桜木町から始まった大槌支援活動

東日本大震災 大槌町

地域の絆を大切に、自分が出来ることを - 大槌町大念寺」「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」に続く、大槌編の第3弾です。今回は、「遠野まごころネット」を手伝い、大槌町桜木町地区でボランティア活動を続けた、西本吉幸さんを中心に話を展開させます。

 ◆

大槌町では、東日本大震災により、災害対策本部を立ち上げるべく町庁舎に集まっていた町長始め町の幹部職員が津波にのまれ、そのまま消息を絶ちました。ボランティアセンターの中心となるはずの社会福祉協議会も、会長、事務局長ら4人が亡くなっていました。

社協職員24人は要介護者24人と共に「ケアプラザおおつち」に1週間間借りした後、社協施設の「デイサービスセンターはまぎく」に移りました。職員の大半は自分の家族の安否も分からないまま、当番を決め要介護者の世話をしました。

東日本大震災 大槌町

そして一人の犠牲者もなく利用者を送り出した後、体制を一新。疲労は限界を超えていましたが、若い職員を中心に災害ボランティアセンターを立ち上げ、急務だったボランティア対応に当たり始めました。当初の仕事は、住宅地での浸水家屋の泥出しや片付けに集中しました。行政の手は届かず、高齢者世帯や仕事を抱える世帯では、自力で後片付けを続けるうち体調を崩す人も出ていました。

一方、沿岸部から約40kmの内陸にある遠野市では市民らが中心となり、被災地への支援態勢を整えるべく、3月28日に「遠野まごころネット」を結成。被災地の宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市までほぼ等距離という地の利を生かし、全国からのボランティアや支援物資の受け入れを始めました。

「遠野まごころネット」が、最初に向かったのは大槌町の桜木町地区でした。浸水家屋の片付けを優先したのです。期せずして、災害ボランティアセンターと歩調を合わせる格好になりました。

東日本大震災 大槌町

しかし、初日にボランティアの派遣を希望したのは、1人だけでした。避難所を回ったスタッフは、「知らない人がいきなり来て、困っていることはないかと聞いても、頼みづらいのは理解出来る。特に若い女性は不安そうだった」と報告しました。「見ず知らずの人に家をかき回されるのは抵抗がある」「大事な記念品をゴミ扱いされかねない」。そんな思いもあるのだろうと推測出来ました。

その上、ボランティア側の態勢も整っておらず、初日の作業に参加したのは5人。道具はスコップ5本と手押し車4台だけでした。約370戸ある浸水家屋のことを考えると、気が重くなる状況です。それでもボランティアたちは、黙々と水につかった家具や家電を運び出し、ヘドロ状の土を家の中からかき出しました。家屋清掃隊長の林崎慶治さんは、初日の作業を終え、「今日がなければ2歩目もない」と言ったそうです。

北海道・小樽の友人・西本吉幸さんが、遠野まごころネットに入ったのは、4月6日のことでした。

西本さんは最初、新潟県長岡市の社会福祉協議会に集められていた支援物資を、岩手県盛岡市の「SAVE IWATE」ボランティアセンターに届ける役目を引き受けていました。2tトラックに物資を満載し、盛岡を目指しましたが、東北自動車道は救援物資を運搬するトラックで渋滞。パーキングエリアも駐車スペースが無く、本線まで車があふれる状態でした。更にたどり着いたボランティアセンターでは、被災地の情報が乏しく、有効な配送ルートを確立出来ていませんでした。結局、「立ち上がったらしい」という情報を頼りに、「遠野まごころネット」へ向かうことになりました。

水戸の炊き出し隊がベースキャンプを張った大槌町総合ふれあい運動公園にて

「遠野まごころネット」に着き、物資の配送先を聞きましたが、案内されたのはすぐ隣の体育館。仮設の物資集積所になっており、膨大な数の物資が整然と置かれていました。

「白菜など生鮮食料はすぐさま行き先が決まり安堵しましたが、米などその他の食料品は、体育館へ運ばれていきました」(西本さん)

その後、西本さんは片付け作業から戻った林崎さんに会って話を聞き、翌日からボランティアの作業道具を運搬する仕事を引き受けることになりました。その日から3週間、西本さんはトラックの小さな運転席に寝泊まりしながら、桜木町へ通いました。

西本さんが、小樽市の自宅を出発したのは4月1日。フェリーで向かった先は新潟でした。そこで西本さんを迎えたのは、新潟県・長岡のMTさんでした。

遠野まごころネットと共に西本さんが活動拠点にしていた桜木町地区

MTさんは、3月27日に奉仕団体による全国レベルの支援物資配送に参加。その折、福島県猪苗代町に設置された支援物資集積所で、同じく支援物資配送に参加していた兵庫県・明石の橋本維久夫さんと情報交換を行いました。

MTさんは、建設機材のリースをしている従兄弟が、長岡に開設された東日本大震災ボランティアバックアップセンターに関係し、災害救援登録済みのトラックを持っていること、更に長岡の社協に支援物資が集まっているが、被災地まで配送してくれる人がいないことを告げました。そこで橋本さんは、ボランティア精神に富む友人、西本さんに白羽の矢を立て、すぐに連絡。聴覚障害者支援などで、橋本さんと一緒に活動したことがある西本さんは、橋本さんの依頼を快諾し、被災地での活動を決断しました。

西本さんは桜木町で活動しながら、被災した人たちの話を聞いて歩きました。足りないもので、遠野の体育館に物資があれば、それを住民に届けるようになりました。そのうち、住民が必要とするものが徐々に変化し始め、集積所にある物資では間に合わなくなってきました。

西本さんが支援活動に使用し、寝泊まりもしていたユニック車

そこで西本さんは、MTさんや橋本さんが参加しているボランティア関係のソーシャル・ネットワークを通じて、全国から物資を集め、それを必要とする人たちに届けることにしました。自衛隊から給水を受けるための20リットルポリ容器が重いと書き込むと、10リットルの容器350個が届き、被災した家からヘドロなどを運ぶための土のう袋がいると言えば、1万枚以上の土のう袋が届きました。SNSに参加する全国の人たちが情報を共有し、被災した方たちに思いをはせながら支援物資を送ってくれました。

このSNSは、災害時における緊急支援などを目的に2007年に有志により立ち上げられました。その年発生した新潟県中越沖地震では、全国から人が集まり、合同で炊き出し奉仕を実施。その後もインターネットを活用して、スピードと機動力を生かした支援活動を展開するなど、大規模災害に対応してきました。

もちろん、東日本大震災でも即座に行動。情報を共有しながら、有志が支援物資配布の実働部隊として行動しました。更に、西本さんが被災地入りしてからは、彼が情報源となり、支援活動が活発化。4月21日には西本さんを送り込んだ張本人、橋本さんが約1100km離れた明石から桜木町に入りました。

その前夜、「遠野まごころネット」に、「大槌に支援物資が一切届かない家庭がある。どうにかしてほしい」という情報が寄せられました。西本さんは翌朝、トラックに物資を積み込み、橋本さんと共にその家庭を探しました。半日掛かりで探し当てた家には、10人のお年寄りが暮らしていました。最初は避難所にいたものの、避難所になじめず、共同生活をすることにしたのだといいます。避難所から出てしまったことで、食料や衣類はほとんど無く、5枚のふとんを分け合って寝ていました。

遠野まごころネットの拠点「遠野市総合福祉センター」

到着早々、在宅被災者が置かれた過酷な状況を知った橋本さんは、その支援に全力を挙げることを誓いました。手始めに、桜木町地区で拠点となってくれそうな家を探しました。そこで目を留めたのが、看板に書かれた「米」という文字でした。明石で米穀店を営む橋本さんは、同業のよしみで頼んでみよう、そう思って車を降り、声を掛けたのが、「ファミリーショップやはた」で店の片付けをしていた藤原良子さんでした。

ボランティアとの作業から戻って来た店主の八幡幸子さんは、支援物資の配布拠点になってほしいという橋本さんの依頼を二つ返事で引き受けました。というのも、西本さんとは既に一度、仕事をしていたからでした。

桜木町の集会所脇に、住民の心の拠り所になっている祝田観音があります。この観音さまのいわれを書いた碑が、倒れたままになっており、西本さんにトラックの車載クレーンで元に戻してもらっていたのです。

そして、この後、前のブログ「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」の最後につながり、桜木町を舞台に、思いを持つ人たちが少しずつつながり始めることになります。

※また、長くなってしまったので、続きは次の記事に譲ります。

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