復興のシンボル「がんばろう!石巻」の大看板
震災後、初めて石巻に入ったのは、被災から2カ月ほど経った5月18日でした。以前のブログ(「地元の方お勧めの居酒屋こまつと喜の川 - 一関」)で少しだけ触れましたが、被災地の支援活動を模索するため、神戸のDHさんが同行していた時のことです。この時は、前日の17日に陸前高田へ行き、18日は南三陸へ行った後、石巻に向かいました。石巻の目的地は雄勝町。北海道・美唄のKTさんたちが、炊き出しを行っているはずでした。
南三陸から雄勝までは、国道398号で太平洋沿岸を走ります。南三陸と石巻の境は、二つに割れた奇岩「神割崎」で、ここから石巻市の北上町十三浜に入ります。十三浜というのは、神割崎から北上川河口の間にあった13の集落(小滝浜、大指浜、小指浜、相川浜、小泊浜、大室浜、小室浜、白浜、長塩屋浜、立神浜、吉浜、月浜、追波浜)の総称です。
本来なら、十三浜から北上町橋浦へ入った所で新北上大橋を渡り、対岸へ行けるのですが、北上川をさかのぼった津波で橋が破壊されていました。川面から約7mの高さにあったにもかかわらず、橋の3分の1を流失。そのため、12km上流の飯野川橋まで迂回しなければなりませんでした。飯野川橋で対岸に渡ってから、また新北上大橋まで戻りましたが、自衛隊の復旧作業により通行可能となった道路だったようで、北上川と追波川の間の道には、鉄板が敷かれていました。
新北上大橋まで戻ると、橋の周辺では、行方不明者の捜索や復旧作業に携わる自衛隊員が活動していました。ここは、橋のすぐ東にある大川小学校で、108人の児童のうち74人が、10人の教職員と共に津波にのまれて犠牲となった場所です。隊員たちの傍らを抜けながら、彼らに頭を下げて、その場を離れました。
新北上大橋から雄勝までは約5kmですが、途中に長いトンネルがありました(釜谷トンネル)。そこはちょうど峠になっていて、トンネルを出ると、雄勝まではなだらかに下っていました。
到着したと思った雄勝は、津波に襲われたままの、異様な光景が展開していました。人の気配が全く感じられず、炊き出しをやっていそうな場所の見当もつきません。美唄のKTさんに電話を入れると、自分も土地勘がないから、と共通の知人で、炊き出しのコーディネートをされた石巻の杉山正夫さんに代わりました。
そこで杉山さんに、いま雄勝に入ったところと告げると、「雄勝? 全然、方向違いだよ」と。KTさんから連絡をもらった時、「杉山さんに設定してもらって、牡鹿半島で炊き出しをするから、よかったら来て」と言われた私、牡鹿半島ですぐに頭に浮かんだのが、雄勝町でした。ある連載企画の取材先候補として、伝統工芸の雄勝硯がある雄勝町を入れていたため、牡鹿半島イコール雄勝となってしまったのです。
完全に、私の思い込みによる間違いでした。結局、迂回してたどり着いた挙げ句、場所が違った上、DHさんが神戸へ戻る飛行機の時間もあり、牡鹿半島での炊き出しには参加せず、仙台空港へ向かいました。
その後、私が石巻を訪問したのは、更に半年後の11月になってからでしたが、5月の雄勝迷い込みに同行していた編集部のK嬢は、それ以前の3月30日に、石巻へ行っています。この時、K嬢はまず、塩竈の志賀重信さん(「震災を乗り越える『社とさかなの町』塩竈」)を取材。更に石巻へ支援物資を搬入する志賀さんたちに同行して杉山さんとお会いし、被災状況などを伺っていました。
石巻市は、仙台市に次ぐ県下第2の都市として、震災前は人口16万3000人を擁していました。江戸時代には米の集積港として栄え、明治以降は漁業、更に近年は紙パルプを主とする工業港として発展を遂げてきました。津波はその港を、工場を、沿岸部の住宅をのみこみ、旧北上川をさかのぼって市街地の広い範囲が冠水しました。人的被害は大きく、死者数は3553人、行方不明者418人に上りました(2021年1月末現在/石巻市発表)。
杉山さんが経営する文房具販売会社ナリサワは、JR石巻駅のすぐ北側、旧北上川から1kmほど離れた場所にありましたが、1階部分が水に浸かりました。杉山さんは、社員や近隣から集まってきた住民100人と共に社屋2階に避難。水が引くまでの4日間は孤立状態になりました。
杉山さんの会社に身を寄せた人の中に、石巻市議会議員の阿部和芳さんがいました。阿部さんは、議会運営委員長として第1回定例会の委員会を開催するため、市役所へ向かう途中で地震に遭遇。それからの様子を次のように話しています。
「非常時だと思い、急いで市役所へ行くと、役所のすぐ隣にある駅前市民広場に大勢の市民や市職員が出てきてごった返していました。しばらくすると、パトカーが『大津波警報が出ています。高台へ避難してください』とアナウンスしながら走っていきました。
早速、市民や職員を高台の日和山へ誘導。ほぼ終えたところで職員から『津波で車が駄目になるかもしれないから、移動したらどうですか』と言われ、うなずきました。車を走らせていたところでフロントガラスに津波の第1波を受け、急きょUターン。どこをどう走ったのか、気付くと駅裏にある杉山さんが経営する文具店の前でした。『店の2階に近所の方々が避難してきて110人ほど居る。君も早く上がって!』と、杉山さんが呼んでくださり、寄せて頂きました。
水に浸かった数十台の車のクラクションが空しく鳴り響いた夜。まるで断末魔のようで心が痛みました。ふと見ると東の夜空が真っ赤です。門脇小学校が燃えているのだと、ラジオで知りました。
寒くて眠れぬまま翌朝を迎え、夢であってほしいと思いましたが現実でした。『水が引くどころか増水している』という誰かの声。ここに100人以上の人が孤立していることを、どうやって知らせられるでしょう。食べ物も無いまま明かした13日の朝、凍てつく中、市役所まで泳いで救援を求めました。今も記憶が鮮明に残っています。その後、車が無いので市役所から歩いていると、辺りはまるで戦場の焼け野原、映画のシーンのようでした。その壊滅的な状況に無性に泣けてきました。
石巻市では死者、行方不明者を合わせ4000人近い方々の尊い命が失われました。大川小学校で犠牲となった児童教職員84人の中には甥っ子がおり、その子を迎えに行った私の妹も亡くなりました。命の大切さを改めて痛感すると共に、無常を感じたものです」
ようやく水が引いた後、杉山さんは、被災した会社を物資の保管、配布場所として使用。志賀さんを通じて塩竈から入ってくる物資を始め、全国の友人、知人からさまざまな形で物資が届けられました。それらは市の災害対策本部とも相談しながら供給していましたが、主な対象は、自宅で避難生活を送る人たちで、ラジオやテレビで物資配布の日時や品目を告知し、集まった人たちに物資を渡しました。
「震災後、避難所に入った人は8万人、被災しながら自宅で暮らしている人は4万人にもなりました。その自宅にいる人たちに物資がいき渡っていない。そうした人たちに直接物資を届けています」。K嬢が取材に伺った際、杉山さんはそう説明してくれたそうです。
私もその後、何度か石巻へ行きましたが、何回目かの時にお会いした片岡章記さんから、自宅避難の話を伺ったことがあります。片岡さんは地震の瞬間、大街道の会社におり、地震でガラスが割れ、書類は散乱。どこから片付けようかと思案している時に、「お父さん! 津波!」という奥さんの声が聞こえました。会社は海から2km近く離れていたため、まさかこんな所まで津波が来るはずがないだろう、そう思いながら外へ出てみると、海の方から真っ黒い水が、かたまりとなって押し寄せてくるのが見えたそうです。
「会社裏の自宅に、足の悪い母が一人でいたので、家内に様子を見に行ってもらい、私は書類が水に濡れないよう片付けを始めました。しかし、あっという間に水かさが増え、書類どころか自分の逃げ場さえなくなってしまいました。そこで裏側の出窓を開け、プラスチックの目隠しを素手で破り、2階の倉庫へ上がる外階段の手すりを伝って脱出しました。階段を上がっていくと、見知らぬお年寄りが3人、踊り場の所にいました。逃げる途中で津波に追い付かれ、階段を上がってきたそうです。その日は非常に寒かったので、とりあえず倉庫を開け、中に入ってもらいました。水は結局、2mほど上がってきていたので自宅へは戻れず、3人のお年寄りと一緒に、倉庫にあった建築資材を身体に巻いて一夜を明かしました。停電で辺りは真っ暗闇でしたが、窓から外を見ると、海の方だけが明るく、オレンジ色になっていました。その時は分かりませんでしたが、門脇小学校が燃えていた火の色だったんですね。
次の日も水は完全には引いていませんでしたので、お年寄りたちには水が引くまで、倉庫を使ってくださいと話し、私は母と家内がいる自宅へ何とか戻りました。自宅も事務所と同様、1階は完全に浸水し、ヘドロで覆われていました。しかし、足の悪い母には避難所生活は無理なので、2階で生活をすることにしました。ただ、自宅避難だと支援物資はもちろん、情報さえも全く無く、最初の1週間は冷蔵庫に残っていた食料で食いつなぎ、裏の水路から水をくんできては、自宅や事務所の掃除をしていました」
杉山さんは、塩竈から搬入された物資の積み下ろしが終わると、「今の石巻の姿を見てほしい」と、市街地にある日和山公園に案内してくれ、変わり果てた町の景色に肩を落としながら、それでも前を向いて進もう、と話していたそうです。「光は遠く、小さいけれど、みんなでスクラムを組んで、がんばって復興を成し遂げたい」。
震災から1年が経った2012年3月11日、石巻市南浜にある「がんばろう!石巻」の看板横に、復興祈念の灯火が置かれました。これは、石巻市内の被災地域から木片を集め、それを種火としてともしたものだそうです。また、献花台も設置され、その周りには花が植えられました。
2016年にここを訪問した際、ちょうど花の植え替えをされていた女性がいらっしゃいました。聞いてみると、ボランティアで植え替えをしているとのこと。その女性は、「最近でこそ2カ月に一度ですが、以前は毎月取り替えていました。この近くに住んでいたので、自分に出来ることはやりたいと思って・・・」と、話してくれました。
現在、大看板の隣には、震災犠牲者を追悼し、被災の教訓を次世代へと伝承していく広大な祈りの場「石巻南浜津波復興祈念公園」の整備が進められており、この3月28日に開園する予定だそうです。
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