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銘菓郷愁 - 義経・弁慶も賞味したと伝わる「五郎兵衛飴」 福島県会津若松

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飴は、我が国で発明された最も占い甘味料だと言われています。言ってみれば、甘さの根源のようなもので、古代の飴は米もやしで作られ、近世の中期には麦もやし(麦芽)が使われるようになったそうです。 米から作る飴は、一晩水につけたもち米を蒸して、それにこうじの粉と水を入れてかき混ぜ、弱火にかけて甘酒のようになったものを袋に入れて絞り、煮詰めるのだそうで、これを水飴と言いました。更に練って固くすると堅飴(クロ飴)、もっと練り固めていくと白飴に変わります。 どちらにしても、それほどに古い甘味料ですから、飴にまつわる言い伝えや風習も実にさまざまあります。会津の五郎兵衛飴について語られている物語も、そんなお話の一つと言えるでしょう。 五郎兵衛飴には、源義経が食べたという言い伝えがあって、義経に従って奥州へ下った弁慶の証文と言われるものが伝わっています。これは、義経主従が会津へ来た時に五郎兵衛飴を食べ、その代金一貫文を借りたという借用証で、借りたのが義経、保証人が弁慶というものです。借りた日付は、文治4年(1188)となっています。 義経が奥州平泉へ下り、藤原氏の許へ身を寄せたのは文治3年のことで、5年には、衣川館で自刃して果てます。ところが、義経は実は生き延びたのだという伝説があって、それによると、文治4年、危険を察した義経主従は、密かに平泉を逃れて、北上し、本州北端から北海道へ渡ったことになっています。つまり、義経が五郎兵衛飴を食べて代金を借りたのは、ちょうど一行が北上を開始した年に当たるわけです。そんな伝説が残るほど、古くからある飴だということになります。 米から作る飴は、稲の刈り入れが終わった10月頃から次の年の春くらいまでの間に作るのが良いとされています。義経主従が食べたのも、この時期だったのかもしれません。 この五郎兵衛飴は、やがてこの地を治めた蒲生氏や松平氏に、長く携帯食として採用され、幕末には、白虎隊も携行したということです。 これは、もち米に麦芽糖を加え、寒天で固めてオブラートで包んであります。澱粉が溶けて、滑らかな舌触りを楽しんでいると、控えめの甘さが口の中にあふれ出し、後から後からいつまでも尽きぬもののように広がる古典的逸品です。

銘菓郷愁 - 京阪の伝統干菓子「粟おこし」 大阪

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おこしは、せんべいと並んで古くから干菓子の代表とされ、どちらも我が国最初の百科辞典『和名類聚抄』(931〜937頃)に取り上げられています。その頃はもち米を煎って、水飴でこねて固め、好みの大きさに握って丸めたり、竹の筒などにつめて押し出したりしたものだったそうです。 江戸時代の初めの頃になると、鳩麦の実をよく干して、キツネ色になるまで煎り、砂糖を水に加えてふかしてから、少しずつ砂糖を取り分け、鳩麦を少し混ぜて固まらせたようで、1643(寛永20)年に出た『料理物語』にこしらえ方が紹介されています。もう少し後になると、もち米を蒸してからさらし、乾かして、それに蜜と米粉を混ぜたものを加え、団子状にしたり、押しつぶして六角形に切って食べたりしたようです。 下って、1752(宝暦2)年、8代将軍徳川吉宗が亡くなった次の年、大坂の道頓堀ニツ井戸の津の国屋清兵衛が、それまでのおこしの製法を改め、初めて「粟おこし」の名で、新しいおこしを売り出しました。清兵衛のおこしは、干し飯を挽いて細かくし、飴と上等の黒砂糖か出島糖で練り、板状にのばしたものでした。黒砂糖は、琉球産のものが早くから珍重されていました。出島糖というのは長崎・出島から入ってきた海外産の砂糖で、共に当時の輸入品でした。 19世紀初め頃からは、国産の砂糖も出回るようになりましたが、清兵衛の改良は国産品が使われるよりもそのおいしさが評判になり、各地で真似をするものが出たということです。けれども、やはり真似は真似で、かえって本物の名が高まりました。 また、粒の細かな「粟おこし」に対し、ウルチ米を干し飯にして、水飴と砂糖と練り、箱に入れて冷ましたものは「田舎おこし」と呼ばれ、江戸周辺で作られていたということです。 江戸時代、大坂は天下の台所と言われ、諸国から原料や一次加工品が集まり、大坂でそれらが加工されて諸国へ移出されました。「粟おこし」も、そんな大坂の特色が生み出した逸品だったと言えるでしょう。 初代清兵衛の「菓子刷新」の志は、代々受けつがれ、「粟おこし」も時代と共に新しい味覚を追究し、原料や形を変えて多くの人々に愛されてきました。口に含むと、あくまでも米の香ばしさを失わず、微細なすき間ににじむ甘さが、その香ばしさを包み漂う銘菓です。

銘菓郷愁 - 農業の歴史刻む「旭豆」 北海道旭川

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北海道旅行の土産に「旭豆」をもらった、という人が随分いるようです。「旭豆」は、北海道・旭川生まれなのですが、いつしか、全北海道を代表するようになりました。 歴史上に旭川という地名が登場するのは、1890(明治23)年のことで、地名は市内を流れる忠別川のアイヌ原名に由来するという説があります。この地に和人が入ってきたのは1877(明治10)年頃からだそうで、90年には、北海道開拓の原動力の一つであった屯田兵制度が変わり、開拓労働に重点が移って、旭川周辺にも、91年から93年にかけて屯田兵が入ります。 更に92年、北海道の農政が転換します。それまで寒冷地での稲作は無理だとされ、米を作ろうとした屯田兵は、軍隊の牢屋に入れられました。けれどこの年から水田に直接モミをまく直播法が奨励され、東旭川の屯田兵が高能率の直播器を発明したり、新種の早生米も見つかったりして、旭川を含む上川盆地の稲作は急速に広がっていきました。1903(明治36)年には、函館地方が大凶作なのに北の旭川周辺は大豊作、という実績を築きます。 「旭豆」は、この上川穀倉地帯を背景に誕生しました。02年の春、この地を富山の売薬行商人・片山久平という人が訪れ、旭川の宿に泊まったのがきっかけでした。片山は、同宿の人々が「田の畔で見掛ける見事な大豆を使って、菓子は出来ぬか」と、話しているのに引かれました。大豆は、あまり地味をより好みせずに育ちます。上川の田の畔に植えられた大豆も、目を引かれるほどによく育っていたのでしょう。 片山は、同郷の菓子職人・浅岡庄治郎と新種の菓子の創作にとりかかり、飛騨高山の「三嶋豆」をヒントに工夫を凝らしました。「三嶋豆」は、煎った大豆に砂糖と澱粉のころもをかけた菓子で、甘く香ばしいのが特徴です。二人が創り出した新しい菓子もそれに似て、大豆特有の風味と香りが生かされ、それが甘味と溶け合っていました。 旭川には、1900年から旧陸軍の第7師団が置かれ、「旭豆」は、その陸軍の兵士たちに愛されました。兵役を終えて郷里へ帰る兵士たちは、北海道土産として「旭豆」を求めました。彼らもまた多くが農民の子だったのです。 その後、北海道は大豆とビートの主産地として成長、「旭豆」も味に磨きをかけました。「旭豆」は、開拓の歴史が凝縮した菓子です。

銘菓郷愁 - 菓子の祖「餢飳饅頭」 奈良

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菓子の菓は、クサカンムリに木の実を表す果を配し、古くは、モモやカキ、クリ、ミカン、ウリなどが菓子と言われていました。やがて、奈良時代から平安時代にかけて、中国から「カラクダモノ」と呼ばれるものが輸入され、菓子の領域が広がりました。 「カラクダモノ」は、もち米の粉や小麦粉、大豆や小豆などで作り、これにいろいろな調味料で味をつけたものだそうです。1135(保延元)年の『五節殿上饗目録』には、菓子として「小餅、唐菓子、枝柿、甘栗」などの名が出ていたといいます。五節殿は皇后や女御がいた所ですから、当時の上流階級の女性がどんな菓子を食べていたかが類推出来ます。『五節殿上饗目録』が出た保延元年というと、平清盛がまだ17歳の青年だった頃のことです。 「カラクダモノ」の伝統は、朝廷の節目の宴の料理や、神社の神饌の中に残り、奈良の春日大社に伝わる「餢飳(ぶと)」も、その中の一つとされています。春日大社は、768(神護景雲2)年の創建ですから、この古式を伝える神饌も大社並みの歴史を持っているのかもしれません。 「餢飳」というのは、油で揚げた餅のことで、我が国最初の漢和辞書『倭名類聚鈔』にも「油煎餅」として出てくるそうです。 春日大社では、今でも神職の人たちが「餢飳」を作り、神前に奉納しています。米の粉を蒸して臼でひいてから、丸く平らにし、二つに折って油で揚げたもので、これを作るのが、春日大社の神職の人たちの大切な役目の一つ。 大社の「餢飳」は、固くて食べにくいそうですが、この「餢飳」を、現代の和菓子として蘇らせたのが「餢飳饅頭」です。 奈良市に江戸末期創業という老舗「萬々堂通則」があります。1950(昭和25)年頃、その老舗の主人が大社の「餢飳」に注目し、これを新しい奈良の和菓子に出来ないかと考えました。さすがに古都の老舗、菓子の歴史の根本に迫ったわけです。主人は、春日大社宮司と相談して「餢飳」を饅頭にすることを思いつきます。 小麦粉をこねて卵と共に皮を作り、小豆のさらし餡を包みます。それを木型に入れて形を整え、ゴマ油で揚げて、砂糖をまぶし、「餢飳饅頭」が出来上がります。揚げた皮の内と外で、餡と砂糖が絶妙な甘さのバランスを保っているのが特徴です。伝統のカラクダモノの味覚を、現代に復活させた銘菓です。 

城のある風景 - 江戸城と共に造られた武蔵国の要

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さいたま市岩槻区は、江戸時代の寛永年間以来、人形で知られた伝統の町です。日光御成街道の宿場町でもあった岩槻はもともと、太田道灌と父道真がひらいた岩槻城の城下町でした。 岩槻城は、1457(長禄元)年に造られたと言われ、完成の年は江戸城と同じです。江戸城も道灌が父の協力を得て築城したと言われ、この二つの城に加えて、北に川越城を配した太田氏の備えは、鉄壁の構えと言われました。 岩槻城は、元荒川を東に配し、南北に干潟と丘陵を望む位置に造られました。武蔵国は低湿地でしたから、岩槻に忽然と姿を現した城は、その地に浮かぶ浮城とも呼ばれました。 岩槻城は、太田氏の衰退と共に持ち主が替わり、結局、北条氏のものとなりましたが、豊臣秀吉の小田原征伐の時に浅野長政軍に攻められて落城、更に徳川家康の関東入りと共に、その勢力下に入りました。城は、1609(慶長14)年 に焼けましたが、家康は、江戸の守りに欠かせぬ拠点として再建、この後、徳川幕府の老中幕閣が次々に入城してこの地を治めました。 寛永年間、日光東照宮が造営されましたが、それに携わった工人の一部が、御成街道筋のこの地に落ちつき、人形作りを始めました。それ以来、雛人形作りが岩槻藩の重要な産業となり、藩財政を支えました。その伝統が脈々と引き継がれ、今では、雛人形を始め、武者・木目込・御所などさまざまな種類の人形が作られ、生産体制も、人形の部分作りの専門家による分業体制がとられています。 岩槻の今に至る繁栄の途は、元をたどれば太田道真・道灌父子の先見の明に基づくものであったといえるでしょう。その礎となった城の跡は、今、公園となって、歴史を秘めた四季の美しさを見せています。 ※近年、岩槻城に関しては、忍城主・成田親泰の祖父にあたる成田資員が築城したとする説を始め、いくつか異説が出ており、築城者と築城年についてははっきりしていません。 関連記事 → 江戸時代から連綿と続く日本一の人形のまち - 岩槻

城のある風景 - 興亡150余年の山城の石組み

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城というと、とかく平地にある城を思い浮かべがちです。しかし、平地に城が築かれるようになったのは、織田信長や豊臣秀吉から後のことで、それ以前は山城が主流でした。 城は、もともと戦いに備えたものですから、守り易くて、攻めにくい所に造られ、天然の要害が利用されました。兵庫県朝来市和田山町にある竹田城跡も、代表的な中世の山城の跡と言われ、標高353mの古城山の山項にあります。 竹田城は、全体の形が虎の伏した姿に似ていると言われ、虎臥城と呼ばれていたといいます。城が造られたのは、1443(嘉吉3)年のことで、13年の年月をかけて、山名宗全が築いたと言われています。 山名宗全は、その頃の守護職で、但馬・備後・安芸・伊賀を治めていました。虎臥城の名は、あるいは宗全の勢威をそれとなく暗示した呼び名だったかもしれません。 竹田城には、山名氏の家臣・太田垣光景を配して、但馬の守りが固められましたが、応仁の大乱の後、肝心の山名氏が衰退してしまい、竹田城の太田垣氏らは勢いを増して自立しました。世は戦国、織田信長の上洛を機に、この地域の形勢はあわただしく動きます。 1577(天正5)年、信長軍の中国征伐が開始されます。10月、山陽道の総大将として羽柴秀吉が播磨に入り、但馬の竹田城は兵糧攻めをかけられました。威力を誇ったさしもの山城も落城、その後、播磨の龍野城主・赤松広英に預けられましたが、1600(慶長5)年、広英が因幡攻略の失敗で自刃、城も廃城となりました。 築城後150余年、城主はいずれも不運でしたが、山城としての竹田城の見事なイメージはそのまま残りました。今も、大手門、城櫓、天主台、北千畳、南千畳などの石組みが、整然と昔の面影を伝え、鳥が翼を広げたような威容を見せています。戦国の世の輿亡を偲ばせる山城の跡は、城が確かに戦いの拠点だったことを、思い起こさせずにはおきません。 

城のある風景 - 歴史尊ぶ土地の堅牢な浮城

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諏訪市は、諏訪3万石の城下町で、城主の居城・高島城は「諏訪の殿様よい城持ちやる、うしろ松原前は湖」と歌われ、小藩には過ぎた名城と言われました。 高島城は、日根野高吉が築いたと言われ、1598(慶長3)年に完成しました。城は、諏訪湖の南岸に出来た中州のような地に、6年の歳月をかけて造られ、石垣などの石材は、舟で湖上を運ばれたといいます。 築城当時、城は湖に突き出た形になっていて、湖水が石垣を洗い、城へは人工の道を渡るしかなく、浮城と呼ばれていました。平城ながら攻めにくく、小ぶりの名城と言われていました。 城が出来て4年後、日根野氏は関ケ原合戦の戦後処理で、今の栃木県壬生町に移り、高島城には諏訪氏が入りました。 諏訪氏は、その名でも分かるように、もともとこの地の領主で、高島城の原型も諏訪氏が造った出城だったと言われます。この後、3万石余の藩として続きましたが、明治になって、佐幕派と見られたため、城は石垣と堀を残して取り壊されてしまいました。 1864(元治元)年3月、水戸の尊皇攘夷派天狗党が挙兵し、中仙道を通って大挙上洛するという騒ぎになりました。危険分子を通すわけにはいかないということで、諏訪藩は藩兵を出して迎え撃ちましたが、負けてしまいます。藩兵は城に籠もって門を閉ざし、襲撃に備えましたが、何事もなく、水戸の急進派は立ち去ってしまいました。それでもこのことが禍いして、諏訪藩は幕府側と見られてしまったといいます。 その後、城は川砂で埋まり、湖の趣きも変わって浮城の面影はなくなりましたが、1970(昭和45)年春、城跡に3層の天守と2層の隅櫓が再興され、城跡は公園となりました。 冬の諏訪湖は、湖面の結氷に亀裂が走る御神渡り神事で有名で、その記録が1443(嘉吉3)年以来保存されてきました。城跡は、そんな歴史を尊ぶ土地柄をも伝えているかのようです。

城のある風景 - 新城にかけた藩祖の悲願

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弘前城跡は公園になっていて、四季に美しい場所です。明治になって桜が植えられ、今は5000本。秋には、紅葉が天守の白壁に映えます。 弘前城の天守閣は、もともとは5層で、本丸の西南の隅にあったと言われます。1627(寛永4)年秋、その天守閣の鯱に落雷、それがもとで、中に積んであった火薬が爆発し、天守閣は焼失してしまいました。今の3層の天守は、1810(文化7)年に、隅櫓を改造したものだといいます。 弘前城は南北に長く、東西に短い長方形の城で、三重の濠をめぐらし、西の岩木川、東の土淵川を天然の要害として利用していました。5層の天守閣は、西濠となる岩木川を見下ろし、津経のシンボル岩木山と向かい合っていました。津軽なら、岩木山はどこからでもよく見えます。その山と睨み合っているような天守閣は、まこと、この地の支配者の威風を示すものだったでしょう。 もともと、弘前には城などありませんでした。戦国時代の終わり頃、津軽地方の武将だった大浦為信が、およそ20年かけて、この地域を南部氏から攻め取り、豊臣秀吉の承認も取り付けてしまいます。為信は、独立してから津軽氏を名乗り、古城の堀越城を足場にしていました。 やがて、関ケ原の戦いが起こります。一代かけて手中にした津軽惣領主の地位は、守らなければなりません。為信は長子信建を豊臣方につけ、自らと次子信枚は徳川方に従いましたが、豊臣に賭けた家臣団の一部は、堀越城で反乱を起こします。津軽も天下分け目だったのです。 合戦後、惣領主の地位は信建が引き継ぎましたが、為信はなお実権を握り、堀越城からおよそ6km北西の地に、新城を築く計画を打ち出します。体制刷新の総仕上げでした。 計画から4年後の秋、信建は病没、為信も去り、結局、信枚が築城を成し遂げ、1611(慶長16)年、新城へ移りました。天守を山と向かい合わせたのは、あるいは、信枚の鎮魂の思いもあったのかもしれません。

城のある風景 - 天守を傾けた農民の睨み

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遠くに北アルプスを望む松本は、その昔、深志と呼ばれていました。鳥羽川を挟んで、北側が北深志、南は南深志といい、この川を外掘にして松本城が造られました。そして、南に武家屋敷、北には町家が配置されました。 深志を松本と呼び改めたのは、1582(天正10)年にここへ入った小笠原貞慶で、小笠原氏は、室町時代の初めから信濃守護でしたから、いわば旧領を回復したわけです。その8年後、小笠原氏は下総古河3万石に移封され、松本へは石川氏が入って来ました。 今の松本城を築いたのは、その石川氏で、5重6階の大天守の北側に3重4階の小天守を配し、連結複合式の天守閣が完成したのは、1597(慶長2)年頃ではなかったか、と言われます。 その後、徳川将軍家と縁の深い者たちが松本城の主となり、3代将軍家光の頃には、堀田氏の後を受けて、水野氏が松本藩7万石の領主となりました。松本藩の年貢は、ほぼ五公五民で、収量の5割を上納するようになっていましたが、水野忠直の代になると財政が苦しくなり、徴税を強化しました。 1686(貞享3)年10月、厳しい年貢に耐えきれなくなって、農民たちがなんとかしてほしいと願い出ました。領内ほぼ全村の代表者たちが参加して、総勢1700人の農民が松本城へ押し寄せました。一部の者は城下の御用商人を襲撃し、幕府にも訴えると気勢をあげました。 藩は、家老連名で、要求を認める文書を出しましたが、農民たちが引き上げると態度をひるがえしました。11月になると一揆の中心となっていた中萱村(現・安曇野市三郷中萱)の多田嘉助ら36人を逮捕しました。8人は磔刑、20人が獄門、8人は追放という刑でした。 磔刑に処された嘉助は、磔台上で恨みの城をはったと睨みつけ、その睨みの力で、城の天守はやや傾いた、という伝承が残りました。磔刑の時に地震が起きたのだともいいます。北アルプスが雪に覆われていた季節の出来事でした。

城のある風景 - 今に示す松浦党の誇り

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平戸の城は、海を外濠に見立てています。つまり海からの敵を想定した備えをとっており、海の覇者松浦氏ならではの城構えになっています。 松浦党は、鎌倉・室町時代にかけて肥前松浦4郡に割拠していた武士団で、松浦源氏が中心となっていました。平戸の松浦氏は、その松浦党の一族で、平戸藩初代の松浦鎮信は、秀吉の信頼が厚かったといいます。しかし、やがてこれが、災いの遠因となりました。 関ケ原の戦いが起こると、鎮信は、長子の久信を豊臣方に従わせ、自らは徳川方につきました。合戦後、久信は、世が徳川に傾くのを見通し、自害して一族の安泰を図りました。父鎮信の衝撃は大きいものでした。関ケ原の合戦で一族が東西に分かれたのは、あちこちであったことですが、その状況に自害という形で始末をつけるところが、松浦党の激しさなのでしょう。 平戸は、16世紀の半ば頃からポルトガル船との交易を進め、財政的にはゆとりがありました。鎮信は、その財力を背景に、1599(慶長4)年から、今の平戸城がある場所に城を築き始めました。14年かかって、ようやく城が完成しようという時に、鎮信は、その城を焼き払います。大坂冬の陣が迫っていた頃で、家康に忠誠心を疑われたからだと言われています。長子の自殺という犠牲まで払って守り抜いた所領、何としてでも守り切ってやるという気迫が伝わります。 その後、平戸藩は城を持たぬまま過ぎましたが、鎮信が城を焼いてからおよそ100年後、1718(享保3)年、同じ場所に城を造ってしまいます。鎮信と同じように14年の歳月をかけ、焼いた城と同じものを造りました。松浦党の意志と情念の凄さと言えるでしょうか。 1962(昭和37)年、突き出た岬に3層5階の天守閣が復元されました。松浦党の誇り高さはそのままに、天守は海を睨みつけているようです。 関連記事 → 華やかな大航海時代の面影と、キリスト教受難の歴史を持つ港町 - 平戸

城のある風景 - 木曽川見下ろす白帝城

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木曽川は、長野県の鉢盛山に源を発して、美濃高原をゆったり蛇行し、飛騨川を合わせて犬山で濃尾平野に入り、伊勢湾に注ぎます。全長209km。この川を治め、水をどう利用するかは尾張地方の古くからの課題だったといいます。犬山城は、この川が大きく曲がる断崖の上にそびえ、尾張と美濃を一望のもとに捉える位置にあります。 川に臨んで天守がそびえているところから、江戸期にここを訪れた儒者・荻生徂徠は、犬山城を「白帝城」と呼びました。これは、中国・唐代の詩人李白の詩「早発白帝城」に因んだものといい、詩の中の「朝に辞す白帝彩雲の間、千里の江陵一日に還る」に由来します。 詩の中の白帝城は、中国四川省の長江(揚子江)中流北岸に位置し、周りは峡谷で自然の要害として知られた所だといいます。『三国志』で有名な蜀漢の初代皇帝・劉備玄徳が、後事を丞相・諸葛孔明に託して亡くなった城としても知られています。 犬山城は、16世紀の半ば頃、織田信長の叔父に当たる信康が、今の場所に造ったと言われます。城の主は、その後めまぐるしく替わり、現在見るような3層5重の優美な天守閣(国宝)が出来たのは、関ケ原合戦の頃で、城下町もその頃に整備されたと言われます。 木曽川に臨み、濃尾平野を見下ろす要害の地は、徳川幕藩体制下の尾張藩にとっても重要な地でした。そのこともあってか、この城には尾張藩の筆頭家老成瀬氏が入りました。成瀬氏は、もともとは徳川家康の旗本で、この地も家康から与えられたといいますから、言ってみれば、尾張藩お目付け役のようなものでした。 そうみると、木曽川から見上げた犬山城は、まさに幕府の権威の出城のようなもので、徂徠でなくても仰ぎ見て白帝城と賛嘆したくなったことでしょう。

城のある風景 - つかの間の夢の青空

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五稜郭の名で知られる函館の城は、西洋式の設計で、1857(安政4)年11月から工事が始まり、7年後の1864(元治元)年、完工を待たず、ここに函館奉行所が置かれました。 この城は、日米和親条約による開港に備えて、急いで造ることになったもので、火砲の攻撃に耐えられるようにと、蘭学者が設計に当たりました。五稜郭の原型は、16世紀のヨーロッパで考え出されたものと言われ、函館ではオランダ式の星型五稜の築城法がとられました。 明治維新後、五稜郭は明治政府が接収しましたが、1868(明治元)年10月、この城を旧幕臣の軍勢が襲います。軍勢は旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられた者たちで、総勢3500名。会津で戦った新撰組副長の土方歳三も合流していました。 小さな戦闘はありましたが、政府側はことごとく敗北、10月25日には、箱館府知事以下の政府関係者が青森へ去りました。 国際法に詳しかった榎本は、11月に入ってイギリスやフランスの領事らと会談、国内の紛争には不干渉の立場をとる、という覚書をとりつけ、榎本らの集団を"事実上の政権"と認めさせました。 更に、榎本らの集団は上級士官以上の者たちによって選挙を行い、"政権"の代表などを決めました。投票総数は856票だったと言われ、総裁には榎本、副総裁には陸軍奉行並だった松平太郎が選ばれました。陸軍奉行には大鳥圭介、同格に土方歳三らが名を連ね、いわゆる"共和国"が誕生しました。 12月15日、"共和国"の出発を祝って祝砲が鳴り響きます。榎本らにとっては、この時が夢の青空が輝いていた時期だったでしょう。 1869(明治2)年正月、榎本らの"政権"承認を求めた嘆願は却下され、政府は圧倒的な軍勢で五稜郭に迫り、土方歳三も市街戦で逝きます。5月18日、五稜郭開城。"共和国"は、つかの間の夢に終わりました。

城のある風景 - 季節に散る花、咲き競う花

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チューリップは富山の県花で、戦後に復元された富山城の天守閣とも、見事な調和を見せます。この花は、オランダで改良が進み、日本へは幕末に入ったと言われます。栽培が盛んになったのは、明治の後半だそうですから、江戸時代の富山の殿様は、当然ながらこの花のことなど知る由もありません。 富山藩は、徳川3代将軍家光の時代に、雄藩金沢藩の支藩として独立。1660(万治3)年、富山城が整備され、藩主の居城となりました。ですが、歴史の中の登場人物たちの選択が少し違っていれば、この城の主は、あるいは別の人物になっていたかもしれません。 人の命運はどこで分かれるか分かりません。昨日までは旭日昇天の勢いでも、今日は、孤城落日、余命いくばくもなし、ということになったりもします。戦国大名の盛衰が今でも話題になるのは、その恰好の事例だからでしょう。 織田信長に仕えた武将も、信長死後にのし上がって来た秀吉への対応によって、明暗の途を分けました。佐々成政もそんな武将の一人で、朝倉討ちや石山本願寺の一向一揆攻めなどに功のあった彼は、1581(天正9)年に越中富山を与えられ、富山城へ入りました。彼は城を整えて上杉勢と戦い、そのままなら、この地に武威を誇っていられました。ところがその翌年、本能寺の変で信長が急死してしまいます。 成政は、徳川家康や織田信雄と組んで秀吉と対抗、秀吉の側に立った前田利家の軍勢と戦う羽目に陥ります。これが衰運のきっかけで、結局は秀吉に切腹させられて一生を終わります。 一方、利家。朝倉討ちでは共に協力し合った仲の成政を攻め、成政が降伏した後は、その領地を手中にし、豊臣五大老の一人となって、子の利長は百万石を超す大大名、その孫が富山藩主として独立することになります。 散る花の後に見事な花が咲く。富山の城は、そんなことを語りかけているのかもしれません。

城のある風景 - 天下に抗した町ぐるみの城

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ああでもない、こうでもない、どうすればいい、そりゃだめだと、なかなか結論が出なくて会議が長引くと、「小田原評定」などと言われます。 小田原城で評定が行われたのは、1590(天正18)年のことで、その年の3月、豊臣秀吉は、なんと21万の大軍で小田原攻略に向かいました。天下の大軍と争うことになって、城内では出撃か、籠城か、さてどうするかと軍議を尽くしましたが、結論が出ません。 ところが、3月末に小田原城下にやって来た秀吉軍は、力攻めに攻め取るのを止め、長期包囲作戦に出ました。 秀吉軍が、大軍で押し寄せたのは、この城が、どんなに攻めにくいか、よく知られていたからかもしれません。小田原城は、15世紀に、北条早雲が攻め取ったもので、3代目の氏康が二の丸の構えを造り、上杉謙信、武田信玄も、この構えを突き破ることが出来ませんでした。氏康は、更に三の丸を築造して構えを堅固にし、氏政の代になると、周囲10kmの大外郭で町を囲んでしまいました。町が城となり、城が町でした。こんな城はどこにもありません。 秀吉は先刻承知で、速攻は初めから考えていなかったでしょうし、大軍で出向いたのはデモンストレーションでもあったでしょう。20万石もの米を用意して町を包囲し、海上にも軍艦を配置して、北条側の輸送路を断ちました。後は、時間つぶしに酒宴や茶会。しかも周囲の支城はしっかり攻め取っていました。 しかし、小田原側も負けてはいません。食糧はたっぷり用意していましたから、こちらも酒宴で気を紛らわし、祭礼や市もいつもと変わらず行われるという有り様でした。 こうしておよそ100日、両軍の根比べが続きましたが、しょせん小田原は孤立無援、内通する者も出て来て、さすがの巨城も膝を屈しました。 巨大な城は、徳川氏の時代に壊され、本格的な天守閣も、明治に入って解体されてしまいました。今あるのは、戦後に再建されたもので、内部は博物館を兼ねています。

城のある風景 - 開国の大老を偲ぶ天守閣

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彦根市は古くから開けた滋賀県東部の中心都市ですが、かつて明治の薩長藩閥政府からは、国賊の町として卑しめられたといいます。安政年間、強い指導力を発揮した大老・井伊直弼は、彦根藩主でもありました。 直弼が、大老として幕閣の最上位に列したのは、1858(安政5)年4月のことでした。その後、彼の強力なリーダーシップで日米修好通商条約が結ばれます。直弼を問責した水戸の徳川斉昭は謹慎を命ぜられ、その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で同じような条約が結ばれて、日本は開国の途を歩み出します。 尊皇攘夷派に対する大弾圧が始まったのは、その直後のことでした。 井伊家が居城としていた彦根城は、もともと、京都の抑えとして幕府が重要視した拠点でした。城の工事は、1603(慶長8)年から始まり、06年には高さ約24mの3層の天守閣が完成しました。上が狭く、下が曲線状に広がる花頭窓を持った、破風白壁の優美な天守でした。 築城に当たっては、周辺の寺院跡や古城から石が運ばれ、大津城や小谷城、長浜城を壊して用材が持ち込まれました。重要拠点づくりということで、7カ国12大名が協力して普請に当たったといいます。 城域およそ250万平方mに及ぶ工事は、ほぼ20年の歳月をかけて行われ、広い三重の堀、堅牢な高い石垣を誇る彦根城が完成、徳川譜代大名の筆頭井伊氏が治めることとなります。 直弼は、1850(嘉永3)年、病弱で死亡した兄の後を継いで、13代藩主となりましたが、運命の歯車が別に回っていたら、外濠のほとりの埋木舎で、静かな生涯を送ったのかもしれません。しかし、時代はこの人を求めたのでしょう。1860(万延元)年3月、直弼は水戸藩士に襲われ、雪を血に染め、逝きました。まだ46歳でした。 ※実は、彦根城の築城には、我が家の先祖も関わっています。徳川四天王の筆頭・井伊直政の従兄弟であった、先祖の鈴木重好は、直政の死後、徳川家康から命じられ、家督を継いだ井伊直継の補佐に当たります。そして、1603(慶長8)年、征夷大将軍となった家康の命により、直継が西国に対する防衛拠点として彦根城を築城。その総元締めを、付家老であった重好と木俣守勝が務めました。

城のある風景 - 先人の悩み秘めた雪の里

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東北は、かつて「白河以北一山百文」と言われ、ひとしなみに蔑視され、差別されました。明治維新の折の戊辰戦争が遠因だと言われています。 戊辰戦争で、東北は揺れました。薩長の下級武士の思い上がりに対する反発もあって、列藩同盟まで結成して、北上する維新軍に抵抗しました。動き始めた時代に関する情報も、思うように手に入りませんでした。 もともと同盟に対して消極的であった秋田藩佐竹氏は、家老の戸村十太夫を列藩同盟に送り、調印させました。ところが、秋田は、尊皇思想家・平田篤胤を生んだ土地で、その考えが、青年武士の中に広がっていました。維新軍は、そこを狙ってけしかけました。1868(慶応4)年7月、一種のクーデターが起こり、秋田藩は列藩同盟を離脱してしまいます。同盟成立から2カ月後のことでした。 脱盟に怒った同盟側は、荘内藩兵を核とした軍勢をくり出して秋田藩を攻め、8月、同盟軍が横手城に殺到しました。 横手城は、1672(寛文12)年から、戸村氏が世襲で守りに当たっていたもので、秋田藩の支城でした。同盟調印の当事者であった戸村十太夫にしてみれば、誠につらい立場でしたが、本藩の意志決定には従うしかありません。 横手城の藩兵は、城下の横手川に架かる橋を断って防御を固めましたが、同盟軍は大木を橋代わりにして、大手口から攻め入りました。加えて、場内から火が出たものですから、藩兵も思うに任せず、城から脱出するしかありませんでした。既に7月、江戸は東京と改められ、明治はすぐそこまで来ていました。 横手城本丸跡にある天守閣は、模擬城で、郷土資料館になっており、中に戊辰戦争を描いた絵画が掲げられています。東北にとって、戊辰戦争とは何だったのでしょう。朝廷か、幕府か、選択に迷った先人たちの悩みの深さが秘められているようです。

城のある風景 - 復活した太閤さんの城

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大坂城といえば、誰もが思いつくのは、豊臣秀吉・太閤さんでしょう。下層階級からのし上がっていった秀吉は、自らの政権をうち立てた時、栄華を誇示し、大坂城を金・銀で飾りたてました。 大坂城は、もともとは石山本願寺があった所で、地勢上も優れた位置にありました。織田信長は本願寺を攻めてここを手に入れ、後を襲った秀吉がここに城を築いたのですが、その子秀頼の代で、徳川勢に攻められて落城してしまいました。 徳川氏は、権威を示すためにも、太閤さんを上回る城を造り上げねばなりませんでした。諸大名を動員して大改修をやり、太閤さん時代の敷地の上に10mもの盛り土をして工事をやりました。よほど豊臣氏の影を払い除けたかったのでしょう。 運ばれた大石の数は40万個にも及んだといいます。諸大名もうんざりしたでしょうが、石に紋様を刻んで、確かに協力しましたぞ、という印にしました。天守閣も造り変えられ、5層6階・59mほどのものになりました。 こうやって造り変えられた大坂城は、もう一度落城します。1868(慶応4)年1月、戊辰戦争が起きて炎上、徳川時代の大坂城は終わりとなります。天守閣は、既に1665(寛文5)年に落雷で燃え、無くなっていました。 それから大正に至るまで、大坂城は天守閣の無い城でしたが、太閤さん以来、城は大阪のシンボルとなっていました。ぜひとも天守閣が欲しいということになり、大阪の人々が立ち上がります。 1931(昭和6)年、大阪市民の手で高さ約53mの天守閣が再建されました。外観は、大坂夏の陣の塀風に描かれた形をとり、初の鉄筋コンクリート造りのものになりました。全階エレベーター付きという近代型です。

城のある風景 - 名園と一対の黒の名城

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黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。天守閣の手本とも言われていますから、もし烏城が安土城を模したものなら、その安定した姿に基本型が残されているかもしれません。 岡山城は、戦国武将の宇喜多直家が手に入れて大改修したもので、1573(天正元)年に居城としました。武田信玄が死んだ年です。山陽道も、その時に城下町を通るように改められました。 直家の子が、豊臣政権五大老の一人となった秀家で、1590(天正18)年から8年の歳月をかけて城を改築しました。旭川の流れも、本流から引き込んで、城をめぐる形に変え、川の土を積み上げて本丸を築き、烏城もその時に雄姿を現しました。 ですが、このユニークな天守閣を造った秀家は、関ケ原の合戦で豊臣側となって敗れ、八丈島に流されてしまいます。 代わって、烏城には小早川秀秋が入り、その後、1603(慶長8)年、江戸幕府が開かれた年に、池田氏が岡山藩の城主となりました。姫路城を築いた池田氏の流れです。岡山城の月見櫓は、姫路城のイメージを生かしてつくられたといいます。 更に1632(寛永9)年、池田光政が鳥取から入って、岡山31万5000石を治めることになります。岡山城は、それから明治維新まで池田氏の居城となり、天守閣もそのまま残りましたが、1945(昭和20)年の空襲で焼失、今のものは鉄筋コンクリートで復元したものです。 城から、旭川にかかった月見橋を渡れば、天下の名園・後楽園があります。昔は、天守閣の下から舟で渡ったそうです。城と名園が一対になって、岡山の心の豊かさを伝えているかのようです。

城のある風景 - 加賀百万石初期の苦悩

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加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。 1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成、そこは御山とも呼ばれて、北陸一帯の組織の中核となりました。 中世的な体制を破っていった織田信長は、一向宗門徒組織とも激しく対立し、各地で一向一揆の鎮圧に乗り出し、金沢御堂もまた織田方の柴田勝家の猛攻にさらされました。1580(天正8)年、金沢御堂は激戦の果てに陥落、佐久間盛政が、この仏法の法城に入りました。 門徒組織の真っただ中に乗り込んだ盛政は、直ちに土塁を築き、堀をうがち、「御山」を「尾山」と改めて城の名としました。更に3年後、前田利家がこの地に入り、加賀百万石の祖となりました。 利家は、一揆鎮圧にも腕をふるい、門徒をはりつけや釜ゆでにしたといいますから、彼にとっても、この地は敵地でした。城は、かつての御山の面影を留めぬほどに改築されねばなりませんでした。 城は、浅野川と犀川に挟まれた小立野台地の突端にありましたが、城の向きが北北東に変えられ、今の河北門が正門に改められました。1610(慶長15)年には、内堀や外堀も完成しました。 その後、金沢城は火事に遭いますが、裏門にあたる石川門は、1788(天明8)年に再建され、4〜7mmの鉛瓦で葺かれました。鉛瓦が使われたのは、いざという時に溶かして弾丸にするためでした。 加賀を治めた前田氏は、幕府にとっては目障りな外様の大大名でした。領民は門徒の恨みひきずり、油断ならず、城が安穏であったのは、3代藩主から後のことだったといいます。

城のある風景 - 蝦夷の誇りに対峙した拠点

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古代、東北の地は、自然と共生する人々のまほろばでした。土地は肥え、恵み豊かな地でした。これを視察した武内宿禰(たけうちのすくね)は、「撃ちて取るべし」と断じました。 仙台平野の北の一角、今の多賀城市の小高い丘陵に、律令国家の東北地方平定の拠点が築かれたのは、724(神亀元)年のことだったといいます。 その頃、この地方の人々は蝦夷(えぞ、えみし)と呼ばれ、辺境の荒くれ者、まつろわぬ野蛮人と見られていました。上古から豊かな文化を誇っていた人々にとって、それはまさに征服者の論理でした。 律令国家の東北の拠点は多賀城と呼ばれました。外郭およそ900m四方の周囲には、高さ1m、幅2.3mの築地が巡らされて、陸奥の国府と鎮守府が置かれ、政治・軍事の中枢となっていました。 初め、政庁の建物は、全て掘っ立て柱構造でした。しかし、760年から780年頃には、主な建物が礎石を使う構造に改築され、門も整備されて、蝦夷を威圧するかのようであったといいます。 が、780(宝亀11)年3月、見下され、蔑視された人々が立ち上がります。俘囚(律令国家に帰服した蝦夷)の族長である伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が、抵抗の火の手を上げ、郡の長官と巡察高級官を殺害し、多賀城を襲います。彼らは、倉庫に積まれた品々を奪い、城に火を放って引き揚げました。 江戸時代、この城跡から多賀城碑という砂岩が発掘されました。碑は、古来有名な「壼の碑(つぼのいしぶみ)」と言われていますが、この碑には城の起源が刻まれ、多賀城の位置をこう刻んで、当時の蝦夷最前線の緊迫感を伝えています。 「京を去ること1500里、蝦夷の国界を去ること120里」

城のある風景 - 地蔵仏の慈悲心秘めて430余年

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奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封となりました。 郡山城跡のある丘陵地帯は、中世の頃、郡山衆と呼ばれた武士団の居館がありました。城らしい形を整え出すのは、1580(天正8)年頃からで、その年の11月、筒井順慶が、織田信長からこの地を与えられました。 順慶は、翌1581年から築城を開始しましたが、次の年、信長は、明智光秀に討たれてしまいます。順慶に信長を紹介したのは光秀でしたから、順慶の立場は微妙なものになりました。 しかし、順慶は光秀の出陣要請にも動かず、籠城を続けました。ところが、後にどう間違ったのか、洞ケ峠に出陣して光秀と秀吉の戦いぶりを日和見していたことにされます。実際は、慎重派だったに過ぎない彼は、秀吉から大和一国を安堵されてからも築城を続け、天守も造ったと言われますが、本能寺の変から2年後、28歳の若さで世を去ります。 筒井氏に代わって郡山城に入ったのが、秀吉の異父弟・秀長でした。秀長は、1585(天正13)年、秀吉の名代として四国を征伐。その功によって大和を所領に加え、100万石の太守となりました。 このため、城はそれにふさわしく増築されることになり、奈良中から築城用の石が集められました。家ごとに小石が20荷、寺からは、庭石、五輪塔、地蔵仏までかき集められました。天守台北側裾の「逆地蔵」はその時のもので、1523(大永3)年の銘があります。その頃の戦乱の犠牲者を慰めるための、地蔵仏だったのでしょうか。 柳沢氏が城に入ったのは、秀長の築城から140年後のこと。郡山金魚は、あるいは耐えに耐えて地蔵に祈った、この地のご先祖の恵みだったのかもしれません。

城のある風景 - 守られ続けた世界の名城

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JR姫路駅を降りると、広場から延びる50m道路の先に、城が白い駅舎と向かい合って浮かびます。姫路は城の町です。 姫路は古くから、交通の要衝として知られ、この地に初めて城が築かれたのは、14世紀の半ば頃でした。1600(慶長5)年、池田輝政がこの地に入り、9年の歳月をかけて本格的な城造りに取り組みました。内堀から中堀、外堀へと広がる螺旋状の区割りや、大天守を中心に小天守を配した連立式天守閣の威容など、姫路の街と城の骨格が、この時にほぼ姿を現しました。 工事に動員された人々は、約2430万人に及んだといいます。1618(元和4)年には本多忠政が入城して、未完成だった西の丸などを構築して、城を完成させました。 白い漆喰を総塗籠めにした優美・壮麗な城は、その後もこの地の人々の誇りとされてきましたが、幕末期・鳥羽伏見の戦いの際は、戦火にさらされそうになります。幕府側だった姫路藩を、長州藩が備前岡山藩を前面に立てて攻めようとしたのです。 その岡山藩は、池田輝政を祖とします。城の遺徳が人々に不戦の途を選ばせ、城は無事開城となりました。 こうして幕末の危機を生き延びた姫路城でしたが、明治政府の廃城の方針の下で、この城も入札にかけられ、23円50銭で落札されました。落札した人は、城郭を解体して使おうとしたのですが、莫大な経費がかかることが分かって、事態は振り出しに戻りました。 1878(明治11)年、この名城の危機を、陸軍の中村重遠大佐が救います。当時、全国の城は陸軍の管轄下にあったのですが、彼の意見具申で保存が決まり、やがて明治の大修理が行われて、城はよみがえります。また、1934(昭和9)年からは昭和の大修理事業が始まり、2度の空襲にも耐えて、30年にも及ぶ工事が続きました。 1993(平成5)年12月には、ユネスコの世界文化遺産に登録。更に、2009年(平成21)年から始まった平成の修理は、2015年に工事が完了。改修でよみがえった城は、守り続けた人たちの熱い心で、白く輝いているかのようです。

城のある風景 - 激動の昭和史秘めた原風景

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東京は、海べりを埋め立てて土地を広げてきましたが、旧名の江戸という地名も、入江に臨んだ土地という意味で、平安末期、その入江に突き出した山手台地に、初めて砦が作られました。 1457(長禄元)年、太田道灌が、その砦跡に中世の城郭を築き、こう歌いました。「わが庵は松原築き海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」。当時は、今の大手町から東京駅一帯が、海に臨んだ松原だったといいます。 この台地で、本格的な築城工事が始まったのは、1606(慶長11)年のことで、徳川氏の代になってからでした。工事は延々と続き、江戸城が外郭・内郭共に完成したのは、実に33年後の1639(寛永16)年でした。 ところが、江戸城は、どうも火と因縁が深かったらしく、城の全容が整ってからわずか18年後、振袖火事と言われた明暦の大火で、本丸の5層の天守閣が燃え、その後再建されることはありませんでした。本丸の館も、1863(文久3)年に焼けてしまい、西の丸が将軍の居館となりました。 このため、諸大名が登城する時は、西丸大手門から、今の皇居正門石橋を渡り、中仕切門を通って、下垂橋(現・皇居正門鉄橋)を渡ったといいます。この下垂橋は、堀が深かったため、橋を架けてその上に橋を渡した二重構造になっていました。二重橋という名は、そこから起こりました。 勝海舟の策によって、維新の戦火を免れた江戸城は、明治になって皇居となりますが、火との因縁は切れず、1873(明治6)年5月、またまた炎上。1884年から4年の歳月をかけて造営工事が行われました。全国から木材が献上され、紅白に飾られた牛が、幣を立てた木材を運びました。この時、二重橋も、ドイツ製の鉄の橋に架け替えられました。 二重橋は、その後、1964(昭和39)年に改装されましたが、橋の見える風景は、激動の昭和史と深く結びついていて、人々の感慨を誘わずにおきません。最も日本的風景がここにあります。

手つかずの大自然に抱かれ、自然と共に暮らす人々

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道東地方のほぼ中央、阿寒国立公園の約56%を占める弟子屈町は摩周湖、屈斜路湖、硫黄山など、手つかずの大自然があふれ、年間約100万人の観光客が訪れます。 阿寒国立公園は、「火山と森と湖」の公園と呼ばれ、千島火山帯の西南端にあたる三つのカルデラ・摩周、屈斜路、阿寒が中心となっています。三つの大きなカルデラが、これほど接近しているのは世界的にも珍しく、特に屈斜路カルデラは世界最大級で、美幌峠や藻琴山などの雄大な外輪山を持っています。透明度世界一といわれる摩周湖は、45度の急斜面で覆われます。これほど険しい湖岸も珍しいでしょう。湖には、注ぐ川も、流れ出る川もありません。春から秋までは霧が多く、その姿を隠すことが多くなります。摩周湖が、「神秘の湖」と呼ばれるのもうなづけます。 そんな弟子屈の観光拠点となるのが、川湯や摩周などの温泉群。町には七つの温泉があり、それぞれ泉質・効能からロケーションまでさまざまで、バラエティーに富んだ温泉が味わえます。 この地の温泉を最初に探査したのは、1858(安政5)年にここを訪れた蝦夷地探検家・松浦武四郎でした。その後、明治に入って本格的な調査が行われ、1877(明治10)年、川湯などの採掘が始まりました。 その川湯は、アカエゾマツやシラカバ、ミズナラなどの天然林に囲まれた温泉街です。湯量も豊富で、湯の川が街の中を流れ、硫黄の香りと湯煙りが漂っています。 弟子屈では、こうした観光の他、酪農や畑作が基幹産業となっています。これらは、いずれも自然そのもの、あるいは気候、風土など自然条件を生かしたものばかり。人の暮らしが、いかに自然の恩恵を受けているかがよく分かります。 太古を思わせる、手つかずの大自然に抱かれるように暮らす人々に、日本古来の伝統的な生活を見る思いがします。 硫黄山はいまなお噴気を上げ火山活動を続けている ←屈斜路湖からそのまま掘り込んだ和琴半島の露天風呂。湖畔には砂浜を掘ると即露天風呂になる砂湯などもあります

流域の人々の心を映す清流・千種川

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千種川は、1985年に環境省選定の名水百選に選ばれています。その紹介文の中で、小中高校生による水生生物調査や、流域のライオンズクラブの活動が取り上げられ、「地域住民活動を通じて保全に努めている」と記されています。 千種川中流域にある佐用ライオンズクラブの呼びかけで始まったこの活動は、流域の赤穂、相生、上郡、佐用、千種の5クラブ合同の奉仕活動として、1972(昭和47)年から実施されてきました。その成果は毎年、『千種川の生態』という冊子にまとめられ、流域の人々の意識を高め、清流を守るために大きな力となってきました。1993年には、その功績が認められ、環境庁長官から表彰を受けており、質の高い活動として地域住民からも支持されています。 延長68km、源流を中国山地の分水嶺・江浪峠に発する千種川は、上郡から赤穂市を抜けて、瀬戸内海へと注ぎます。人工改変度が小さく、ダムもないため、昔ながらの美しい流れを保つ、我が国では数少ない川の一つとなっています。 しかし、そこに住む人々にとって、川は単なる風景ではありません。 上郡町が、「ふるさと創生事業」でまとめた『ふるさと上郡のあゆみ』は、「上郡は 千種川の恵みによってこそある」で始まります。 千種川は、その豊富な水量により、土地を潤し流域の人々の暮らしを支えてきました。鉄道のない時代には高瀬舟が通い、一つの風物詩をなしていました。上郡やその上流の佐用に荷揚げ場が置かれ、瀬戸内海と中国山地を結ぶ重要な交通網の役目を果たしていたのです。 そんな恵みの川、千種川をそのままの姿で残したい。ホタルが飛び交い、アユが跳ねる川のままでいてほしい。流域の人々のそんな願いが、千種川を昔のままの澄んだ流れに保っているのでしょう。 全国各地を歩いて回った民俗学者・宮本常一が、生前、こんなことを言っていました。「民衆が水を管理し、民衆が水を自分たちのものとして考えてこれを操作してゆく間は水は汚れるものではない」。 千種川の清流が、その言葉の正しさを証明しているようです。上郡町は、兵庫県最西端。町面積の7割を山林が占め、その山々の間を縫うように、千種川が流れます。

北陸の古い集落に伝わる不思議な茶会 - バタバタ茶

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海抜0mのヒスイ海岸から標高約3000mの白馬岳まで、海・山・川に恵まれた朝日町。町域の6割が、中部山岳国立公園と朝日県立自然公園に指定されているだけあって、自然の豊かな町です。その朝日町の中心から、山の方へ向かい、車で20分ほど走った所に、蛭谷(びるだん)という古い集落があります。 この蛭谷で古くから飲まれているお茶が、バタバタ茶。島根のボテボテ茶、沖縄のブクブク茶などと同じ、振り茶の一種です。 振り茶というのは、茶碗や桶に、煎茶や番茶をだして茶筅で泡立てて飲むやり方で、抹茶を使う茶の湯とは違った庶民の喫茶法です。しかし、振り茶が茶の湯に対する庶民のお茶なのか、振り茶が発展したのが茶道なのか、実のところよく分かっていないようです。 こうした振り茶の習俗は、富山県東北部にかなり広く見られる他、かつてはほぼ日本列島全域にわたって行われていたらしいです。朝日町でも、以前はあちこちで見られましたが、今では蛭谷以外では、あまり行われていません。 朝日町のバタバタ茶は、三番茶を摘んで、室で発酵させた黒茶という特殊なお茶を使います。これを茶釜で煮だし、五郎八茶碗という抹茶茶碗を小振りにしたような茶碗に茶杓で汲み出し、茶筅で泡立てて飲みます。色と味はウーロン茶に似ており、ちょっと苦味があります。が、これを泡立てると、まろやかな味に変わり、何杯飲んでも胃にこたえるようなことはありません。 この黒茶に関しては、蓮如上人との関連で、次のような話が伝わっています。蓮如上人は、1471(文明3)年に越前吉崎(現・福井県あわら市吉崎)に坊舎を建立しましたが、その影響で北陸には、真宗のムラが多く、蛭谷もその一つになります。で、吉崎御坊を建立した翌年、蓮如上人は越中立山の清水に堂を構え説法をした際、蛭谷の黒茶を供したとされます。これがバタバタ茶だったかどうかは分かりませんが、黒茶自体は、その頃から既に世に知られるお茶だったようです。 本来、バタバタ茶は各家の先祖のヒガラ(命日)に、親類や近所の人を招いて行うものですが、「こっそり茶」と称して、特別な日でなくとも、気の合う者同士が集まり、ささやかな茶会が始まることも多いとのこと。 蛭谷ではよく、巾着袋のようなものをぶら下げて歩いている人に出くわします。これは、茶碗と茶筅を入れた茶袋と呼ばれるもので、朝日町のバタバタ茶のユニークなところは、自分の茶道

天神様の使い「鷽(ウソ)」は幸福を呼ぶ青い鳥

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「天神様の使い」といえばウシが有名ですが、ウソもまた、同じ呼称が与えられています。 ウソという鳥は、日本では北海道や本州の亜高山帯にある針葉樹林に棲み、秋から冬にかけ、四国や九州などに渡る漂鳥ーいわば国内版渡り鳥です。体長は11〜12cm。頭部は黒く、背は青灰色、くちばしは太く黒い。オスは顔がバラ色をしており、なかなか美しい鳥です。 ウソが「天神様の使い」と言われるようになったのは、太宰府天満宮に平安時代から伝わる「神幸式」と関係があります。菅原道真の霊を慰めようと、道真の誕生日9月25日に行われているものですが、ある年、この神幸式の列にクマンバチが襲いかかり、行列が進まなくなりました。まさにその時、ウソが北から渡ってきて、クマンバチを食べてくれ、神幸式を滞りなく行うことが出来た、と伝えられます。 やがて1年中の嘘を、神前で誠に替えてもらおうと、人々が木彫りのうそを天満宮に持ち寄るようになりました。それがいつ頃から始まったのかは、正確には分かりません。が、江戸時代に、盛んに行われていたことは、記録により明らかになっています。 これが、現在も1月7日の夜、天満宮の境内で行われる「うそ替え神事」です。「うそ替えしましょう」と呼び合いながら、暗闇の中でうそを交換し合います。自分のうそより立派なものと替わると吉とされます。 明治時代になると、天満宮では指の先ほどの純金のうそを作り、神官が人々の中を回るようになりました。最初は3個でしたが、その後6個に、更に12個まで数も増えました。が、今は木うそに番号が入っており、神職が発表した番号のうそを持っている人に、純金製のうそが授与される形になっています。 うそ替えに使われる木うそは、もともとは自分たちで作ったものでした。野良仕事などで使う鎌で木を削ったもので、それぞれ形も異なっていました。その後、専門の作り手が登場、それらの人々により形も徐々に整えられてきました。しかし、一時は天満宮の禰宜を務めていた故・木村當馬さんだけになってしまい、天満宮を始め商工会議所などの呼びかけで太宰府木うそ保存会が発足。木村さんを講師に、後継者を育成してきました。 うそには朴(ホウ)の木を使います。原木の太さをそのままに、うそを削っていくため、大きさや太さは一本一本違っています。それがまた人気を呼ぴ、民芸品として木うそを求める人も多いようです。ちなみに

伝統を醸す讃岐の「どぶろく祭り」

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すっかり「うどん県」の名が定着した香川県。三豊市豊中町はその西部、三豊平野の中央にあります。この豊中町笠岡の鎮守・宇賀神社では、毎年春秋2回のお祭リで、参拝者にどぶろく(濁酒)を振る舞うのが、数百年来の習わしとなっています。 もちろん、ちゃんと財務省の許可を得てのもの。1898(明治31)年、酒税法の改正によリ、自家用の酒の醸造は禁止となりました。これに伴い、宇賀神社のどぶろく祭りも、一時中断の憂き目にあっています。しかし、氏子たちが協議のうえ陳情、1900年、年間1石(180リットル)以内との特許を得て復活しました。春は3月春分の日、秋は10月の例祭が、どぶろく解禁の日となります。 どぶろく祭りの由来は、実は明らかではありません。が、かなり古くからのものらしく、古老の話では、300年ぐらい前から続いているといいます。醸造も古式床しい製法で行われます。氏子の中の代々世襲されてきた杜氏によリ、昔ながらの醸造道具(県指定民俗資料)を使って造られます。ただ、昔は各部落の当屋の家で行われていましたが、現在は税法上、神社の境内で行われ、厳重な制度によって出来上がっています。 どぶろくは、祭リの前日にまず「口開け」の式を行います。次いで、祭リの当日、御神酒として神前に奉納し、神事が終わった後、氏子一同や一般の参拝者に頂かせるのが、習わしとなっています。 また、祭リの日には、氏子たちが「エビ汁」をこしらえます。エビの頭を取リ、砕いてすりつぶしたものを、みそと一緒に煮ます。水は、米のとぎ汁を使うため、とろりとコクが出て、非常にいい味に仕上がります。このエビ汁と交互に飲めば、いくらでもどぶろくが腹に納まる、と氏子の人たちは言います。もっとも、度を越すと、救急車のお世話になることになるとか。取材当時は、県内の人にも、ほとんど知られていない祭リで、それだけに郷土色豊かで、素朴な味わいがありました。 現在は、2002年に創設された構造改革特区制度により「どぶろく特区」が認定され、全国で129の特区が、どぶろくをつくっています。しかし、宇賀神社のどぶろく祭りを取材した頃は、どぶろくの醸造は神事用として1石以内に限リ、奈良の春日大社、大分県大田村の白髭田原神社などに認められているだけでした。 ちなみに、春祭リは氏子だけですが、秋の例祭では、一般の参拝者にもどぶろくが振る舞われます。讃岐観光の折

飫肥城下に残る不思議な弓

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南国情緒あふれる日南の海岸から、国道222号を山の手の方へ上っていくと、なだらかな山々に囲まれた飫肥の町に入ります。ここは、伊東氏5万1000石の城下町。往時の姿を留める石垣塀や門構えを残す武家屋敷が、町のあちこちに連なり、同じ日南市でも、明るい海側とは対照的に、しっとりと落ち着いたたたずまいを感じさせます。 飫肥城は伊東、島津の攻防、実に103年という、城をめぐる戦いとしては日本最長の記録を持ついわくつきの城です。1458(長禄2)年、島津忠国が伊東氏の南進に備えて築城したもので、その後、両氏の間で長い争奪戦が展開され、1578(天正15)年の秀吉による九州統一後、伊東氏の本城となりました。 この飫肥に、四半的という、400年前から伝わる独特の弓があります。射場の距離が4間半、弓矢共に長さ4尺半、的の直径4寸半ということから、その名が付けられたといいます。普通の弓矢に比べ、弓が短く、矢が長い。つまり、よく飛ばないという不思議な弓です。 しかも、射手はみな座って弓を引き、その前にはなぜか焼酎の一升瓶がどんと据えられています。これ、飾りでもなんでもなく、本当に飲んじゃうのです。焼酎と弓。なんとも不釣り合いな取り合わせです。 もともと四半的は、娯楽 - それも農民の遊びとして始まりました。武士が考え出したもので、農民が武器を持たないよう仕向けたもののようです。だから武道、ましてや礼法などとは全く無縁。 今では体協にも加盟、飫肥だけでなく、宮崎県内各地はもとより熊本や東京にも広がり、老若男女、特にお年寄りのレクリエーションとして、最近、競技人口が増えています。休日ともなると民家の庭先や広場など、飫肥の町のあちこちで、四半的を楽しむ光景が見られます。 しかし、体協に加盟しようが、一般的になろうが、焼酎は欠かせません。「飲んで弾こうか、弾いちかり飲もうか」と民謡「四半的くどき」にも歌われるように、こぶし固めと称して弓を引く前に飲み、的に当たったと言ってはまた一杯・・といった調子。 なにしろ宮崎県は、お隣り鹿児島県と並ぶ焼酎王国。人口5万1000人の日南市だけでも、九つの蔵元があります。そんな土地だけに、「焼酎と弓」、一見して不釣り合いなこの取り合わせも、かえってらしく、なんの不思議も感じさせません。 ※写真1枚目=泰平踊:飫肥に元禄の初めから伝わる郷土舞踊。藩主伊東氏の功績を

江戸の大坂人が生み出した佃煮はじめて物語

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佃島は東京都中央区の南東部、隅田川の河口に臨む島です。人情や町のたたずまいなど、昔ながらの風情が残ることから、最も江戸らしいと言われる地域です。が、何を隠そう、佃島の名前の由来は大阪にあります。 頃は1582(天正10)年6月、徳川家康が大坂に遊んだ折のことです。堺に滞在していた家康は、本能寺で信長と会うため、京へ向かう途中、本能寺の変が伝えられます。急ぎ、三河へ戻ろうとした家康ですが、更に間の悪いことに、出水により足止めをくらってしまいます。 途方に暮れる家康に、助け船を出したのが、佃村(現・大阪市淀川区佃)の庄屋・森孫右衛門でした。佃の漁民が出してくれた舟で、一行は何とか窮地を切り抜けることが出来、これを機に、徳川家と佃の漁師との間に固い絆が結ばれることになったといいます。 江戸開府に当たり、家康は、佃村の漁師に対する恩賞として、彼らに幕府の御菜御用を命じ、孫右衛門を始め三十数人の漁師たちが、江戸・日本橋東詰に移住して来ました。更に1613(慶長18)年には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようにしました。 その後、3代将軍家光の時、彼らは隅田川河口の干潟100間四方の土地をもらい、周囲を石垣で固め、故郷佃村の名をとり佃島と命名しました。江戸前漁業はだんだん盛んになり、小魚が売れ残ったりすると、佃島の漁師たちは塩、たまりなどで煮込み、保存食にしました。これが佃煮の始まりです。 佃煮は、安価で保存がきくところから、使用人の多い大店や下級武士の間で重宝され、庶民のおかずとして定着。更に江戸近郊で醤油が製造され始めると素材も増え、それらが江戸土産として全国に広がると共に、各地でも作られるようになり、佃煮の名で呼ばれることとなりました。

長い歴史を誇る伝統の竹細工「三尾そうけ」

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先に公開したブログ記事( 「魚の王国・富山湾に君臨する味覚の王者、越中ブリ」 )に書いた定置網と並んで、氷見にはもう一つ、長い歴史を誇る伝統の技があります。「三尾そうけ」と呼ばれる竹細工で、石川県境にある三尾という集落に受け継がれています。 昔、弘法大師が、この地に立ち寄った時、豊富な竹に目を留めて、土地の者に技術を教えたのが始まり、という説もあります。真偽のほどは定かではありませんが、昔から材料の竹に恵まれていたのは確かなようで、定置網のブイ代わりに竹を使っていた時代もあったようです。 「そうけ」は「笊筍」と書くように、竹で作った笊(ざる)のこと。三尾では材料にマダケを使い、昔から現在に至るまで、いわゆる米揚げざるを専門に作っています。 三尾そうけは、一方に口のついた片口型の当縁(あてぶち)仕上げのもので、1斗(18リットル)揚げから2升(3.6リットル)揚げと、大小はあるものの、形は全て同じで、重ねると、すっぽりと一つに収まります。 かつては三尾の集落のほとんどの家で、そうけ作りが行われていました。農家の副業として、農閑期などに夫婦分業で作業をしていたもので、主に男が竹を割ってひごを作り、女がそれを編み上げていました。 今もご夫婦でそうけを作っているお宅を訪ね、仕事を見せて頂きましたが、その熟練した技には驚くばかり。初めは何をしているのか分からないほど、鮮やかな手さばきでした。 が、昔は台所の便利道具として必需品だったそうけも、今ではプラスチックやステンレス製のざるに取って代わられ、一般家庭では目にすることはありません。時代の流れの中で、三尾そうけでも後継者不足と作り手の高齢化により、伝統の技が消えゆくのは時間の問題だと聞きました。寂しい限りです。 ※三尾地区では、地域の伝統を継承しようと、三尾竹細工生産組合が出来、生産者を講師に竹細工を学ぶと共に、そうけの竹材を確保するため竹林の整備も行っているようです。