400年以上の歴史を持つ手漉き和紙 - 白鷹
日本最初の鉄橋・最上川橋梁
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今惣右衛門(利一郎)さんは、伝統的な深山紙を受け継ぐただ一人の職人です。深山紙は400年以上の歴史を持つ手漉き和紙。江戸時代には農家の冬の副業として、白鷹の4軒に1軒が従事し、上り紙と呼ばれて江戸にまで運ばれていました。しかし、明治に入り、洋紙が普及するのに伴って、多くの農家が和紙の生産をやめてしまいました。
そんな中、今さんの家では代々惣右衛門の名を受け継ぎながら、楮(こうぞ)100%の和紙づくりを続けてきました。今さんもまた、ほとんど機械や薬品に頼らない、昔ながらの手法にこだわっています。
例えば、繊維をほぐすため楮の皮を煮る作業があります。多くの産地では苛性ソーダやソーダ灰を使いますが、今さんはこうした薬品を一切使いません。
「苛性ソーダで煮ると、少々のゴミなんか漂白されてしまうんで、後の処理が楽なんだ。でも、これ使うと紙が柔らかくなってしまうからね」
と、今さんは言います。
紙漉きの時も、一般にはトロロアオイを使いますが、今さんはノリウツギを使っています。ノリウツギの方が粘りけが少なく、繊維が伸びるので、いい紙が漉けるのだそうです。
こうして制作される深山紙は、水に濡らして絞れる、ミシンで縫えるなど、腰のあるしっかりした紙に仕上がります。しかも、新聞の上に置いた時、下の新聞記事が読めるのです。ただ、夫婦二人だけの仕事なので、量産はききません。
「金には、ならないねえ」と、今さん。「それでも、いいんだ。これからも手を抜かないで、いい紙を作りますよ」
白鷹人形 |
1985年、白鷹町では、深山紙の伝統を受け継ぎ、次代に継承しようと、「深山和紙振興研究センター」を設立。役場の元職員がセンター長を務め、周囲から紙漉きの方法を学び、深山集落の人たちの協力を得ながら生産を始めました。現在、同センターでは、紙漉き体験や、深山和紙に関するマスコミ対応、来館者への説明なども行っています。
その深山紙を素材にした和紙人形が、白鷹町にあります。30年ほど前、町の社会教育課が、白鷹出身の人形作家・谷口陽香さんを招き、人形づくりの講習を主催しました。その後、谷口さんを講師に開講した人形教室がきっかけとなって、白鷹人形研究会が発足。この時、18人の会員が参加しました。
ただ、一口に白鷹人形と言っても、特に決まった型や種類があるわけではありません。共通項は、素材に深山紙を使っているということ。白鷹人形の特徴は「しぼ」と呼ばれるしわにありますが、これも深山紙だからこそ生まれた手法と言えます。しぼは、和紙を水で濡らし、手で揉みながら、少しずつ少しずつ縮めてつくります。深山紙の強さと独特の風合いを生かした温もりのある人形、それが白鷹人形です。
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取材のため、地元の方にいろいろ案内して頂く中、特に興味深かったのが、黒鴨地区です。ここには黒鴨温泉の他、いくつか民宿があるのですが、泊まり客の多くはイワナやヤマメ狙いの釣り人のようです。
白鷹町中平の天然ブナ林
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で、この地区の自慢が水。黒鴨温泉の前を流れる実淵川は、よく澄んだ美しい川で、白鷹の飲料水として使われています。しかも黒鴨の上流に民家はなく、清らかなまま流れてきます。黒鴨では、それを各家庭に直接引き込み、蛇口をひねると天然水が出てくるのです。何とも、ぜいたくな集落です。
その少し上流には、頭殿山林道があります。自転車やバイクのツーリングではよく知られた林道ですが、ここにもおいしい水があります。林道を少し登った中平と呼ばれる場所には、50年ほど前まで集落がありました。その飲み水は、1本の木から8トンもの水が湧き出ると言われるブナから採取していました。
集落は、山火事により今はありませんが、天然のダム、ブナの原生林はそのまま残っています。現在、その水をブナの根元から直接パイプで引いてボトリングする「ブナ林湧水」も製造され、注目を集めています。
白鷹までは、映画『スウィングガールズ』で脚光を浴びたフラワー長井線を使います。フラワー長井線は、山形新幹線が止まる赤湯駅(南陽市)から荒砥駅(白鷹町)までの約30km・17駅を結ぶローカル線。現在、高校生の通学など、生活路線としての使命を担いながらも、赤字に悩んでいるのが実情です。
そのフラワー長井線に日本最初の鉄橋があります。もともとはイギリスのメーカーが製造し、1887(明治20)年に東海道線の河川橋として架けられました。その後、1923(大正12)年、東海道線複線化に伴う架け替え工事で、長井線に転用され、「最上川橋梁」として、現在まで活躍しています。なかなか風情のある鉄橋で、ゆったりと流れる最上川、奥に連なる朝日連峰と共に、白鷹を代表する風景を形作っています。
山形県最古の木造建築・深山観音
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ブナ林湧水
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