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魚の王国・富山湾に君臨する味覚の王者、越中ブリ

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氷見の魚の旨さには定評があります。これには、いくつもの要因が重なっています。 その一つが、富山湾の起伏に富んだ地形。富山湾の海底は沿岸部から急勾配に深くなり、水深1000m以上にも及びます。湾底まで落ち込むこの斜面を「ふけ」と呼び、ふけ際はプランクトンが豊富で、魚が群れをなしています。そんな富山湾の中でも氷見沖は、最も大陸棚が発達してふけ際が多く、絶好の漁場となっています。 また、富山湾には立山連峰の雪解け水が流れ込みます。森は魚を養うと言われる通り、豊かな森のある海はプランクトンも豊富。富山湾には、こうした河川から流れ込む栄養豊かな沿岸表層水と、その下に流れ込む対馬海流系の暖流、更に下には海洋深層水が流れています。そのため暖水性から寒水性まで、多種多様な魚が水揚げされます。この海水の性質が、二つめの要因。 そしてもう一つが、氷見の漁師たちの鮮度へのこだわりです。氷見の漁は 全て定置網で行われます。氷見の定置網は、今から400年以上も前に始まったとされています。以来、何回かの変遷を経た後、今日のような越中式定置網が設置されるようになりました。 全長約300〜400mという巨大な網で、更にこの網から海側に垣網という長い網が延びています。回遊してきた魚は、この垣根にぶつかり回り込むうち、いつしか定置網の中に誘い込まれるという仕掛けです。定置網は水深も40〜70mもあり、いわば巨大な生け簀の中で、漁師たちの到着を待つというあんばいです。 朝4時半、漁師たちは4隻の船に分乗して、沖合約3kmの定置網を目指します。20分ほどで網に到着すると、3隻の船で網をたぐりながら、魚を主網に追い込んでいきます。網の幅が狭くなると、1隻は網を離れ、側で待機していたもう1隻の船と共に、浜に近いやや小さめの定置網で網起こしを始めます。大型の定置網では、2隻の船が船体を横にしながら向かい合い、どんどん網を引き上げていきます。 やがて、ばしゃばしゃと跳ねる魚の姿が見え始めると、漁師たちは大きなたもで魚を次々にすくいあげていきます。とれた魚はすぐに船倉に仕込んだ氷水に入れ、瞬時に仮死状態にします。氷見では漁に出る時、船に大量の氷を積んでおり、鮮度を保つ工夫が施されています。網の中の魚を全てすくい終わると、休む間もなく港へ帰り、魚を選別。すぐさま市場へ運び込み、セリにかけます。 市場では、セリ落とした

ガーリック・キャピタルを標榜する青森県最南端のニンニク村

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田子町は青森県最南端、南を岩手県、西を秋田県と接する県境の町。町の特産「田子ニンニク」は、知る人ぞ知る上質のニンニクで、一流レストランが指名買いするほどのブランドを確立しています。 田子でニンニク栽培が始まったのは1962(昭和37)年。隣の福地村で、小規模ながら栽培されていたニンニクの種子を、町の農協青年部が買い入れ、栽培したのが始まりです。 「福地ホワイト六片種」と呼ばれる、この種子は、その名の通り真白で、実の一片一片が、普通の品種の2倍以上もあります。更に質も非常にいいのですが、いかんせん大規模に栽培されていたわけではなく、当時はほとんど知られていませんでした。 しかし、田子で試験栽培を始めてみると、この辺りの土壌や気候が、ニンニク栽培に適していることが分かりました。田子は、十和田火山の噴火によるシラス状の土地で、水はけがいい土地です。また、冷害の原因となるヤマセも、ニンニクの敵ではありませんでした。逆に、収穫期に日照が少なく、実が大きく育つというメリットさえもたらしました。 こうして田子では、69年から「第1次5力年計画」を立て、本格的なニンニク生産を開始。その年のニンニク生産額は300万円でした。が、75年には100倍の3億円、87年には7億円と増え続け、日本一のニンニク産地となりました。 現在、ニンニク栽培は県内の他市町村にも広がり、生産量1位の座は譲ったものの、町を挙げて築いたニンニク文化で「ニンニクの首都」を標榜。町の中央には「ガーリックセンター」が建てられ、一般財団法人田子町にんにく国際交流協会が発足、世界一のニンニクの町アメリカ・カリフォルニア州ギルロイ市との姉妹提携など、ニンニクを柱にしたユニークな町づくりが行われています。

越前の砂丘を彩る可憐な花"辣韮"

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えちぜん鉄道三国芦原線の終着駅三国港。福井駅から小さな電車に乗って、45分の行程です。すぐ隣には「関西の奥座敷」と言われる北陸の湯どころ芦原温泉が控えます。 「九頭竜川は北陸一の長河である。三国町はその河口に『帯のはばほど』につづく古い町なみである」。三好達治が、『越前・三国わが心のふるさと』でこう書いているように、三国町(現・坂井市三国町)は九頭竜川の河口に臨む古くからの港町。江戸時代には北前船の積み出し港としてにぎわい、北陸第一の港と称されました。 その三国港の西南に、長さ12kmにわたってなだらかな砂丘地が広がります。長さが3里あることから三里浜と呼ばれるこの砂丘地帯は、全国一のラッキョウの産地です。 ラッキョウは乾燥に強く、砂丘地で無灌水栽培出来る数少ない作物の一つ。しかも球の光沢、緻密さなど、品質ではかえって砂丘地の方が優れ、また植え付け、掘リ出し、洗浄等の作業も容易で、砂地であることが有利に働いています。 三里浜にラッキョウが導入されたのは1874(明治7)年頃。少数の人が自家用として栽培を始めました。その後、他の村人もこれにならって作リ始め、次第に生産も増え、1897(明治30)年頃には、余ったものが三国商人によって売られるようになりました。 しかし、この地方にラッキョウ栽培が定着するまでには、幾多の困難と苦闘の歴史がありました。江戸時代、この辺りは日本海から吹きつける強風のため、田畑は土砂に埋まリ、海の荒波によって家々が倒され、住民は流浪して他郷に逃げざるを得ない状態でした。 江戸中期、敦賀に生まれた僧・大道が、こうした惨状をみかねて、村々の百姓を説いてネムの木を植えて砂地を落ち着かせました。大道は、次にシイや松を植え、次第に面積を広げていきました。更に草地を増やして緑化を押し進め、ついに砂丘を耕地化することに成功したのです。 そして、大道のこうした努力は、後年、全国一のラッキョウ産地として花開いたわけです。今、かつての不毛地帯・三里浜は、ラッキョウを始め、スイカ、ダイコンなどの名産地となっています。 ところで、日本の大部分のラッキョウ産地は、1年掘り栽培を採用していますが、三国では2年掘りを採用しています。2年間、畑に置くことによって、分球数が多くなり、小粒で身が締まり、肉質も緻密で歯切れの良いラッキョウになります。ラッキョウの花は、10月下旬から

日本の心・茶の文化を育む三河の小京都

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西尾市というと、このコロナ禍で、市議14人がコンパニオンを入れて忘年会をしたり、副市長の指示で大手薬局チェーン創業者夫妻のワクチン接種予約を優先確保したりと、残念なニュースが続き、かなり評判を落としてしまいました。西尾には、「一色産うなぎ」「西尾の抹茶」と、特許庁認定の地域ブランドが二つあり、私も抹茶の取材をしたり、一色うなぎを取り寄せたりしたことがあったので、正直がっかりしました。 しかし、そうした残念な人たちと、うなぎや抹茶の生産者の方たちとは別物。市の評判と共に、そうしたブランドに傷がつくのは忍びないので、今回はさわりだけですが、取材をした抹茶について書いておきたいと思います。 西尾市は、地域ブランドに認定されているように、日本一の抹茶の里です。西尾で抹茶づくりが始まったのは、1872(明治5)年のこと。市の西部、稲荷山の麓にある紅樹院の住職足立順道師が、修業の帰りに京都・宇治から茶の実を持ち帰ったのが始まりといいます。その後、宅地化により宇治の茶園が減少したこともあって、昭和20年代頃から、抹茶生産の比重は宇治から西尾にシフトしてきました。 植物学的には、抹茶の木と煎茶の木に違いはありません。むしろ茶畑の違いが大きな要素となっています。特に茶摘みの時期になると、それが顕著になります。 抹茶用の畑は、俗に「覆下茶園」と言われ、全面に覆いをかけます。新芽が出る頃に日差しをさえぎるのは、茶の木の成育にとって障害になるように思えます。しかし、実際はそうすることで、よりおいしい茶が出来るから不思議。 抹茶の場合、茶摘みの20日ほど前から覆いをかけ始めます。最初の10日間は日照の2〜3割をカット。後の10日間は7〜8割をカットし、茶園の中はほとんど薄暗闇となります。 これによって、根から吸収された養分はぶどう糖のままとどまります。その時に茶摘みをすることで、茶葉の有効成分、例えば茶のうま味の中心となる「タンニン」などが最高値となり、おいしいお茶が生まれます。 抹茶の葉は年に1回、摘まれます。そのため、茶樹の背も高くなっています。西尾では毎年、茶摘みの時期に、中学生による勤労体験学習が組まれています。 薄暗く、背の高い木の中で、まさに声はすれども姿は見えぬ状態。はたから見ると、ユーモラスな光景なのですが、全て手摘みで行う抹茶だけに、生産農家にとっては、まことに貴重な労働力

吉野ケ里を見下ろす霊場背振山に日本の茶の源流を求めて

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「お茶のはじめは三粒の種を 栄西禅師が唐みやげ」。茶どころ静岡で広く歌われた茶節の中に、こんな一節があります。 日本における茶の歴史は、確実な史料の上では平安時代にまでさかのぼることが出来ます。遣唐使を送るなど、唐文化を盛んに移入していた日本は、茶もまた導入し、宮廷に茶園まで作っていたようです。 しかし、貴族社会の衰退と共に、茶の文化もいったん廃れたと考えられています。その後、現在に結びつく形での茶の歴史は、鎌倉時代の栄西禅師によって、改めて開かれたというのが、通説となっています。 栄西禅師は、臨済宗の開祖として知られますが、1191(建久2)年、宋からの帰国に際して、茶の種子を持ち帰りました。そして、その種子を、佐賀県の脊振山に播いたといいます。 脊振山は、佐賀県と福岡県の境にあります。昔は、九州屈指の霊場として知られていました。山頂には、海路の神として弁財天が祭られ、かつての大陸との交通史を物語っています。伝教、弘法、慈覚らの諸大師が唐に渡る際には、必ず脊振山に参拝し、祈願したといいます。山頂の弁財天を上宮、709(和銅2)年に元明天皇の勅命で開かれた霊仙寺を中宮、麓の坂本修学院を下宮とし、この一帯は「脊振千坊」と言われるほど栄えたと伝えられます。 栄西禅師が、宋から持ち帰った茶の種子を播いたのが、その霊仙寺の西の谷・石上坊の庭であったと言われます。坂本修学院に残る江戸後期の史料には、当時、霊仙寺一帯には九反五畝(約95アール)の茶園があったと記されています。 霊仙寺跡のある吉野ケ里町(旧東脊振村)松隅坂本には、かつて「チャガエ」という風習がありました。チャガエとはもちろん、茶替えの意味で、明治の末から大正の初め頃、この辺りでは自家製茶のうち上茶は仲買人に売り、質の落ちる茶は、女たちが近隣の村に持ち出し、塩、砂糖、綿などと替えたそうです。栄西ゆかりの地だけに、そんな風習があったことも興味深いですね。 現在は、吉野ケ里町東脊振で作られた自家製茶のうち、上茶は「栄西茶」のブランドで販売されています。もともと小規模な茶園が多いため、販売用は非常に少ないのですが、吉野ケ里町のふるさと納税返礼品になっているので、興味のある方は検索してみてください。 さて、霊仙寺と茶園の今はどうなっているかというと、昔日の面影はほとんどありません。霊仙寺跡には祈祷所として乙護法堂が建ち、そ

杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち

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2014年9月に、アーチ曲線が特徴的な新駅舎となった越後線内野駅は、かつて「鶴の友」駅と呼ぶ人がいました。というのも、旧駅舎の上に「鶴の友」という巨大看板が立っていたのです。「内野駅」の看板はその隣に、小さな(それが普通だったんでしょうが・・・)白い文字でひっそりと掲げられていました。 これなら「鶴の友」駅と呼ばれても不思議はない。そう私も思いましたが、そもそも「鶴の友」って何? 新潟以外の人にとっては、聞き慣れない名称に違いありません。 それもそのはず、県外不出の地酒の名前だからです。蔵元が、地元の人の口に合った酒造りを目指し、新潟市以外ではほとんど売られていません。しかし、その旨さは口コミなどで広まり、今や知る人ぞ知る幻の銘酒となっています。 「鶴の友」の蔵元は、内野駅から真っ直ぐ南へ向かって歩き、国道に出たところで左折。すぐに樋木酒造の風格あるたたずまいに出くわします。建物が国の文化財に指定されており、酒蔵としての年輪を感じさせます。ここから更に500mほど東へ行くと、「越の関」のブランドで知られる塩川酒造があります。かつては、そのまた500m先に「日本海」の伊藤酒造、また駅前通りを挟んで樋木酒造と反対側の国道沿いには「朗」の濱倉酒造があり、内野は酒蔵の町と呼ばれていました。 こんな至近距離に、造り酒屋が集中していたのは、良質な水を豊富に使える立地と、陸運、水運の便の良さ、新川開削工事や北国街道を行き交う人で賑わい、町全体が繁盛したことによります。1818(文政元)年、信濃川に合流していた新川を開削し、直接日本海に放流するために始まった新川開削工事では、全国から人が集まり、その人たちの飲食をまかなうために料亭が栄え、造り酒屋も多数生まれたというわけです。 また、新潟は酒造りのプロ越後杜氏の本拠地です。江戸時代初めまで、日本酒は新酒、間酒(あいしゅ)、寒前(かんまえ)、寒酒造りと年4回仕込んでいました。しかし、江戸幕府が秋の彼岸以前の酒造りを禁止。米本位制をとっていた幕府にとって、米の大量消費が米価を高騰させ、経済が混乱することを恐れたからです。 また、寒造りの酒は旨い、という評判もあり、この頃から日本酒は11月から3月にかけての寒造りが主体となり、その期間だけ酒造地へ出向いて酒造りをするプロ集団が誕生することになりました。 新潟の冬は、山間部は雪に閉ざされ、沿

北の国・ワインカラーの町

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池田町の町を歩いていて、やたらと目につくのがワインショップです。それこそ、軒を連ねるようにして並んでいます。そして、その前の歩道も、街灯も、家々の屋根も、みなワインカラー。それもそのはず、ここはワインの里、町ぐるみでワインを愛し、育てているのです。 この北の小さな町池田町を、全国的に有名にしたのが、十勝ワインで知られる町営のワインづくりです。地方の時代にあって、この池田町のワインづくりの成功は、新しい町づくりのモデルとされ、「自治体ワイン」の名まで生みました。 昭和30年代の初め、池田町は冷害によリ財政赤字に陥いりました。この時、ある専門家が言った「ここの山ブドウは良質のワインになるアムレンシス系統かもしれない」の一言が、町を挙げてワインづくりに取リ組むきっかけとなりました。 1960(昭和35)年、ワイン町長と呼ばれた当時の丸谷金保町長の発案で、ブドウ栽培に着手。3年後の63年から、ワインの醸造を始めました。 池田町のブドウは当時の日本では珍しい垣根式や棒仕立てで栽培されていました 良いワインは、良いブドウから。ここのブドウは、よっぽどワインに適していたのか、翌64年には、早くも国際ワイン品評会で銅賞に入賞。以後も同品評会での金賞、銀賞を始め、世界のワイン・コンテストで数々の賞を受賞。世界に誇るワインへと評価を高めていきました。 もっとも、初めから全て順調に進んだわけではありません。国際品評会に入賞、町民がやっと、ブドウ栽培をやろうという機運が盛リ上がった64年、厳しい冷害に見舞われ、苗木が全滅してしまいました。 その後、懸命な努力によリ、山ブドウにヨーロッパ種のセイベル種を交配させて、寒さに強い「清見」を生み出しました。本当に軌道に乗ることが出来たのはそれからです。 池田町のワインには、いくつもの品種がありますが、人気なのは、「清見」や「山幸」など酸味の効いた辛口の赤。これらは、特産のいけだ牛にとてもよく合います。春と秋に行われるワイン祭では、十勝ワインの飲み放題がある他、牛の丸焼きも登場。北海道の雄大な自然にマッチした、なんとも豪快なイベントです。 ↑中世ヨーロッパの城を思わせるところから「ワイン城」と呼ばれる池田町のシンボル・ワイン工場

球磨川「焼酎渓谷(バレー)」を訪ねる

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人吉を語る時、忘れてはならないのが球磨川です。熊本県南部をU字状に流れる長さ約115km、九州第二の大河です。 日本三大急流の一つに数えられ、その急流を下る球磨川下りはよく知られています。また、アユ釣りの名所として、全国の釣り天狗を魅きつけていますが、シーズンなど、アユの数より多いんじゃないかと思うほど、釣り人の姿が目につきます。 寛政の三奇人の一人とうたわれた高山彦九郎は、1792(寛政4)年2月、球磨を訪れていますが、その時の様子を『筑紫日記』に「馳走有り。焼酎に鮎を肴とす」と書いています。球磨川のアユと球磨焼酎。たしかに、最高のご馳走であったに違いありません。 さて、その球磨焼酎ですが、これは球磨川流域に27(取材時は32)もの醸造元があります。人吉の下流・球磨村から、上流の水上村にかけて球磨川沿いにまんべんなく、焼酎メーカーが散らばっています。 その様は、「焼酎渓谷」という表現がぴったりです。この渓谷の人たちは、球磨川の清流の恵みを受けながら、これまで何世代にもわたって焼酎を作り、売り、そして自分たちも飲んで生活してきました。 ところで、なぜ、球磨川流域が、このような焼酎の大生産地になったのでしょうか。水がいいこともありますが、球磨焼酎は米が原料、球磨地方にはその米が余っていたからということらしいのです。 人吉は、相良氏が鎌倉初期から明治維新まで、約700年にわたって治めてきた日本一古い城下町。この人吉藩は、表高こそ2万2000石という小藩でしたが、実質10万石の収入がありました。 人吉市の東端から小高い丘陵が連なります。実はその奥に、巨大な稲田が広がっているのですが、丘に隠れているのを幸い、うちはここまでと検地の役人をだましていたのです。そして、この豊かな米を原料に、せっせと焼酎を作っていました。  ◆ 取材の際、チョクと呼ばれる盃に遭遇しました。販売促進用に作ったぐい飲みのミニチュアだろうと思ったのですが、取材に協力して頂いた深野酒造の社長は、「いや、これこそが本来の球磨焼酎の盃」と。 元来この地方では、ガラという酒器に入れて、そのまま火にかけて温めたものをチョクで飲みます。そして、酔うほどに賑わうほどに、無礼講で球磨拳が始まります。 球磨拳というのは、ジャンケンに似たゲームで、負けた人が必ず一杯飲み干さなければいけません。しかも、延々続くという恐怖のゲ

安全性やブランド力を高め付加価値農業を創出する北空知

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午前3時、まだ真っ暗な中、広大な豊泉牧場の一角に明かりがともりました。乳製品の加工場・MOMO工房で、牛乳の瓶詰めが始まったのです。 「そりゃあ、冬は寒いですよお。でも、真っ白な雪を踏みしめて工房まで歩いて来るのは気持ちいいものですよ」と、ご夫婦でMOMO工房を切り盛りする鹿島留美さんは話します。ご主人の稔さんは豊泉牧場の5代目社長。 豊泉牧場は1957(昭和32)年に酪農専業の3戸により発足、62年から有限会社となりました。当時としては例のない方式でした。そんな伝統を受け、94(平成6)年に社長に就任した稔さんは、更に先進的でユニークな経営に乗り出しました。 96年、消費者とのつながりを構築しようと牛の里親(オーナー)制度をスタート。オーナーは牧場で生まれた子牛を時価で購入。子牛は牧場で育てられ、牛乳が生産されるようになると自分の牛の牛乳をいつでも飲めます。また実際に牧場に出かけて、酪農体験をすることも出来ます。 更に98年、MOMO工房を立ち上げ、ヨーグルト、アイスクリーム、ミルクパンの製造販売を始めました。工房は製造体験も出来るようになっており、学校などの体験学習に利用されています。 牧場まで案内してくれた地元の東原廣志さんが、「鹿島君は思いついたら即行動だからね」と言えば、留美さんも、「相談された時には、もう決まってますからね」と笑っていました。 鹿島さんは、牛乳の配達が終わると、道内一の利用率を誇る道の駅「ライスランドふかがわ」に顔を出します。ここで搾り立てのフレッシュミルクを使ったソフトクリームの販売を始めたからです。消費者との触れ合いを求める鹿島さんの挑戦はまだまだ続きそうです。  ◆ 深川を中心とした北空知管内では「北育ち元気村」の名の下、JAが広域合併し、米を始めとする農産物の広域統一ブランドを作り、その普及に努めています。この辺りは特に道内随一の米どころとして知られます。 北海道開拓が始まった当時、道内では稲作が行われておらず、屯田兵はアワや麦を食べていました。北空知では1892(明治25)年、現在の深川市音江町で稲を植えたところうまく育ち、自分でため池を作ったり、川の水を引いて水田を作る人が多くなってきました。 1912(大正元)年には、石狩川の水を引いて用水路を作る工事が始められ、4年後の1916年に完成。当時はクワやスコップで土を掘り、掘っ

子どもの頃の思い出と共に息づく麦わら帽子

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かつて埼玉は、日本一の麦の生産県でした。県東部、庄内古川(中川)と古利根川に挟まれた肥沃な沖積平野に開けた春日部も、古くから麦作りが行われていました。そして、これら麦稈(麦の茎)を利用した麦わら真田作りの副業も盛んだったようです。 麦わら真田というのは、麦わらを真田紐のように編んだもので、明治初めまで川崎大師の土産品として使われていました。主産地は岡山、広島などでしたが、春日部のものは茎に模様があることから「蛇身真田」と呼ばれて珍重され、川崎や東京・大森などに出荷されていたといいます。 『東海道中膝栗毛』にも「大森といへるは麦藁ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ」と書かれており、江戸の頃から、大森は麦わら細工で有名だったことがうかがえます。明治に入ると、その大森で麦わら真田を使った帽子が作られるようになります。横浜にいたアメリカ人の勧めで始まったものといい、1878(明治11)年、大森の島田十郎兵衛が麦わら帽子を作り始めました。 1871(明治4)年に散髪脱刀令が出され、斬髪が進むと同時に、帽子が普及し始めました。1872(明治5)年11月号の『新聞雑誌』は関西方面の斬髪流行を取り上げ、「これがため、大坂、神戸の洋品店にありし帽子一時に売り尽くしたり」と伝えています。斬髪の恥ずかしさを帽子でカバーしようと、帽子は飛ぶように売れました。 その波は、麦わら真田の供給地であった春日部まで押し寄せ、1880(明治13)年、春日部でも麦わら帽子の製造が始まりました。最盛期には、春日部を中心に150の業者、約1万人が帽子製造に携わり、産地として全盛を極めました。と同時に、麦わら帽子は庶民の生活の中に浸透していきました。 多くの人は、麦わら帽子と言えば、夏を思い出すのではないでしょうか。子どもの頃の夏休みの思い出の中に、麦わらの帽子をかぶった自分がいたります。 「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、籍谷に落としたあの麦程帽子ですよ」 これは、西条八十が子どもの頃、母親に連れられ霧積に行った時の思い出を綴った詩ですが、麦わら帽子には、子どもの頃の思い出を象徴するような、不思議な語感があります。 ↑帽子の木型もそれぞれのデザインに合わせて作られます(田中帽子店)