独特の石積み文化を持つ島 - 周防大島

ビー玉海岸朝焼け
ビー玉海岸の朝焼け

瀬戸内海に浮かぶ周防大島は、海岸近くまで山が迫り、平地があまりありません。対岸の柳井市と島を結ぶ約1kmの大島大橋を渡り、海岸沿いの国道から島の内側へ入ると、ほぼ坂道と思って間違いありません。

細い急勾配の道を登っていくと、あちこちに段々畑が見られます。ほとんどが、ミカン畑です。周防大島は、山口県のミカン生産量の80%を占めるミカンの島です。

久賀の水洞
よく見ると、それらみかん畑の一部に、大きな穴が開いています。しかも、穴は一つではなく、その上の段にもあります。それどころか、あっちにも、そのまた向こうにも、穴が見えます。

「かつては田んぼだったんですよ。この穴は、その灌漑用水路なんです」
と、案内を買って出てくださった旧久賀(くか)町の吉村基元町長が説明してくれました。

周防大島町は2004年10月に大島、久賀、橘、東和の4町が合併して誕生しました。実は久賀町は1904年1月1日に町制を施行して以来、100周年目を迎えたところでした。その町長を務めていたのが、吉村さんでした。

吉村さんによると、久賀には「水洞(すいどう)」と呼ばれる、こうした暗渠が、1200カ所もあるそうです。

「久賀はご覧の通り土地が狭いんで、少しでも多く米が獲れるよう、石を積んで棚田を組み、その中に水洞を作ったんです。小川だと、その上に米は作れませんが、棚田の下を通せば、土地がそのまま使えますからね。子ども一人分の食い扶持ぐらいは収穫出来るというわけです」

なあるほど、です。

久賀の水洞
現役で使われているみかん畑の水洞

しかし、それにしても山の傾斜を利用し、湧き水を田に引き込むだけならまだしも、棚田の下に石を積んでトンネル状の水路を作るとは。久賀の石工、恐るべし。

実は、久賀は瀬戸内海の石積み技術発祥の地とも言われています。この水洞に見られるように、非常に高度な技術を擁して、島外でも活躍し、久賀石工の名は古くから知られていました。

琵琶湖疎水の縦坑工事や、萩と小郡を結ぶ陰陽連絡道の悴ケ坂峠を貫通する隧道工事などで、福田亀吉を始めとする久賀の石組職が腕をふるったという記録も残っています。また、各地の神社の石鳥居も久賀の石工たちが関係しました。有名なところでは、厳島神社の参道入口にある大鳥居は、久賀に生まれた福田市助によるものです。

久賀の石風呂
久賀の石風呂

「土地が貧しいですからね。長男はともかく、次男、三男が分家をして食べていけるだけの土地がない。そこで次男、三男は大工や石工、あるいは漁師として出稼ぎに行くしかなかったんです。
漁師は長崎の対馬や壱岐まで行っていますし、国内だけじゃなく、ハワイにも多くの人が行っています。大島の3軒に1軒は、ハワイに親戚がいるほどです」
と、吉村さん。

そう言えば、大島出身の民俗学者宮本常一も『忘れられた日本人』の中で、自分の郷里は江戸後期には人口が飽和状態にあって、次、三男は仕事を求めて他郷へ働きに出掛けた、というようなことを書いていました。当時、久賀では1日働いて13銭にしかならなかったのに、ハワイだと50銭になったのだといいます。

久賀歴史民俗資料館
久賀歴史民俗資料館

宮本の同じ著作の中に「世間師」という言葉が出てきます。

『広辞苑』によると、「世間師(せけんし)」とは、「世情に通じて、巧みに世渡りする人。世なれて悪賢い人」とあります。

世渡り上手もどうかと思いますが、「悪賢い」となっちゃあ、呼ばれたくない称号です。ところが、宮本の言う「世間師」は尊称らしいのです。

若い頃に島の外へ出て見聞を広め、年をとってから島へ戻って暮らした人たちのことを、大島では「世間師(しょけんし)」と呼んだようです。そして何か事があれば、世間師たちは豊かな知識を元に、島の人たちの良き相談相手となっていたのです。

茶がゆ
久賀の郷土料理・茶がゆ

出稼ぎに行く人が多かったせいか、旅や島の外での暮らしに対するハードルが低かったのかもしれません。進取の気性に富む、周防大島の島民性も、そんなところから培われたに違いありません。

そんな島で育った宮本常一が、フィールドワークを中心とした学者になったのも偶然ではなかったでしょう。3000を超える村を歩き、記録にとどめた宮本も「世間師(しょけんし)」と呼ぶにふさわしい人物だったはずです。

写真説明

久賀の石風呂:西日本最大最古の石積式蒸風呂。地元の花崗岩石を積み上げて石室を築き、内部は粘土で厚く塗り、土間はたたき固めになっています。国定重要有形民俗文化財
久賀歴史民俗資料館:宮本常一の勧めで収集した民具が展示されています。「久賀の諸職用具」は国指定重要有形民俗文化財
●茶がゆ:ほうじ茶(ハブ茶)を茶袋で煮出し、イモなどを入れて炊く大島の郷土料理

八田八幡宮:一の鳥居は福田市助が建てたもの。二の鳥居前には石組みの太鼓橋があります。247段の石段が続く参道前に竹筒をくくりつけた木がありました。これは、いまだに謎です。茨城県小美玉市の耳守神社に竹筒型の絵馬と、竹取物語にあやかって子授祈願で竹筒を奉納する東京・八王子の子安神社の情報はありましたが、八田八幡宮に関しては分かりませんでした。


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