阿武隈川畔の冬の風物詩「あんぽ柿」
隣はもう宮城県という福島県最北の町・伊達市。その伊達市の中でも一番北にあるのが、古くからの城下町・梁川です。鎌倉、室町時代には伊達氏が梁川城を築き、この地を本拠に奥州に君臨しました。その後、蒲生、上杉、松平氏の時代を経て、幕末には松前藩の所領となって明治を迎えました。
かつては「蚕都梁川」と呼ばれたように、養蚕業が盛んでしたが、いまはそれに変わり、ニットの町として、福島ニットの中心地となっています。そのニットとともに梁川の特産となっているのが、「あんぽ柿」。
福島県の北部一帯は、果樹王国として知られますが、中でも梁川のあんぽ柿(干し柿)は、全国一の生産出荷量を誇っています。「甘い干し柿」が訛ったものと言われるあんぽ柿は、その名の通り甘露絶品。かつては年間2000トン近くが、県内を始め関東、関西方面へ出荷されていました。
しかし、福島第一原子力発電所事故直後の2011年度は、県庁による自粛要請で18トンに激減。その後、徐々に持ち直し、今では約1000トンまで回復して、途絶えていた輸出も、今年の1月から試験的に再開されています。
梁川の中でも、干し柿づくりが盛んなのが、五十沢地区(旧五十沢村)。五十沢は、梁川の中心部から阿武隈川を渡り、宮城方面へ向かった所にあります。この地方は、あんぽ柿の原料となる蜂屋柿の本場でもあります。大ぷりで見た目にもうまそうな柿ですが、あいにくと渋柿。そこで、これを干し柿にすることにしたのです。
干し柿というのは、昔からあったもので、『延喜式』(927年)にも、菓子類として挙げられています。五十沢での干し柿づくりも、かなり古くから行われていたようです。しかも、この地方の冷たく乾いた冬の気候は、干し柿づくりに適していました。
ただ、今日の「あんぽ柿」と言われる干し柿は、大正時代に始まったものです。普通の干し柿は、時間が経つと乾燥して、黒く堅くなり、更に糖分が白い粉となって表面に出て来ます。これに対してあんぽ柿は、羊羹のように柔らかく、半分生のようなジューシーな食感が特徴です。これは、あんぽ柿が、渋柿を硫黄で燻製状してから乾燥させる、独特の製法で作られるためです。
大正時代、隣村の佐藤福蔵さんが、カリフォルニアの干しぶどうづくりを目にしたのが、そもそものきっかけでした。福蔵さんはこれを、兄の京蔵さんに伝えたところ、京蔵さんは、硫黄でいぶして乾燥させるカリフォルニアの干しぶどうづくりを、干し柿に応用出来ないか研究を始めました。京蔵さんの試みはうまくいきませんでしたが、その話が隣村である五十沢の人たちに伝わり、試行錯誤を重ねた末、1922(大正11)年に現在のあんぽ柿の原型が完成しました。そして翌年、あんぽ柿出荷組合を設立し、あんぽ柿の出荷を始めたのです。
梁川のあんぽ柿には、特産でもある蜂屋柿や、平核無(ひりたねなし)柿が使われます。収穫は、初霜の頃に始まります。穫るのは、まだ硬いうちです。それを、一つひとつ皮をむき、縄に吊るして硫黄でいぶしてから、乾燥場に干します。この作業は、11月の中旬から12月初旬にかけて行います。
この時期、五十沢の農家は赤色に染まります。すだれのように吊るされた柿が、夕陽を浴びて赤味を増し、照り輝いているさまは、まさに梁川の初冬の風物詩と形容出来る眺めです。こうした状態で、1カ月あまり乾燥させ、アメ色に干し上がった柿は、1個ずつセロハンに包まれ、2月の末頃まで出荷が続きます。
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