音楽で震災からの復興を! - みんなで歌う第九の会
日本で第九が初演されてちょうど100年目に当たる2018年、福島県郡山市の「みんなで歌う第九の会」を訪ねました。初演というのは、徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所でのことで、第1次世界大戦で捕虜となったドイツ兵による演奏でした。板東俘虜収容所は、規則の範囲で捕虜に自由を与え、地元民との交流も許していました。これには、所長を務めていた松江豊寿さんの考えが、大きく反映されていたようで、松江所長は父親が会津藩士だったため、敗者の屈辱を痛いほど理解しており、収容所でも人道的な管理を行っていたと伝えられています。
この松江さんが、福島出身ということもあり、その年は県内各地で第九の演奏会が続いていました。郡山の「みんなで歌う第九の会」でも、このエピソードに思いを馳せ、もう一度初心に返って、第九の持つ精神性をかみしめたいと、演奏会に向けて練習に取り組んでいるところでした。
東日本大震災で、福島県は沿岸部の津波被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染が広がったことで、山間部の浜通り北部や、郡山市を含む中通りも影響を受けました。震災から時が経っても沿岸部や浜通り北部の方たちは避難生活を余儀なくされ、しかも放射能汚染の風評被害もあり、福島県全体が沈滞ムードに包まれていました。そこで、復興の意欲を音楽で示そうと、「みんなで歌う第九の会」を設立することになったそうです。
ベートーヴェンの交響曲第9番は、日本では親しみを込めて「第九」と呼ばれることが多く、特に合唱を伴う第4楽章は冬の風物詩と言えるほど、年末になると日本各地で演奏されています。この第4楽章は「歓喜の歌」という名で親しまれていますが、歌詞にはドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」が抜粋され、冒頭部分はベートーヴェン自身が作詞したものです。歌詞には友愛や喜びといったテーマが込められており、欧州評議会が、ヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」としている他、統一性を象徴するものとしてEUの歌にも採択されています。
「みんなで歌う第九の会」代表の作田秀二さんによると、第九の会の設立は、震災後、家族や友人たちとの絆が強く求められるようになる中、第九のテーマである友愛こそ、この状況にふさわしいと考えたからだといいます。
作田さんは高校時代に合唱に出会い、大学時代も合唱部に所属。社会人になってからも、月1回のボイストレーニングは欠かさず、地域の合唱サークルに参加していたそうです。その後、ご両親が住む郡山へ戻ってからも、市民合唱団の一員として活動してきました。
福島県は元々、合唱が盛んな土地で、レベルも高く、NHK全国学校音楽コンクールや全日本合唱コンクールでは毎年、福島県勢が上位に入っています。その中でも郡山は、特に合唱が盛んな土地だそうです。中学、高校とも合唱の有名校がそろっていて、郡山市そのものも「音楽都市」を宣言し、「楽都」というキャッチフレーズを掲げています。
そのため、市民の合唱サークルも多いのですが、男性は少なく、発表会などでは互いに応援で出演することもあるとのこと。そんなこともあって、作田さんも、あちこちの合唱団と交流があり、その中で自然発生的に「みんなで歌う第九の会」発足の気運が盛り上がり、その発起人代表に選ばれました。最初は、郡山全体などという大きな規模のものが出来るか不安だったそうですが、各方面からの協力を得られ、2013年12月に第1回演奏会を実施。
この時は、郡山市民文化センターのロビーで、ピアノとエレクトーンの伴奏により、第4楽章のみを115人の市民が参加して歌い上げました。これが評判となり、翌年は更に大きな輪となって、オーケストラと共に第1楽章から第4楽章までを市民400人で演奏しました。会場も文化センターの大ホールに移り、本格的な第九演奏会となりました。以後、参加する市民が少しずつ増え、更には中学・高校の合唱部有志の参加もあり、今では小学生から80代のお年寄りまで、文字通り老若男女が一緒になって歓喜の歌を歌い上げているんだそうです。
例年7月から練習を始め、初めての方や第九を歌い始めて3年ぐらいの方を対象にした講座的な練習を8回、全体練習を10回ほど重ね、本番に臨みます。中学生や高校生はそれぞれに学校で練習をしていますから、参加者全員が集まっての合唱は前日リハーサルのみですが、参加される方は皆、「復興」「絆」という思いが詰まっていることもあり、非常にまとまった演奏になっていると思う、と作田さんは話していました。
取材した年には、「みんなで歌う第九の会」として、ウィーン・フィル&サントリー音楽復興祈念賞を受賞しており、内外に認められる演奏会に成長しているようです。
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