さまざまな文化が入り交じる東濃地方
岐阜県はかつて、北部が飛騨、南部が美濃と、二つの国に分かれていました。今もその頃の名残で、飛騨や美濃という言葉があちこちで使われます。例えば、岐阜県南東部は美濃の東部ということで東濃、岐阜県南西部は美濃の西部で西濃といった具合です。
東濃は、一般的に多治見、土岐、瑞浪、恵那、中津川の5市のことで、北を長野県、南と東を愛知県と接しているため、両県とのつながりが深く、昔からさまざまな文化が入り交じっていました。この地方に、東濃歌舞伎と呼ばれる地歌舞伎がありますが、これも人や物が盛んに往来し、芸能文化などが入ってきやすい環境だったからでしょう。
地歌舞伎というのは、アマチュアの人々が行う歌舞伎のことです。地歌舞伎自体は、全国各地で行われていましたが、現在残っている地歌舞伎(地芝居、農村歌舞伎、素人歌舞伎)の保存会は、日本全体で200件ほどだそうです。東濃には、そのうち全国最多の30件があり、昔ながらの芝居を継承しています。しかも、地歌舞伎では芝居を演じるだけでなく、独自の芝居小屋もあって、舞台作りを含め何から何まで地元の人がこなします。
また、ここには、独特のカツ丼文化もあります。カツ丼というと、つい先日、福井県民のソウルフード「ソースカツ丼」について書きましたが(ソースカツ丼発祥の店ヨーロッパ軒総本店を訪問)、ここには、もっと複雑なソースカツ丼が存在します。
私を、その世界に誘ってくれた東濃の友人によると、多治見だけはトンカツを卵とじにした一般的なカツ丼ですが、ドミグラスソースにケチャップ、しょうゆ、和風だしなどを合わせたタレをかける土岐の「てりカツ丼」を始め、瑞浪の「あんかけかつ丼」、恵那の「デミかつ丼」、そして中津川の「しょうゆかつ丼」など、そのラインアップは多士済々。で、友人たちが、その中から実際に案内してくれたのは、見た目からしてインパクトがある、瑞浪の「あんかけかつ丼」でした。
あんかけかつ丼のお店「加登屋」さんは、JR瑞浪駅から徒歩1分。1937(昭和12)年創業の食堂です。メニューは、丼物やうどん、各種定食に一品料理など、非常に豊富ですが、なんと言っても、あんかけかつ丼が一番人気。卵が貴重だった創業時に、少ない卵でボリュームを持たせようと、先々代が考案したそうです。カツオやムロアジなど5種類の魚系だしをブレンドし、あんは葛でとろみをつけています。上品な味とトロトロの食感が癖になるカツ丼です。
ところで、この東濃一帯(土岐、多治見、瑞浪)で生産される焼きものを、一般に「美濃焼」と称します。もっとも、美濃焼と呼ばれるようになったのは、明治以降のことで、藩政期には、この地方が尾張藩の管轄下にあったため、瀬戸焼(せともの)として全国に販売されていました。
桃山期の織部、黄瀬戸、志野といった茶陶の名品を生んだのもこの地方ですが、江戸期に入って茶陶が美濃から京都へ移ると、美濃で作る焼き物は、次第に日常雑器類へと様変わりしていきました。特に江戸後期、文化文政以降は、磁器の生産が中心となり、明治以降は、国内はもとより海外への輸出に力を入れ、日本一の焼きもの王国を築きました。
以前、東日本大震災後に、土岐の方が、被災地支援のため大量の陶器を提供してくれた話を書きましたが(海と祭りに生きる山田の人々)、間に入って生産者と支援者、被災地をつないでくれたのが、あんかけかつ丼に案内してくれたKMさんでした。そしてKMさんはこの後、私を恵那の坂折棚田まで連れて行ってくれました。
坂折棚田は、江戸初期から始まり、約400年の歴史がある棚田です。ここは、石積みの技術の高さに特徴があるとされますが、これは黒鍬師とか黒鍬衆と呼ばれた職人たちによって造られたものだそうです。黒鍬というのは、近世から明治かけ、尾張・知多から、尾張領内や隣の三河はもとより、美濃や伊勢など近隣各地にまで出向いて、各種の土木工事に従事した人たちです。
もともとは、知多の農民が、尾張藩の許可を得て、農閑期に出稼ぎに行っていたのが始まりと言われます。しかし、各地で働くうちに、新田開発やため池工事、道路普請などに優れた技術を持つようになり、中には1年を通して出掛ける者もいたそうです。
ところで、棚田に着いた時、既に冠布をかぶって大判カメラで撮影している先客がいました。私もとりあえず、その人の近くで数点シャッターを切った後、下の方を歩きながら撮影を始めました。ふと見上げると、例の先客さん、まだ同じ場所で撮っていました。むむっ、粘るのねと思って、また撮影再開。
しばらくしてまた上を見ると、かなり時間が経っているのに、相変わらず同じ姿勢で立っています。で、さすがにおかしいと思い、元の場所に戻って覗いてみると、あれよあれよ。大判カメラを構えたプロカメラマンと思いきや、かかし君でした。完全にだまされました。
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