私のルーツ旅その二 - 新城編
四谷の千枚田 |
昨日のブログ(私のルーツ旅その一)に書きましたが、我が家の遠い祖先は、江戸時代に、2代将軍徳川秀忠の命により水戸家付家老として、水戸へ赴任しました。
水戸にやって来たのは、1618(元和4)年のことで、家老に任命されたのは鈴木重好でした。重好は、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも登場した井伊谷三人衆の一人、鈴木重時の子どもで、重時が1569(永禄12)年に戦死後、11歳で家督を継ぎました。その後、重好は井伊直政(重好とは従兄弟)に付けられ、1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは、一番槍の手柄を挙げたそうです。
ご先祖が築いた柿本城の跡 |
1590(天正18)年、徳川家康の関東入りに伴い徳川四天王の筆頭・井伊直政は上野国(現在の群馬県、栃木県)の箕輪城主となり、重好は祖父の鈴木重勝(井伊直政の曽祖父)と子の重辰と共に箕輪城に入りました。そして、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは、重好は先方として井伊直政の戦功を助けました。
直政の死後、重好は、徳川家康から命じられ、家督を継いだ井伊直継の補佐に当たります。1603(慶長8)年、征夷大将軍となった徳川家康の命を受け、井伊直継が西国に対する防衛拠点として彦根城を築城。その総元締めを、付家老であった重好と木俣守勝が務めました。ただ、井伊直政の没後、井伊家は統制がとれなくなり、家中騒動が勃発。家康のはからいで重好は隠居となり、家督は子の重辰が継ぎました。
その後1618年になって、上野国の安中で隠居生活を送っていた重好は、秀忠から水戸行きを命じらることになったわけです。この時、重好は、孫の長松丸(鈴木重政)を伴って出仕しました。子の重辰は、彦根藩で家老を務めていましたが、1634(寛永11)年に江戸で急死。重好は、その前年の1633年に今度は本当に隠居し、家督は、孫の重政が養子となり継承。我が家は、その重政の孫の代に本家から枝分かれした家系になります。
昨日のブログは、水戸以降の話でしたが、今日は家譜の最初に記されている鈴木重勝までさかのぼります。
鈴木重勝が再興した満光寺 |
鈴木重勝は、1503(文亀3)年、三河国足助庄酒呑(しゃちのみ)で生まれました。1524(大永4)年に遠州掛川に移り、その後遠州二俣(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町)を経て、三河国宇利(現在の愛知県新城市)を勢力下におくようなりました。この期間は、今川氏に属していましたが、1553(天文22)年には武田信玄から朱印状を賜ったり、1563(永禄6)年には今川氏真から感状を賜ったりしました。その後、家康に従い、孫である井伊直政の補佐に当たりました。
この鈴木重勝については、酒呑の出身ということらしいのですが、酒呑系鈴木氏の誰の子かなど、それ以上詳しいことは、不明です。重勝が再興した新城市の満光寺に、重勝と重勝の妻、孫である重好と重好妻の墓がありますが、満光寺の方に聞いても、重勝の先代までは分からないとのことでした。
ただ三河には、三河鈴木氏という流れがあり、それらは寺部(てらべ)鈴木氏、酒呑(しゃちのみ)鈴木氏、足助(あすけ)鈴木氏、則定(のりさだ)鈴木氏など複数の家系に分かれていたそうです。この三河鈴木氏の祖といわれるのは、鈴木平内大夫重善(善阿弥)です。元々は熊野の藤白鈴木氏の出身で、次のような理由で三河に土着することになったと伝えられています。
鈴木重善は、穂積姓鈴木氏の本宗家・藤白鈴木氏10代目当主鈴木重倫の弟で、平治の乱で戦死した兄から、幼かった息子重家らを託されました。源義経への志が深く、源平合戦(治承・寿永の乱)では、自らは病があったため甥の重家、重清を義経に従わせ、源氏の勝利に貢献しました。その後、義経が頼朝と対立して奥州へ逃れた際、義経に従っていた甥の重家(藤白鈴木11代目当主)、重清兄弟の後を追い、1189(文治5)年、熊野を出て奥州へ向かいました。しかし、三河国矢並(現在の愛知県豊田市矢並町)に来たところで足を痛め、逗留して回復を待つ間に、義経を始め重家・重清も討死にしてしまい、奥州行きを諦め、そのままこの地に永住することになりました。そして、室町時代に矢並を本拠として勢力を広げ、戦国時代には、寺部(豊田市寺部町)、酒呑(豊田市幸海町)、足助(豊田市足助町)、則定(豊田市則定町)などの諸家に分かれたということになります。
左から鈴木重勝と妻、重好と妻の墓(満光寺) |
で、家譜によりたどれる最も古いご先祖様が、酒呑系とされる1503年生まれの鈴木重勝ということになります。その拠点となった新城市には、3年前、「四谷の千枚田」の取材で行きました。取材が一段落して、道の駅「鳳来三河三石」で食事をした際、そのすぐ裏に、鈴木重勝の子・重時(井伊谷三人衆)が築いた山砦の柿本城と、そのふもとに重勝が再興した満光寺がありました。もちろん、満光寺には寄らせてもらい、寺の方に少しお話を伺うことも出来ました。
というわけで、明確にたどれる我が家のルーツ新城市について、少し紹介してみたいと思います。
新城市は愛知県東部、市域東は静岡県浜松市に接しています。戦国時代には今川、武田、織田、徳川(松平)などの有力大名に囲まれ、ご先祖様を始め、この地の武将たちはその時の強い勢力に従い、従属関係を変えていました。織田信長・徳川家康連合軍が、武田の騎馬軍団を鉄砲と馬防柵で破り、それ以後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼしたと言われる長篠の戦いの合戦場は、新城市のほぼ中央にあります。
取材をさせてもらった「四谷の千枚田」は、130人ほどが暮らす山間の集落、四谷地区にあります。「四谷の千枚田」と名付けられた棚田は、鞍掛山(883m)の山頂に向かって、標高230m付近から430m付近まで広がっています。高低差は実に200m、日本三大石積みの棚田で、約420枚の田んぼが連なっています。
1425段の石段が続く鳳来寺表参道 |
約700年前には既に稲作が行われていたと言われており、棚田も非常に古い歴史を持っています。1904(明治37)年には梅雨の長雨と雨台風で鞍掛山の隣の山(通称貧乏山)が崩れ、沢沿いの家屋が流失、死者11人という大惨事が起こりました。この時、棚田も沢沿いでほぼ壊滅状態となりました。しかし、村人たちは諦めることなく、くわとモッコで棚田復興に全力を注ぎ、わずか5年ほどで石積みの棚田を蘇らせました。この絶景は、そうした長い歴史と先人たちの汗と苦労で積み上げられたものなのです。
現在、四谷の千枚田では、「鞍掛山麓千枚田保存会」が組織され、都市との交流を目的に「ふれあい広場」や「ぼっとり小屋」「水車小屋」などの施設を整備したり、全国棚田(千枚田)サミットを開催したり、毎年6月には1500本のろうそくを棚田に並べるキャンドルナイト企画を実施したりしています。こうしたことの積み重ねで、四谷の千枚田は知名度がアップし、観光客が年々増加。それらの人たちが写真を撮ってSNSなどで拡散することにより、更に多くの人が訪れるようになっています。
この他にも、幅100m、日本の三大美堰堤の一つで、日本で最初の縦軸式発電所(ナイヤガラ発電所)であることから「花の木のナイヤガラ」とも言われる長篠堰堤や、家康懐妊伝説があり、幕府の厚い保護を受けた鳳来寺など、見どころがいくつもあります。また、我が家に縁の深い満光寺も、「徳川家康の危機を救った鶏」で有名な古刹で、庭園の美しさでも知られています。
→ふるさと探訪「三河の里山・鞍掛山のふもとに広がる日本の原風景、四谷の千枚田 - 新城」
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