瀬戸内に臨む安芸の小京都の魅力 - 竹原
竹原は安芸の小京都と呼ばれます。平安末期、京都・下賀茂神社の荘園として開け、市内には上賀茂神社・下賀茂神社が祀られています。そうした歴史的背景と共に、賀茂川や美しい竹林など、自然も京都をほうふつさせます。
しかし、海のない京都と違い、竹原には瀬戸内海があります。賀茂川は、瀬戸内海と内陸部を結ぶ舟が行き交い、竹原はその港町として栄えました。
一方、この港は瀬戸内海賊の基地としても知られました。そんなことを考えると、当時の竹原は、京都とは大いに違う趣を見せていたことでしょう。この頃の港は、賀茂川のかなり上流にあったらしいのですが、戦国時代に砂の堆積で使えなくなり、瀬戸内寄りに新たな港を造成しました。それが、現在の竹原です。
その後、浅野長晟(ながあきら)が藩主となってから、竹原は大きく変わります。浅野藩は、瀬戸内海での新田開発に力を入れました。しかし、土地の脱塩が不十分で、農地には適しませんでした。そこで、播州赤穂の浅野藩から技術者を招き、塩田開発に乗り出しました。
そして、これが大成功。1650(慶安3)年には31軒、1653(承応2)年には88軒の塩屋を数えるまでになりました。その後は、藩も個人も競って塩田開発に投資し、やがて竹原は塩の町として発展。同時に竹原の港も、その積出港として繁栄していきました。
今も残る竹原の重厚な町並みは、塩景気に沸いた浜旦那たちのものです。また、清水寺を模した西方寺を始め、多くの社寺が建立され、竹原は再び京を思わせる町へと変貌を遂げていきます。
これらの町並みは戦災を免れ、現在もほぼ全域に残っています。特に上市・下市の家並は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、江戸時代後期のさまざまな様式の建造物を見ることが出来ます。
伝建地区に2軒、国の重要文化財に指定されている建物があります。春風館頼家住宅と復古館頼家住宅で、頼家というのは、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた『日本外史』の著者・頼山陽を始め、江戸後期に多くの儒学者を輩出した家です。
製塩業と港で栄えた竹原は、元禄期には大坂などの町人文化の影響を受け、富裕層は学問に力を入れました。これにより、頼山陽の父である頼春水や、その弟の春風、杏坪の3兄弟を始め、多くの町人学者を輩出しました。
春風館頼家住宅は、安芸藩の儒医であった頼山陽の叔父・春風の居宅として建てられました。一方の復古館頼家住宅は、春風の孫・三郎が分家して建てた家で、酒造業や製塩業を営んでいました。
竹原はまた、酒造業も盛んだったようで、江戸時代には15軒、最盛期の大正時代には26軒もの造り酒屋があったという記録が残っています。今も、1733(享保18)年創業の竹鶴酒造、1863(文久3)年創業の藤井酒造、1871(明治4)年創業の中尾醸造の3軒が、伝統の酒造りを続けています。このうち、竹鶴酒造は、ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の生家としても知られます。
町並みの中心となる本通りは、江戸時代の町をそのままにさまざまな店が並びます。竹原はまた竹の町でもあり、竹を使った民芸品の店があったり、蔵作りの広島風お好み焼きの店があったりして楽しめます。また、電柱も埋設され、町並み全体が非常によく整備されています。そして、町筋や辻堂、お寺などが一体となって町並みを構成し、その全てが散策の対象となります。
竹原の町家の特徴は、さまざまな格子が見られることです。格子は、出格子と平格子、塗格子に分けられますが、出格子だけをとっても、古いものは格子が太く、脱着が自由になっていたり、江戸時代も末の方になると、縦格子の中に横格子を加え、また波千鳥などの意匠を凝らしたものも見られます。格子に焦点を当てて歩いてもみても、面白いかもしれません。
全国各地に小京都を名乗る町が50以上あるようです。○○銀座とどちらが多いでしょうね(笑)
返信削除竹原はマッサンブームのずっと前に一度だけ営業の人に付いて訪れたことがありますが、わずかな時間だったので小京都の趣も美味しいものにもありつけませんでした。
尾道、三原、竹原あたりの瀬戸内の風景は落ち着きますね。
◯◯銀座は350件ぐらいあるみたいです。小京都は少なくとも京都を思わせるところから呼ばれる他称ですが、こっちは商店街なら何でも名乗れる自称ですからね。
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