豊かな自然に恵まれた里海里山の町・南三陸 番外編
「豊かな自然に恵まれた里海里山の町」に書いたように、南三陸町は、豊かな自然に恵まれた里海里山の町として知られます。2016年に戸倉地区で日本初となるASC国際認証(国際規準の養殖エコラベル)を取得したことで、入谷地区で既に取得していた国際的な森林認証制度のFSC認証と合わせ、山と海の二つの国際認証を取得した団体がある日本初の自治体として、大きな注目を集めました。
町の西と北、南西は、北上山地に連なり、町域の70%以上は森林が占めています。その中心である入谷地区は、「入谷三山」と呼ばれる三つの山 - 童子山(どうじさん=320.5m)、惣内山(そうないさん=379.5m)、神行堂山(しんぎょうどうざん=461m)に囲まれた里山です。ちなみに、南三陸さんさん商店街は「サンサンと輝く太陽のように、笑顔とパワーに満ちた南三(サン)陸の商店街にしたい」というコンセプトの下、2012年2月25日に仮設商店街としてオープンしましたが、入谷には2001年に開設された「校舎の宿さんさん館」があり、こちらは「入谷三山」が由来になっています。
さんさん館は、1999年に閉校となった旧林際小学校をリノベーションした体験宿泊施設で、津波がさかのぼった八幡川からは3kmほど入っているため、津波の影響は受けませんでした。で、さんさん館の北にあるのが、入谷地区の最高峰・神行堂山で、東に惣内山、西に童子山があります。この辺りは、奥州藤原氏の黄金文化を支えた場所で、童子山は「陸奥の黄金山」と称えられるほど金が採れ、一攫千金を夢見て諸国から集まった人々で「入谷千軒」と称されるほどのゴールドラッシュがあったと言われています。
しかし、金が採掘し尽されてしまうと、入谷は一寒村へと姿を変えてしまいました。それを救ったのが、江戸中期に入谷村の肝煎を務めていた山内道慶でした。道慶は、平安時代から始まった養蚕業・絹織物業により「絹の里」として知られ、江戸城御用の川俣絹を生産するなど、国内有数の絹織物産地となっていた川俣で、養蚕と製糸の技術を習得。養蚕の奨励を仙台藩に進言し、その普及に努めました。
もちろん、道慶の出身地である入谷でも、多くの農家が稲作の傍ら、桑の栽培や蚕の飼育に励みました。気候が養蚕に適しており、生糸を紡ぐのに必要な水が豊富だったため、入谷では質のよい絹が生産されるようになりました。やがて入谷の絹は「金華山」と名付けられ、一世を風靡。1900(明治33)年のパリ万博でグランプリを獲得するまでになりました。
入谷中の町にある「御休場の一本松」の傍らには、養蚕が盛んだった明治時代に山内道慶を記念して建立された「蚕神」の碑が残っています。碑が建っている「御休場の一本松」というのは、入谷八幡神社の例大祭で、神輿が休む御休場にある御神木です。推定樹齢300年以上と言われる立派な松でしたが、2年ほど前に寿命を迎えてしまったらしく、2019年5月には、後継の御神木として、桜が植樹されたそうです。
「御休場」は、宿泊研修施設「いりやど」から歩いて4〜5分の所にあり、ここから入谷八幡神社までは、やはり徒歩で7〜8分です。神社の下には、「オクトパス君」などを作る「南三陸復興ダコの会」の工房「入谷Yes工房」があります。そのせいか、入谷八幡神社には、復興を願って大正大学から寄贈された「オクトパス君」のブロンズ像が設置されています。
入谷八幡神社は、奥州藤原秀衡の元に身を寄せた源義経が、祈願成就のお礼として、京都の石清水八幡宮から勧請したと伝えられます。奥州藤原氏と義経にまつわる話は、実は我が家のご先祖も関係しています。
「私のルーツ旅その二 - 新城編」に書きましたが、我が家の家譜の最初に記されている鈴木重勝は、今の愛知県新城市を拠点としていた三河鈴木氏の流れになります。この三河鈴木氏の祖といわれるのは、鈴木平内大夫重善(善阿弥)です。元々は熊野の藤白鈴木氏の出身で、次のような理由で三河に土着することになったと伝えられています。
鈴木重善は、穂積姓鈴木氏の本宗家・藤白鈴木氏10代目当主鈴木重倫の弟で、平治の乱で戦死した兄から、幼かった息子重家らを託されました。源義経への志が深く、源平合戦(治承・寿永の乱)では、自らは病があったため甥の重家、重清を義経に従わせ、源氏の勝利に貢献しました。その後、義経が頼朝と対立して奥州へ逃れた際、義経に従っていた甥の重家(藤白鈴木11代目当主)、重清兄弟の後を追い、1189(文治5)年、熊野を出て奥州へ向かいました。しかし、三河国矢並(現在の愛知県豊田市矢並町)に来たところで足を痛め、逗留して回復を待つ間に、義経を始め重家・重清も討死にしてしまい、奥州行きを諦め、そのままこの地に永住することになったとされています。
この時、義経に従って奥州で討死にした鈴木重家の妻・小森御前も、夫を慕って後を追っていました。しかし、志津川に着いた頃、討死の知らせが入り、小森御前は夫の死を嘆き悲しみ、八幡川に身を投げて自害しました。これを哀れんだ村人たちが、この地に祠を建て、小森御前社として祭ったと伝わります。その祠があったのは、三陸自動車道・志津川ICと「季節料理 志のや」のちょうど中間辺りで、東日本大震災の津波により倒壊流失してしまいましたが、2013年に同じ場所に再建されました。
ところで入谷地区には、震災の追跡取材でお世話になった工藤昭彦さんの工藤商会があります。農業機械の販売・修理を手掛ける工藤さんは、震災から2カ月後の5月に、庭先修理で仕事を再開しました。いつまでも被災者でいるな、と避難所まで探しに来たなじみの農家に言われ、はっとさせられたそうです。そして、自宅と工場、店、倉庫、全てを津波で流されたため、海から離れた入谷地区を再出発の地に選びました。
2012年の2月、この時も多くの方にお会いし話を伺っていると、工藤さんが、これから入谷地区で工場兼店舗の地鎮祭をする、と言われたので、取材が一段落したところで、地鎮祭にお邪魔しました。私とK嬢が着いた時は、ちょうど準備をしているところだったので、そのお手伝いもさせて頂きました。
地鎮祭の準備をしながら、工藤さんは、「南三陸は漁業の町ですが、漁師は自分で食べる米を自分で作る風習があり、先祖代々の田んぼが大事に守られていました。そうした海沿いの地区の得意先は1割も残っておらず、先行きは不安ですが、自分の技術がお客さんに望まれる限りは大丈夫だと信じています」と、話していました。
工藤さんには、我々の取材だけではなく、支援活動の橋渡しをお願いしたこともあります。千葉県市川市のYTさんから依頼された支援プロジェクトを、実現に導いてくれたのも工藤さんですし、東京・世田谷のSYさんを障害者福祉関係の方に紹介してくださったのも、工藤さんでした。
震災があった年の6月23日、YTさんの友人である日系アメリカ人のジョージ上杉さんが来日され、「震災の日以来、被災地のために何かしたいと思っていたけど、何をしたらいいのか分からなくて・・・。今朝、ホテルでテレビを見ていたら、避難所に冷蔵庫がなくて困っているって聞いた。私に出せるお金は10万ドルだけなんだけど、被災地に冷蔵庫を贈るのを手伝ってくれる?」と、YTさんに話したそうです。ちょうど、私の事務所から近い「金八」という店で食事を取っていた時の話なので、私を思い出したのか、翌日、YTさんが事務所を訪ねてこられ、被災地の情報提供を依頼されました。
そこで、追跡取材で何度か訪問していた南三陸を紹介することとして、工藤さんの連絡先をYTさんに伝えました。その結果、話はとんとん拍子で進み、冷蔵庫は、後々まで使ってもらえそうな、小学校、中学校、高校の避難所を中心に贈呈すると共に、津波で全部流されてしまった児童図書を教育委員会と相談しながら支援する方向で調整してもらえることになりました。しかも、これは1年だけではなく、ジョージさんは、何年かにわたって継続支援をされたそうです。
最初の10万ドル寄付金が、南三陸へ入金された7月21日の10日後、YTさんがSYさんと共に南三陸復興市を訪問。私とK嬢も、被災地の追跡取材の関係で復興市へ行っていたので、そこで合流し、工藤さんを始め、取材でお会いした方々をお二人に引き合わせました。
この時、東京で障害者支援情報センターを運営しているSYさんは、ご自分の分野である障害者福祉について話を伺う中、工藤さんから被災3県の障害者センターと協力している「いそひよ応援団」の鈴木清美さんを紹介されました。そして鈴木さんから、町にあった知的障害者施設・精神障害者施設は双方とも津波の被害に遭い、現在は山間の建物を借りて細々と運営されていると聞きました。
その後、SYさんは、仲間と共に何度か南三陸を訪問し、鈴木さんや障害者施設の方からヒヤリングを重ねました。その中で、作業を受注していた町内の企業が被災し、震災後は全く仕事が入らないという「のぞみ福祉作業所」に対し、自主製品の開発を提案。これに対して、のぞみ福祉作業所が紙すきを希望したため、SYさんたちは紙すき道具一式を寄贈すると共に、SYさんが関係する共同作業所で、作業に紙すきを取り入れている「STORY」に協力を依頼。STORYでは、快くノウハウを提供してくれ、更に紙すきを担当されている利用者と職員が南三陸まで出向き、のぞみ福祉作業所の利用者らと交流しながら、紙すき道具の指導をしてくれました。
のぞみ福祉作業所では、福祉関係者から「紙すきはお金にならないよ」と言われ、不安を胸にスタートしたそうですが、のぞみ福祉作業所と同じ高台にある商工団地の一角で薬局を再開した小坂調剤の小坂克己さんを始め、さまざまなサポートもあり、徐々に販路が拡大。作業所も支援に甘えることなく、商品開発や販売促進に取り組んだ結果、最初は月1000円の工賃で始めたものが、翌年には震災前の最高額を上回る工賃を支給出来るまでになったということです。
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