古より今に。時を流れる轟泉水道 - 宇土

御輿来海岸
御輿来海岸
宇土市を最初に訪問したのは、1987年のこと。開業医の伊達二さんに会うためでした。

伊達さんは、熊本の大学病院勤務を経て、1980年に有明海沿いの宇土市網田町に診療所を構えました。そこは海風が強く、開院を祝って訪ねて来た友人の工学博士からは、「こりゃあ風力発電が出来るばい」と、太鼓判を押されたそうです。

この時から、伊達さんの心の中で、風車が回り始めました。夜ごとの酒の肴はこれに決まり。飲むほどに、酔うほどに、心の中の風車は大きく強く、伊達さんの心にエネルギーを充電してくれました。

風力発電は、19世紀後半からイギリスやアメリカなどで試みられており、日本では1949年に札幌で、風車の製造が始まりました。その後、オイルショックを機に代替エネルギーとしての風力発電への関心が高まり、70年代には複数の教育機関が研究に乗り出しました。しかし、80年代になると、石油の安定供給や価格の下落により、風力発電の研究開発は下火になっていました。

そんな時代でしたが、風の持つエネルギーに対する伊達さんの興味は、ふくらむばかり。風車の研究から始め、1年かかって、風力発電用として直径4mのプロペラ式風車を採用。初めて2枚の翼が、ゆっくり、そして風切り音をたてて回り出した時は、「無性に感動を覚えた」そうです。更にそれを、発電機で電気エネルギーに変換。「電気にする」 ことにも成功しました。

すると次に、「発電したからには何かに使わないと」と、電気の使い道を考え始めたのです。その第1段階は「風で茶を沸かす」こと。発電機をヒーターにつないて熱エネルギーにして、お湯を沸かしました。それがうまくいくと、今度はいよいよ第2段階の「風で走る」、つまり電気自動車への挑戦でした。

1970年の大阪万博会場で使われた電気自動車は、ダイハツが担当しました。以来、ダイハツはハイゼットなどの電気自動車を市販したり、自治体向けに電気自動車を少数納入したりしていました。

そこで伊達さんは、ダイハツに相談し、電気自動車と共に、専用充電装置を開発してもらいました。風車が回り始めて1年、最初にアイデアを思いついてから2年の月日が経っていました。

当時、風力を利用した電気自動車は国内では初めて、世界的にも極めて珍しいと評判になりました。最高速度は70km、平均時速40kmで、だいたい60kmぐらいの走行は可能。私も乗せて頂きましたが、乗り心地は快適。音も静かで、思ったより加速もスムーズ。往診など、十分実用に耐えうる車でした。

その取材の折、伊達さんが、宇土市内を少し案内してくださいました。診療所の近くには、日本の「渚百選」と「日本の夕陽百選」に選定された御輿来(おこしき)海岸があり、ちょうど干潮になりかけの時間で、潮が引いた海には、美しい曲線が描かれていました。これに、夕陽が重なるとオレンジに、薄暮はパープルに、そして満月の夜はゴールドに染まるのだと、教えてくれました。

また、宇土には、江戸時代から使われいる水道があり、その水源まで連れて行って頂きました。そこは後日、伊達さんの取材にも同行してくれた、福岡在住のベテラン・カメラマンFさんと一緒に再訪しました。

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轟水源
轟水源
宇土城址の西方山麓にある轟水源は、澄明な水が尽きることなく湧き出て、周囲には樹木も多く、夏には涼を求める市民でにぎわいます。環境庁が設定した「名水百選」にも選ばれ、うまい水として定評があり、ポリタンクをいくつも車に積み、水をくみにここを訪れる人もいます。

宇土市は県中西部、熊本市の南約10kmに位置し、西は有明海に面しています。宇土は、古くは浮土とも書かれ、「宇土じま」と呼ばれて、九州本土と水道で隔っていました。本土と陸続きになってからは、海陸交通の要衝となリ、豊臣時代には、キリシタン大名と言われた小西行長の城下町として栄え、更に江戸時代には、熊本藩支藩の宇土藩細川氏3万石の陣屋が置かれました。

その細川氏の時代、1690(元禄3)年には、早くも城下に水道がひかれています。これは江戸の神田上水(1590年)などには遅れているものの、現在実際に使用されている上水道の中では、日本最古のものと言われます。

宇土は浮土の名が示す通り、往古は海であった部分が多く、井戸を掘っても良い水を得ることが困難な土地柄でした。そのため、細川氏2代行孝(宇土在住初代)は、飲料水の確保が急務と水道敷設の計画を立てました。

水源は宇土城の西方山麓、昔から肥後3名泉の一つに挙げられていた湧水・轟水源に求め、松橋焼の土管を埋めて送水管とし、城下まて延長4.8kmに及ぶ難工事を完成させました。水道は、地盤の高い所は約1.7m掘リ下げて地下に埋設し、低い所では水道専用の塘を築きました。

そして、細川藩主邸と武家屋敷には各戸に井戸を作リ、町民用として7個の共同井戸を設けました。水路は直線を避けた流線型をとり、水の流れを抑制し、水路の分岐点や角地、重要地点25カ所には、マスを作って水圧調整、修理の基点としています。

約100年後の6代興文の頃、土管の破損がひどく、汚水が浸透して疫病が多く発生したため、送水管を藩内網津産の馬門石を加工した石管に変えるなど、大改修を行いました。改修された水管は、馬門石をU字型にくり抜き蓋石をかぶせ、貝、松やに、赤土、塩などで作った「ガンゼキ」と呼ばれる独特の漆喰で固め、約6000個を連結しています。この石管は現在も使われておリ、旧城下にある約100戸が飲み水として利用している他、灌潮用水ともなっています。

藩政時代の城下町では、神田上水を始めとして、次々と水道が設けられ、記録を見ると、宇土轟泉水道以前だけでも、その数は25に及んでいます。しかし、それらは全て近代水道に取って代わられ、消えてしまいました。宇土でも、1962(昭和37)年に宇土市上水道が通水を開始したため、個人井戸は激減し、共同井戸は皆無となってしまいました。しかし、その後も轟泉水道自体は、住民による昔ながらの慣行、団結によって支えられ、今日に至っています。

歴史的遺産てあるこの上水道と共に、こうした慣行、団結も後世に伝え残してほしいものです。

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