北陸の古い集落に伝わる不思議な茶会 - バタバタ茶
海抜0mのヒスイ海岸から標高約3000mの白馬岳まで、海・山・川に恵まれた朝日町。町域の6割が、中部山岳国立公園と朝日県立自然公園に指定されているだけあって、自然の豊かな町です。その朝日町の中心から、山の方へ向かい、車で20分ほど走った所に、蛭谷(びるだん)という古い集落があります。
この蛭谷で古くから飲まれているお茶が、バタバタ茶。島根のボテボテ茶、沖縄のブクブク茶などと同じ、振り茶の一種です。
振り茶というのは、茶碗や桶に、煎茶や番茶をだして茶筅で泡立てて飲むやり方で、抹茶を使う茶の湯とは違った庶民の喫茶法です。しかし、振り茶が茶の湯に対する庶民のお茶なのか、振り茶が発展したのが茶道なのか、実のところよく分かっていないようです。
こうした振り茶の習俗は、富山県東北部にかなり広く見られる他、かつてはほぼ日本列島全域にわたって行われていたらしいです。朝日町でも、以前はあちこちで見られましたが、今では蛭谷以外では、あまり行われていません。
朝日町のバタバタ茶は、三番茶を摘んで、室で発酵させた黒茶という特殊なお茶を使います。これを茶釜で煮だし、五郎八茶碗という抹茶茶碗を小振りにしたような茶碗に茶杓で汲み出し、茶筅で泡立てて飲みます。色と味はウーロン茶に似ており、ちょっと苦味があります。が、これを泡立てると、まろやかな味に変わり、何杯飲んでも胃にこたえるようなことはありません。この黒茶に関しては、蓮如上人との関連で、次のような話が伝わっています。蓮如上人は、1471(文明3)年に越前吉崎(現・福井県あわら市吉崎)に坊舎を建立しましたが、その影響で北陸には、真宗のムラが多く、蛭谷もその一つになります。で、吉崎御坊を建立した翌年、蓮如上人は越中立山の清水に堂を構え説法をした際、蛭谷の黒茶を供したとされます。これがバタバタ茶だったかどうかは分かりませんが、黒茶自体は、その頃から既に世に知られるお茶だったようです。
本来、バタバタ茶は各家の先祖のヒガラ(命日)に、親類や近所の人を招いて行うものですが、「こっそり茶」と称して、特別な日でなくとも、気の合う者同士が集まり、ささやかな茶会が始まることも多いとのこと。
蛭谷ではよく、巾着袋のようなものをぶら下げて歩いている人に出くわします。これは、茶碗と茶筅を入れた茶袋と呼ばれるもので、朝日町のバタバタ茶のユニークなところは、自分の茶道具を持参し、招かれた家で各人それぞれ茶を振るところにあります。バタバタ茶の語源は、せわしなくばたばたと茶筅を左右に振る動作からきているといいます。が、茶釜を囲んで、みんなが一斉に茶碗をかしゃかしゃ鳴らしている構図は、実に楽しいそうでした。
蛭谷のバタバタ茶は、それら全てをひっくるめた、茶会の総称と考えた方が近いでしょう。
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この蛭谷は、木地師発祥の地とされる滋賀県の蛭谷(東近江市)から移り住んだ人たちの集落です。ここに住み着いた人たちは、山に自生していた楮を使って紙漉きを始め、最盛期には120軒を超える紙漉き場がありました。蛭谷で漉かれた紙は強く丈夫で、障子紙などに重宝されました。が、村を襲った大火で、多くの道具が焼失。更に時代と共に紙の需要も変化し、いつしか蛭谷の和紙は姿を消してしまいました。昭和30年代になって、蛭谷に住むある女性が、以前に紙を漉いていた人から漉き方を教わり、和紙を再興。女性が病に倒れた後は、夫が妻の思いを継ぎ、病床の妻から口伝えで紙漉きを習って、蛭谷の和紙を守り続けました。
その後、千葉県松戸市出身の川原隆邦さんが、「蛭谷最後の紙漉き」と呼ばれた米丘さんに弟子入り。米丘さんが亡くなった今は、お隣の立山に工房を構え、「蛭谷和紙」を継承しています。
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