銘菓郷愁 - 義経・弁慶も賞味したと伝わる「五郎兵衛飴」 福島県会津若松
飴は、我が国で発明された最も占い甘味料だと言われています。言ってみれば、甘さの根源のようなもので、古代の飴は米もやしで作られ、近世の中期には麦もやし(麦芽)が使われるようになったそうです。
米から作る飴は、一晩水につけたもち米を蒸して、それにこうじの粉と水を入れてかき混ぜ、弱火にかけて甘酒のようになったものを袋に入れて絞り、煮詰めるのだそうで、これを水飴と言いました。更に練って固くすると堅飴(クロ飴)、もっと練り固めていくと白飴に変わります。
どちらにしても、それほどに古い甘味料ですから、飴にまつわる言い伝えや風習も実にさまざまあります。会津の五郎兵衛飴について語られている物語も、そんなお話の一つと言えるでしょう。
五郎兵衛飴には、源義経が食べたという言い伝えがあって、義経に従って奥州へ下った弁慶の証文と言われるものが伝わっています。これは、義経主従が会津へ来た時に五郎兵衛飴を食べ、その代金一貫文を借りたという借用証で、借りたのが義経、保証人が弁慶というものです。借りた日付は、文治4年(1188)となっています。
義経が奥州平泉へ下り、藤原氏の許へ身を寄せたのは文治3年のことで、5年には、衣川館で自刃して果てます。ところが、義経は実は生き延びたのだという伝説があって、それによると、文治4年、危険を察した義経主従は、密かに平泉を逃れて、北上し、本州北端から北海道へ渡ったことになっています。つまり、義経が五郎兵衛飴を食べて代金を借りたのは、ちょうど一行が北上を開始した年に当たるわけです。そんな伝説が残るほど、古くからある飴だということになります。
米から作る飴は、稲の刈り入れが終わった10月頃から次の年の春くらいまでの間に作るのが良いとされています。義経主従が食べたのも、この時期だったのかもしれません。
この五郎兵衛飴は、やがてこの地を治めた蒲生氏や松平氏に、長く携帯食として採用され、幕末には、白虎隊も携行したということです。
これは、もち米に麦芽糖を加え、寒天で固めてオブラートで包んであります。澱粉が溶けて、滑らかな舌触りを楽しんでいると、控えめの甘さが口の中にあふれ出し、後から後からいつまでも尽きぬもののように広がる古典的逸品です。
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