琉球王朝時代の軍用道路「真珠道」
しかし、これら国宝の多くは、第二次世界大戦の沖縄戦で、すっかり失われてしまいました。1992年に、正殿を始めとした首里城が復元されるまでは、那覇で最も有名な観光スポットと言えば守礼門でしたが、これも戦争で破壊され、1958年に復元されたものでした。
2000年には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されました。世界遺産に指定されている史跡は、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園(以上那覇市)、斎場御嶽(知念村)、中城城跡(中城村)、勝連城(うるま市)、今帰仁城(今帰仁村)の9史跡です。中でも、いちばんの定番スポットは首里城ですが、2019年10月31日、その首里城の正殿など8棟が、火災により全焼してしまいました。
首里城は現在、国を挙げて復興事業が進んでいますが、完全な姿に戻るのは、まだまだ先のようです。それでも、火災があった年の暮れから、園内の約8割が散策可能となり、首里城復興モデルコースも設定されました。これは、多くの来園者に、今まで気づけなかった新しい首里城、首里のまちの魅力により多く触れてもらおうとの趣旨で企画されたもので、A「守礼門・京の内早回り(2コース)」「B首里城一周/首里まちまーい(2コース)」「C首里城公園ビュースポット(1コース)」「D見せる復興見学(1コース)」の6コースが設けられています。
最も短いA-1の30分から、最も長いB-4の150分まで、30分刻みでコースが設営されていますが、この記事では、せっかくなので、最も長い150分のコース4について、ハイライトをご紹介します。首里城公園管理センターが提供しているコースガイドによると、「首里杜館芝生広場」→「守礼門」→「歓会門」→「久慶門」→「銭蔵」→「北城郭」→「東のアザナ外周」→「継世門」→「金城町石畳入口」→「真珠道」→「首里杜館前売店」となっています。このうち「歓会門」は、首里城へ入る第一の正門で、別名「あまえ御門(うじょう)」と言います。「あまえ」は、琉球の古語で「喜んで迎える」を意味していて、「歓会」はその漢訳になります。「久慶門」は、通用門として使われ、主に女性が利用していました。別名は「喜び誇る」から、「ほこり御門」とも言います。「継世門」は、倭寇に備えて建てられた門とされています。別名「すえつぎ御門」と言い、国王死去の際は、新国王(世子)はここから城内に入り王位継承の儀礼を行いました。
コースに入っているもう一つの門「守礼門」は、首里城のシンボルとも言える門です。日本的な城に当てはめると、大手門に相当する門になります。琉球王国第二尚氏王朝の4代目尚清王の代(1527〜1555)に建てられ、1933年には国宝に指定されましたが、他の史跡と同様、沖縄戦で破壊されました。現在の門は58年に復元されたもので、以来今日まで沖縄を象徴する観光施設となっています。
その守礼門をくぐり、首里正殿と反対側の坂を下っていくと、石畳の坂が見えてきます。その入口に「シマシービラ」「真珠道」と書かれた石碑があります。シマシービラとは、この坂の名前で「島添坂」と書きます。
一方の「真珠道」は「まだまみち」と読み、首里城から那覇港に通じる琉球王朝時代の軍用道路でした。起点は、守礼門の脇にあったと言われる石門で、標高が高い首里近辺から幾つもの坂を下って港へ通じていました。沖縄弁で「坂」は「ヒラ」と呼び、真珠道は、島添坂の後も金城坂(現在の金城町石畳道)、識名坂などの坂を通ることになります。那覇港は、琉球王国の大事な拠点で、その防衛は非常に重要なミッションでした。真珠道は、王朝にとって欠くことの出来ない道路で、有事の際には首里城の軍隊が、この道を駆け抜け港へ急行したのでしょう。
観光スポットとして有名な金城町の石畳も、この真珠道の一部になります。この石畳がある金城町は、琉球王朝時代には士族の屋敷町でした。現在も、ツタの生える石垣と、赤い瓦屋根の民家、花と緑に包まれた家並みがきれいに保存されており、琉球王国が豊かだった時代の面影を色濃く残しています。
途中には王家の別邸に当たる識名園や昔からの井戸など、多くの史跡もあります。井戸の一つ、金城大樋川と呼ばれる沖縄の伝統的な共同井戸は、湧き水をそのまま石垣で囲んだものです。首里の主要幹道であった真珠道を行き交う人馬も、この井戸水でのどを潤したといいます。
金城町の石畳道は非常に風情があり、日本の道百選にも選ばれています。ただし、かなり勾配のある坂道なので、一度下りてしまったら、戻ってくるのは結構きついので、心して下ってください。沖縄は13世紀頃まで、北山、中山、南山の三つの王国に分かれ、対立していました。14世紀に入ると、次第に中山国が力を持ち始め、1429年、尚巴志(しょうはし)が三山を統一。首里を都とした琉球王国が成立しました。
琉球国は中国や東南アジアと交易し、日本とこれらの国々を結ぶ中継ぎ貿易国として栄えます。しかし、江戸時代、17世紀に入ると、薩摩藩(鹿児島)が、この中国貿易に目をつけ琉球へ侵攻、琉球は薩摩の植民地となってしまいます。それでも、中国との交易を円滑に進めるため、薩摩は表向き、琉球王国の体裁をそのまま残し、首里城は王城として明治維新まで続きました。
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