糖を水に加えてふかしてから、少しずつ砂糖を取り分け、鳩麦を少し混ぜて固まらせたようで、1643(寛永20)年に出た『料理物語』にこしらえ方が紹介されています。もう少し後になると、もち米を蒸してからさらし、乾かして、それに蜜と米粉を混ぜたものを加え、団子状にしたり、押しつぶして六角形に切って食べたりしたようです。 下って、1752(宝暦2)年、8代将軍徳川吉宗が亡くなった次の年、大坂の道頓堀ニツ井戸の津の国屋清兵衛が、それまでのおこしの製法を改め、初めて「粟おこし」の名で、新しいおこしを売り出しました。清兵衛のおこしは、干し飯を挽いて細かくし、飴と上等の黒砂糖か出島糖で練り、板状にのばしたものでした。黒砂糖は、琉球産のものが早くから珍重されていました。出島糖というのは長崎・出島から入ってきた海外産の砂糖で、共に当時の輸入品でした。 19世紀初め頃からは、国産の砂糖も出回るようになりましたが、清兵衛の改良は国産品が使われるよりもそのおいしさが評判になり、各地で真似をするものが出たということです。けれども、やはり真似は真似で、かえって本物の名が高まりました。 また、粒の細かな「粟おこし」に対し、ウルチ米を干し飯にして、水飴と砂糖と練り、箱に入れて冷ましたものは「田舎おこし」と呼ばれ、江戸周辺で作られていたということです。 江戸時代、大坂は天下の台所と言われ、諸国から原料や一次加工品が集まり、大坂でそれらが加工されて諸国へ移出されました。「粟おこし」も、そんな大坂の特色が生み出した逸品だったと言えるでしょう。 初代清兵衛の「菓子刷新」の志は、代々受けつがれ、「粟おこし」も時代と共に新しい味覚を追究し、原料や形を変えて多くの人々に愛されてきました。口に含むと、あくまでも米の香ばしさを失わず、微細なすき間ににじむ甘さが、その香ばしさを包み漂う銘菓です。

農業の歴史刻む「旭豆」 北海道旭川

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北海道旅行の土産に「旭豆」をもらった、という人が随分いるようです。「旭豆」は、北海道・旭川生まれなのですが、いつしか、全北海道を代表するようになりました。 歴史上に旭川という地名が登場するのは、1890(明治23)年のことで、地名は市内を流れる忠別川のアイヌ原名に由来するという説があります。この地に和人が入ってきたのは1877(明治10)年頃からだそうで、90年には、北海道開拓の原動力の一つであった屯田兵制度が変わり、開拓労働に重点が移って、旭川周辺にも、91年から93年にかけて屯田兵が入ります。 更に92年、北海道の農政が転換します。それまで寒冷地での稲作は無理だとされ、米を作ろうとした屯田兵は、軍隊の牢屋に入れられました。けれどこの年から水田に直接モミをまく直播法が奨励され、東旭川の屯田兵が高能率の直播器を発明したり、新種の早生米も見つかったりして、旭川を含む上川盆地の稲作は急速に広がっていきました。1903(明治36)年には、函館地方が大凶作なのに北の旭川周辺は大豊作、という実績を築きます。 「旭豆」は、この上川穀倉地帯を背景に誕生しました。02年の春、この地を富山の売薬行商人・片山久平という人が訪れ、旭川の宿に泊まったのがきっかけでした。片山は、同宿の人々が「田の畔で見掛ける見事な大豆を使って、菓子は出来ぬか」と、話しているのに引かれました。大豆は、あまり地味をより好みせずに育ちます。上川の田の畔に植えられた大豆も、目を引かれるほどによく育っていたのでしょう。 片山は、同郷の菓子職人・浅岡庄治郎と新種の菓子の創作にとりかかり、飛騨高山の「三嶋豆」をヒントに工夫を凝らしました。「三嶋豆」は、煎った大豆に砂糖と澱粉のころもをかけた菓子で、甘く香ばしいのが特徴です。二人が創り出した新しい菓子もそれに似て、大豆特有の風味と香りが生かされ、それが甘味と溶け合っていました。 旭川には、1900年から旧陸軍の第7師団が置かれ、「旭豆」は、その陸軍の兵士たちに愛されました。兵役を終えて郷里へ帰る兵士たちは、北海道土産として「旭豆」を求めました。彼らもまた多くが農民の子だったのです。 その後、北海道は大豆とビートの主産地として成長、「旭豆」も味に磨きをかけました。「旭豆」は、開拓の歴史が凝縮した菓子です。

菓子の祖「餢飳饅頭」 奈良

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菓子の菓は、クサカンムリに木の実を表す果を配し、古くは、モモやカキ、クリ、ミカン、ウリなどが菓子と言われていました。やがて、奈良時代から平安時代にかけて、中国から「カラクダモノ」と呼ばれるものが輸入され、菓子の領域が広がりました。 「カラクダモノ」は、もち米の粉や小麦粉、大豆や小豆などで作り、これにいろいろな調味料で味をつけたものだそうです。1135(保延元)年の『五節殿上饗目録』には、菓子として「小餅、唐菓子、枝柿、甘栗」などの名が出ていたといいます。五節殿は皇后や女御がいた所ですから、当時の上流階級の女性がどんな菓子を食べていたかが類推出来ます。『五節殿上饗目録』が出た保延元年というと、平清盛がまだ17歳の青年だった頃のことです。 「カラクダモノ」の伝統は、朝廷の節目の宴の料理や、神社の神饌の中に残り、奈良の春日大社に伝わる「餢飳(ぶと)」も、その中の一つとされています。春日大社は、768(神護景雲2)年の創建ですから、この古式を伝える神饌も大社並みの歴史を持っているのかもしれません。 「餢飳」というのは、油で揚げた餅のことで、我が国最初の漢和辞書『倭名類聚鈔』にも「油煎餅」として出てくるそうです。 春日大社では、今でも神職の人たちが「餢飳」を作り、神前に奉納しています。米の粉を蒸して臼でひいてから、丸く平らにし、二つに折って油で揚げたもので、これを作るのが、春日大社の神職の人たちの大切な役目の一つ。 大社の「餢飳」は、固くて食べにくいそうですが、この「餢飳」を、現代の和菓子として蘇らせたのが「餢飳饅頭」です。 奈良市に江戸末期創業という老舗「萬々堂通則」があります。1950(昭和25)年頃、その老舗の主人が大社の「餢飳」に注目し、これを新しい奈良の和菓子に出来ないかと考えました。さすがに古都の老舗、菓子の歴史の根本に迫ったわけです。主人は、春日大社宮司と相談して「餢飳」を饅頭にすることを思いつきます。 小麦粉をこねて卵と共に皮を作り、小豆のさらし餡を包みます。それを木型に入れて形を整え、ゴマ油で揚げて、砂糖をまぶし、「餢飳饅頭」が出来上がります。揚げた皮の内と外で、餡と砂糖が絶妙な甘さのバランスを保っているのが特徴です。伝統のカラクダモノの味覚を、現代に復活させた銘菓です。 

手つかずの大自然に抱かれ、自然と共に暮らす人々

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道東地方のほぼ中央、阿寒国立公園の約56%を占める弟子屈町は摩周湖、屈斜路湖、硫黄山など、手つかずの大自然があふれ、年間約100万人の観光客が訪れます。 阿寒国立公園は、「火山と森と湖」の公園と呼ばれ、千島火山帯の西南端にあたる三つのカルデラ・摩周、屈斜路、阿寒が中心となっています。三つの大きなカルデラが、これほど接近しているのは世界的にも珍しく、特に屈斜路カルデラは世界最大級で、美幌峠や藻琴山などの雄大な外輪山を持っています。透明度世界一といわれる摩周湖は、45度の急斜面で覆われます。これほど険しい湖岸も珍しいでしょう。湖には、注ぐ川も、流れ出る川もありません。春から秋までは霧が多く、その姿を隠すことが多くなります。摩周湖が、「神秘の湖」と呼ばれるのもうなづけます。 そんな弟子屈の観光拠点となるのが、川湯や摩周などの温泉群。町には七つの温泉があり、それぞれ泉質・効能からロケーションまでさまざまで、バラエティーに富んだ温泉が味わえます。 この地の温泉を最初に探査したのは、1858(安政5)年にここを訪れた蝦夷地探検家・松浦武四郎でした。その後、明治に入って本格的な調査が行われ、1877(明治10)年、川湯などの採掘が始まりました。 その川湯は、アカエゾマツやシラカバ、ミズナラなどの天然林に囲まれた温泉街です。湯量も豊富で、湯の川が街の中を流れ、硫黄の香りと湯煙りが漂っています。 弟子屈では、こうした観光の他、酪農や畑作が基幹産業となっています。これらは、いずれも自然そのもの、あるいは気候、風土など自然条件を生かしたものばかり。人の暮らしが、いかに自然の恩恵を受けているかがよく分かります。 太古を思わせる、手つかずの大自然に抱かれるように暮らす人々に、日本古来の伝統的な生活を見る思いがします。 硫黄山はいまなお噴気を上げ火山活動を続けている ←屈斜路湖からそのまま掘り込んだ和琴半島の露天風呂。湖畔には砂浜を掘ると即露天風呂になる砂湯などもあります

流域の人々の心を映す清流・千種川

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千種川は、1985年に環境省選定の名水百選に選ばれています。その紹介文の中で、小中高校生による水生生物調査や、流域のライオンズクラブの活動が取り上げられ、「地域住民活動を通じて保全に努めている」と記されています。 千種川中流域にある佐用ライオンズクラブの呼びかけで始まったこの活動は、流域の赤穂、相生、上郡、佐用、千種の5クラブ合同の奉仕活動として、1972(昭和47)年から実施されてきました。その成果は毎年、『千種川の生態』という冊子にまとめられ、流域の人々の意識を高め、清流を守るために大きな力となってきました。1993年には、その功績が認められ、環境庁長官から表彰を受けており、質の高い活動として地域住民からも支持されています。 延長68km、源流を中国山地の分水嶺・江浪峠に発する千種川は、上郡から赤穂市を抜けて、瀬戸内海へと注ぎます。人工改変度が小さく、ダムもないため、昔ながらの美しい流れを保つ、我が国では数少ない川の一つとなっています。 しかし、そこに住む人々にとって、川は単なる風景ではありません。 上郡町が、「ふるさと創生事業」でまとめた『ふるさと上郡のあゆみ』は、「上郡は 千種川の恵みによってこそある」で始まります。 千種川は、その豊富な水量により、土地を潤し流域の人々の暮らしを支えてきました。鉄道のない時代には高瀬舟が通い、一つの風物詩をなしていました。上郡やその上流の佐用に荷揚げ場が置かれ、瀬戸内海と中国山地を結ぶ重要な交通網の役目を果たしていたのです。 そんな恵みの川、千種川をそのままの姿で残したい。ホタルが飛び交い、アユが跳ねる川のままでいてほしい。流域の人々のそんな願いが、千種川を昔のままの澄んだ流れに保っているのでしょう。 全国各地を歩いて回った民俗学者・宮本常一が、生前、こんなことを言っていました。「民衆が水を管理し、民衆が水を自分たちのものとして考えてこれを操作してゆく間は水は汚れるものではない」。 千種川の清流が、その言葉の正しさを証明しているようです。上郡町は、兵庫県最西端。町面積の7割を山林が占め、その山々の間を縫うように、千種川が流れます。

北陸の古い集落に伝わる不思議な茶会 - バタバタ茶

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海抜0mのヒスイ海岸から標高約3000mの白馬岳まで、海・山・川に恵まれた朝日町。町域の6割が、中部山岳国立公園と朝日県立自然公園に指定されているだけあって、自然の豊かな町です。その朝日町の中心から、山の方へ向かい、車で20分ほど走った所に、蛭谷(びるだん)という古い集落があります。 この蛭谷で古くから飲まれているお茶が、バタバタ茶。島根のボテボテ茶、沖縄のブクブク茶などと同じ、振り茶の一種です。 振り茶というのは、茶碗や桶に、煎茶や番茶をだして茶筅で泡立てて飲むやり方で、抹茶を使う茶の湯とは違った庶民の喫茶法です。しかし、振り茶が茶の湯に対する庶民のお茶なのか、振り茶が発展したのが茶道なのか、実のところよく分かっていないようです。 こうした振り茶の習俗は、富山県東北部にかなり広く見られる他、かつてはほぼ日本列島全域にわたって行われていたらしいです。朝日町でも、以前はあちこちで見られましたが、今では蛭谷以外では、あまり行われていません。 朝日町のバタバタ茶は、三番茶を摘んで、室で発酵させた黒茶という特殊なお茶を使います。これを茶釜で煮だし、五郎八茶碗という抹茶茶碗を小振りにしたような茶碗に茶杓で汲み出し、茶筅で泡立てて飲みます。色と味はウーロン茶に似ており、ちょっと苦味があります。が、これを泡立てると、まろやかな味に変わり、何杯飲んでも胃にこたえるようなことはありません。 この黒茶に関しては、蓮如上人との関連で、次のような話が伝わっています。蓮如上人は、1471(文明3)年に越前吉崎(現・福井県あわら市吉崎)に坊舎を建立しましたが、その影響で北陸には、真宗のムラが多く、蛭谷もその一つになります。で、吉崎御坊を建立した翌年、蓮如上人は越中立山の清水に堂を構え説法をした際、蛭谷の黒茶を供したとされます。これがバタバタ茶だったかどうかは分かりませんが、黒茶自体は、その頃から既に世に知られるお茶だったようです。 本来、バタバタ茶は各家の先祖のヒガラ(命日)に、親類や近所の人を招いて行うものですが、「こっそり茶」と称して、特別な日でなくとも、気の合う者同士が集まり、ささやかな茶会が始まることも多いとのこと。 蛭谷ではよく、巾着袋のようなものをぶら下げて歩いている人に出くわします。これは、茶碗と茶筅を入れた茶袋と呼ばれるもので、朝日町のバタバタ茶のユニークなところは、自分の茶道...

天神様の使い「鷽(ウソ)」は幸福を呼ぶ青い鳥

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「天神様の使い」といえばウシが有名ですが、ウソもまた、同じ呼称が与えられています。 ウソという鳥は、日本では北海道や本州の亜高山帯にある針葉樹林に棲み、秋から冬にかけ、四国や九州などに渡る漂鳥ーいわば国内版渡り鳥です。体長は11〜12cm。頭部は黒く、背は青灰色、くちばしは太く黒い。オスは顔がバラ色をしており、なかなか美しい鳥です。 ウソが「天神様の使い」と言われるようになったのは、太宰府天満宮に平安時代から伝わる「神幸式」と関係があります。菅原道真の霊を慰めようと、道真の誕生日9月25日に行われているものですが、ある年、この神幸式の列にクマンバチが襲いかかり、行列が進まなくなりました。まさにその時、ウソが北から渡ってきて、クマンバチを食べてくれ、神幸式を滞りなく行うことが出来た、と伝えられます。 やがて1年中の嘘を、神前で誠に替えてもらおうと、人々が木彫りのうそを天満宮に持ち寄るようになりました。それがいつ頃から始まったのかは、正確には分かりません。が、江戸時代に、盛んに行われていたことは、記録により明らかになっています。 これが、現在も1月7日の夜、天満宮の境内で行われる「うそ替え神事」です。「うそ替えしましょう」と呼び合いながら、暗闇の中でうそを交換し合います。自分のうそより立派なものと替わると吉とされます。 明治時代になると、天満宮では指の先ほどの純金のうそを作り、神官が人々の中を回るようになりました。最初は3個でしたが、その後6個に、更に12個まで数も増えました。が、今は木うそに番号が入っており、神職が発表した番号のうそを持っている人に、純金製のうそが授与される形になっています。 うそ替えに使われる木うそは、もともとは自分たちで作ったものでした。野良仕事などで使う鎌で木を削ったもので、それぞれ形も異なっていました。その後、専門の作り手が登場、それらの人々により形も徐々に整えられてきました。しかし、一時は天満宮の禰宜を務めていた故・木村當馬さんだけになってしまい、天満宮を始め商工会議所などの呼びかけで太宰府木うそ保存会が発足。木村さんを講師に、後継者を育成してきました。 うそには朴(ホウ)の木を使います。原木の太さをそのままに、うそを削っていくため、大きさや太さは一本一本違っています。それがまた人気を呼ぴ、民芸品として木うそを求める人も多いようです。ちなみに...

伝統を醸す讃岐の「どぶろく祭り」

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すっかり「うどん県」の名が定着した香川県。三豊市豊中町はその西部、三豊平野の中央にあります。この豊中町笠岡の鎮守・宇賀神社では、毎年春秋2回のお祭リで、参拝者にどぶろく(濁酒)を振る舞うのが、数百年来の習わしとなっています。 もちろん、ちゃんと財務省の許可を得てのもの。1898(明治31)年、酒税法の改正によリ、自家用の酒の醸造は禁止となりました。これに伴い、宇賀神社のどぶろく祭りも、一時中断の憂き目にあっています。しかし、氏子たちが協議のうえ陳情、1900年、年間1石(180リットル)以内との特許を得て復活しました。春は3月春分の日、秋は10月の例祭が、どぶろく解禁の日となります。 どぶろく祭りの由来は、実は明らかではありません。が、かなり古くからのものらしく、古老の話では、300年ぐらい前から続いているといいます。醸造も古式床しい製法で行われます。氏子の中の代々世襲されてきた杜氏によリ、昔ながらの醸造道具(県指定民俗資料)を使って造られます。ただ、昔は各部落の当屋の家で行われていましたが、現在は税法上、神社の境内で行われ、厳重な制度によって出来上がっています。 どぶろくは、祭リの前日にまず「口開け」の式を行います。次いで、祭リの当日、御神酒として神前に奉納し、神事が終わった後、氏子一同や一般の参拝者に頂かせるのが、習わしとなっています。 また、祭リの日には、氏子たちが「エビ汁」をこしらえます。エビの頭を取リ、砕いてすりつぶしたものを、みそと一緒に煮ます。水は、米のとぎ汁を使うため、とろりとコクが出て、非常にいい味に仕上がります。このエビ汁と交互に飲めば、いくらでもどぶろくが腹に納まる、と氏子の人たちは言います。もっとも、度を越すと、救急車のお世話になることになるとか。取材当時は、県内の人にも、ほとんど知られていない祭リで、それだけに郷土色豊かで、素朴な味わいがありました。 現在は、2002年に創設された構造改革特区制度により「どぶろく特区」が認定され、全国で129の特区が、どぶろくをつくっています。しかし、宇賀神社のどぶろく祭りを取材した頃は、どぶろくの醸造は神事用として1石以内に限リ、奈良の春日大社、大分県大田村の白髭田原神社などに認められているだけでした。 ちなみに、春祭リは氏子だけですが、秋の例祭では、一般の参拝者にもどぶろくが振る舞われます。讃岐観光の折...

飫肥城下に残る不思議な弓

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南国情緒あふれる日南の海岸から、国道222号を山の手の方へ上っていくと、なだらかな山々に囲まれた飫肥の町に入ります。ここは、伊東氏5万1000石の城下町。往時の姿を留める石垣塀や門構えを残す武家屋敷が、町のあちこちに連なり、同じ日南市でも、明るい海側とは対照的に、しっとりと落ち着いたたたずまいを感じさせます。 飫肥城は伊東、島津の攻防、実に103年という、城をめぐる戦いとしては日本最長の記録を持ついわくつきの城です。1458(長禄2)年、島津忠国が伊東氏の南進に備えて築城したもので、その後、両氏の間で長い争奪戦が展開され、1578(天正15)年の秀吉による九州統一後、伊東氏の本城となりました。 この飫肥に、四半的という、400年前から伝わる独特の弓があります。射場の距離が4間半、弓矢共に長さ4尺半、的の直径4寸半ということから、その名が付けられたといいます。普通の弓矢に比べ、弓が短く、矢が長い。つまり、よく飛ばないという不思議な弓です。 しかも、射手はみな座って弓を引き、その前にはなぜか焼酎の一升瓶がどんと据えられています。これ、飾りでもなんでもなく、本当に飲んじゃうのです。焼酎と弓。なんとも不釣り合いな取り合わせです。 もともと四半的は、娯楽 - それも農民の遊びとして始まりました。武士が考え出したもので、農民が武器を持たないよう仕向けたもののようです。だから武道、ましてや礼法などとは全く無縁。 今では体協にも加盟、飫肥だけでなく、宮崎県内各地はもとより熊本や東京にも広がり、老若男女、特にお年寄りのレクリエーションとして、最近、競技人口が増えています。休日ともなると民家の庭先や広場など、飫肥の町のあちこちで、四半的を楽しむ光景が見られます。 しかし、体協に加盟しようが、一般的になろうが、焼酎は欠かせません。「飲んで弾こうか、弾いちかり飲もうか」と民謡「四半的くどき」にも歌われるように、こぶし固めと称して弓を引く前に飲み、的に当たったと言ってはまた一杯・・といった調子。 なにしろ宮崎県は、お隣り鹿児島県と並ぶ焼酎王国。人口5万1000人の日南市だけでも、九つの蔵元があります。そんな土地だけに、「焼酎と弓」、一見して不釣り合いなこの取り合わせも、かえってらしく、なんの不思議も感じさせません。 ※写真1枚目=泰平踊:飫肥に元禄の初めから伝わる郷土舞踊。藩主伊東氏の功績を...

江戸の大坂人が生み出した佃煮はじめて物語

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佃島は東京都中央区の南東部、隅田川の河口に臨む島です。人情や町のたたずまいなど、昔ながらの風情が残ることから、最も江戸らしいと言われる地域です。が、何を隠そう、佃島の名前の由来は大阪にあります。 頃は1582(天正10)年6月、徳川家康が大坂に遊んだ折のことです。堺に滞在していた家康は、本能寺で信長と会うため、京へ向かう途中、本能寺の変が伝えられます。急ぎ、三河へ戻ろうとした家康ですが、更に間の悪いことに、出水により足止めをくらってしまいます。 途方に暮れる家康に、助け船を出したのが、佃村(現・大阪市淀川区佃)の庄屋・森孫右衛門でした。佃の漁民が出してくれた舟で、一行は何とか窮地を切り抜けることが出来、これを機に、徳川家と佃の漁師との間に固い絆が結ばれることになったといいます。 江戸開府に当たり、家康は、佃村の漁師に対する恩賞として、彼らに幕府の御菜御用を命じ、孫右衛門を始め三十数人の漁師たちが、江戸・日本橋東詰に移住して来ました。更に1613(慶長18)年には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようにしました。 その後、3代将軍家光の時、彼らは隅田川河口の干潟100間四方の土地をもらい、周囲を石垣で固め、故郷佃村の名をとり佃島と命名しました。江戸前漁業はだんだん盛んになり、小魚が売れ残ったりすると、佃島の漁師たちは塩、たまりなどで煮込み、保存食にしました。これが佃煮の始まりです。 佃煮は、安価で保存がきくところから、使用人の多い大店や下級武士の間で重宝され、庶民のおかずとして定着。更に江戸近郊で醤油が製造され始めると素材も増え、それらが江戸土産として全国に広がると共に、各地でも作られるようになり、佃煮の名で呼ばれることとなりました。

長い歴史を誇る伝統の竹細工「三尾そうけ」

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先に公開したブログ記事( 「魚の王国・富山湾に君臨する味覚の王者、越中ブリ」 )に書いた定置網と並んで、氷見にはもう一つ、長い歴史を誇る伝統の技があります。「三尾そうけ」と呼ばれる竹細工で、石川県境にある三尾という集落に受け継がれています。 昔、弘法大師が、この地に立ち寄った時、豊富な竹に目を留めて、土地の者に技術を教えたのが始まり、という説もあります。真偽のほどは定かではありませんが、昔から材料の竹に恵まれていたのは確かなようで、定置網のブイ代わりに竹を使っていた時代もあったようです。 「そうけ」は「笊筍」と書くように、竹で作った笊(ざる)のこと。三尾では材料にマダケを使い、昔から現在に至るまで、いわゆる米揚げざるを専門に作っています。 三尾そうけは、一方に口のついた片口型の当縁(あてぶち)仕上げのもので、1斗(18リットル)揚げから2升(3.6リットル)揚げと、大小はあるものの、形は全て同じで、重ねると、すっぽりと一つに収まります。 かつては三尾の集落のほとんどの家で、そうけ作りが行われていました。農家の副業として、農閑期などに夫婦分業で作業をしていたもので、主に男が竹を割ってひごを作り、女がそれを編み上げていました。 今もご夫婦でそうけを作っているお宅を訪ね、仕事を見せて頂きましたが、その熟練した技には驚くばかり。初めは何をしているのか分からないほど、鮮やかな手さばきでした。 が、昔は台所の便利道具として必需品だったそうけも、今ではプラスチックやステンレス製のざるに取って代わられ、一般家庭では目にすることはありません。時代の流れの中で、三尾そうけでも後継者不足と作り手の高齢化により、伝統の技が消えゆくのは時間の問題だと聞きました。寂しい限りです。 ※三尾地区では、地域の伝統を継承しようと、三尾竹細工生産組合が出来、生産者を講師に竹細工を学ぶと共に、そうけの竹材を確保するため竹林の整備も行っているようです。

魚の王国・富山湾に君臨する味覚の王者、越中ブリ

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氷見の魚の旨さには定評があります。これには、いくつもの要因が重なっています。 その一つが、富山湾の起伏に富んだ地形。富山湾の海底は沿岸部から急勾配に深くなり、水深1000m以上にも及びます。湾底まで落ち込むこの斜面を「ふけ」と呼び、ふけ際はプランクトンが豊富で、魚が群れをなしています。そんな富山湾の中でも氷見沖は、最も大陸棚が発達してふけ際が多く、絶好の漁場となっています。 また、富山湾には立山連峰の雪解け水が流れ込みます。森は魚を養うと言われる通り、豊かな森のある海はプランクトンも豊富。富山湾には、こうした河川から流れ込む栄養豊かな沿岸表層水と、その下に流れ込む対馬海流系の暖流、更に下には海洋深層水が流れています。そのため暖水性から寒水性まで、多種多様な魚が水揚げされます。この海水の性質が、二つめの要因。 そしてもう一つが、氷見の漁師たちの鮮度へのこだわりです。氷見の漁は 全て定置網で行われます。氷見の定置網は、今から400年以上も前に始まったとされています。以来、何回かの変遷を経た後、今日のような越中式定置網が設置されるようになりました。 全長約300〜400mという巨大な網で、更にこの網から海側に垣網という長い網が延びています。回遊してきた魚は、この垣根にぶつかり回り込むうち、いつしか定置網の中に誘い込まれるという仕掛けです。定置網は水深も40〜70mもあり、いわば巨大な生け簀の中で、漁師たちの到着を待つというあんばいです。 朝4時半、漁師たちは4隻の船に分乗して、沖合約3kmの定置網を目指します。20分ほどで網に到着すると、3隻の船で網をたぐりながら、魚を主網に追い込んでいきます。網の幅が狭くなると、1隻は網を離れ、側で待機していたもう1隻の船と共に、浜に近いやや小さめの定置網で網起こしを始めます。大型の定置網では、2隻の船が船体を横にしながら向かい合い、どんどん網を引き上げていきます。 やがて、ばしゃばしゃと跳ねる魚の姿が見え始めると、漁師たちは大きなたもで魚を次々にすくいあげていきます。とれた魚はすぐに船倉に仕込んだ氷水に入れ、瞬時に仮死状態にします。氷見では漁に出る時、船に大量の氷を積んでおり、鮮度を保つ工夫が施されています。網の中の魚を全てすくい終わると、休む間もなく港へ帰り、魚を選別。すぐさま市場へ運び込み、セリにかけます。 市場では、セリ落とした...