銘菓郷愁 - 京阪の伝統干菓子「粟おこし」 大阪


おこしは、せんべいと並んで古くから干菓子の代表とされ、どちらも我が国最初の百科辞典『和名類聚抄』(931〜937頃)に取り上げられています。その頃はもち米を煎って、水飴でこねて固め、好みの大きさに握って丸めたり、竹の筒などにつめて押し出したりしたものだったそうです。

江戸時代の初めの頃になると、鳩麦の実をよく干して、キツネ色になるまで煎り、砂糖を水に加えてふかしてから、少しずつ砂糖を取り分け、鳩麦を少し混ぜて固まらせたようで、1643(寛永20)年に出た『料理物語』にこしらえ方が紹介されています。もう少し後になると、もち米を蒸してからさらし、乾かして、それに蜜と米粉を混ぜたものを加え、団子状にしたり、押しつぶして六角形に切って食べたりしたようです。

下って、1752(宝暦2)年、8代将軍徳川吉宗が亡くなった次の年、大坂の道頓堀ニツ井戸の津の国屋清兵衛が、それまでのおこしの製法を改め、初めて「粟おこし」の名で、新しいおこしを売り出しました。清兵衛のおこしは、干し飯を挽いて細かくし、飴と上等の黒砂糖か出島糖で練り、板状にのばしたものでした。黒砂糖は、琉球産のものが早くから珍重されていました。出島糖というのは長崎・出島から入ってきた海外産の砂糖で、共に当時の輸入品でした。

19世紀初め頃からは、国産の砂糖も出回るようになりましたが、清兵衛の改良は国産品が使われるよりもそのおいしさが評判になり、各地で真似をするものが出たということです。けれども、やはり真似は真似で、かえって本物の名が高まりました。

また、粒の細かな「粟おこし」に対し、ウルチ米を干し飯にして、水飴と砂糖と練り、箱に入れて冷ましたものは「田舎おこし」と呼ばれ、江戸周辺で作られていたということです。

江戸時代、大坂は天下の台所と言われ、諸国から原料や一次加工品が集まり、大坂でそれらが加工されて諸国へ移出されました。「粟おこし」も、そんな大坂の特色が生み出した逸品だったと言えるでしょう。

初代清兵衛の「菓子刷新」の志は、代々受けつがれ、「粟おこし」も時代と共に新しい味覚を追究し、原料や形を変えて多くの人々に愛されてきました。口に含むと、あくまでも米の香ばしさを失わず、微細なすき間ににじむ甘さが、その香ばしさを包み漂う銘菓です。

コメント

  1. 岩おこし 粟おこし ようおこし♪と小さい頃歌ってました。
    歯が折れそうなお菓子ですね。

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    1. 正直なところ、粟おこしは、あまりなじみがありません。関東からは、大阪を中心とした関西の維新人気が、なかなか理解出来ないのと同じようなもんでしょうか(笑。。。

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