「不易流行」の世界を具現化する奥州・平泉
芭蕉が平泉を訪れたのは元禄2(1689)年5月13日です。藤原氏が滅亡して、ちょうど500年。つまり、義経が亡くなって500年目という年でもありました。
奥の細道は、西行の足跡をたどる旅でしたが、平泉で折り返した点や、500年という節目の年を選んだことなどを考えると、藤原氏と義経の終焉の地を訪ねるという意味合いも強かったのでしょう。
ところで地元に、藤原秀衡の三男忠衡が西行と義経を招待してソバの会食をし、「西行様と義経公が、いつまでも藤原氏の『そば』にいて力を貸してほしい」と切望したという言い伝えがあるらしいのです。義経は文治3(1187)年2月10日に平泉に入ったとされます。その一方、頼朝に知られたのがこの日で、実際は前年の暮れに既に入っていたという説もあります。西行が2度目の平泉訪問をしたのは文治2年10月12日のことですから、もしかしたら、と夢は膨らみますが、実のところ可能性は薄いようです。残念!
さて奥の細道の平泉の項は「夏草や」の前半部と、「五月雨の」の句がある後半部に分けられます。つまり前半で「滅びゆくもの」、後半で「後に残るもの」を描いています。
五月雨の降のこしてや光堂
金色堂の脇にある芭蕉の句碑には「あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか」という解釈が書かれています。
金色堂は、中尊寺創建当初の唯一の遺構で、奥州の最高芸術と言っても過言ではありません。堂の内外は黒漆塗りの上に金箔が張られ、その名の通り金色に輝きます。内部もまた白く光る夜光貝の螺鈿細工・透かし彫りの金具・金蒔絵など、藤原時代の工芸の粋が施されています。中央の須弥壇の中に清衡、向かって左の壇に二代基衡、右に三代秀衡の遺体と泰衡の首級が納められています。
東日本大震災があった2011年、平泉がユネスコの世界遺産へ登録されました。「仏国土(浄土)をあらわす建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録されたのは、中尊寺、毛越寺と、無量光院跡、観自在王院跡、そしてそれら造営の基準となった金鶏山です。極楽浄土の世界を再現した浄土庭園と仏堂が、12世紀の浄土思想を伝える貴重な文化遺産と評価されました。
毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡公から三代秀衡公の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しましたが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。
その一方、平泉には、藤原氏以前から、数々の寺院が建立されています。それらの中でも、達谷窟毘沙門堂は、ぜひ訪れてみたい場所です。坂上田村麻呂が、征夷の記念に毘沙門天を祀った岩窟で、京都の清水寺をまねた懸崖造りの毘沙門堂は、窟堂としては日本一の規模を誇ります。また、平安時代造像の丈六不動明王像(県指定文化財)や北限といわれる「岩面大佛」(磨崖仏)も必見です。
ところで、これまで何度かブログに書いてきましたが、我が家の遠い祖先は、義経に従って奥州に向かいました。そのうちの一人鈴木重家は、衣川の合戦で弟の亀井重清や武蔵坊弁慶らと共に戦いますが、7、8人の敵に手傷を負わせたところで自分も深手を負い、最期は自らの腹を掻き切って自害したと伝わります。ただ、衣川では自害せず現在の秋田県羽後町に落ち延びたという伝承があったり、義経の命により平泉を脱した後、岩手県宮古市にある横山八幡宮の宮司として残ったとする古文書があったりして、なかなかのミステリーになっています。
ちなみに、平安時代の建物を再現した歴史テーマパーク「歴史公園えさし藤原の郷」(奥州市)の裏に、重家の子・重染が建てたと言われる「鈴木山重染寺(れいぼくさんちょうぜんじ)」の跡地があります。父の敵を討つため紀伊国から陸奥国に入った重染が、亡君源義経と亡父鈴木重家のため一寺を建立したと伝えられている場所です。
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