イケメン山伏安珍さんの古里で開催されるだるま市
『おくのほそ道』の序文に「春立てる霞の空に、白河の関越えんと(春になり霞たなびく空を見るにつけ、白河の関を越えたいと)」と綴られているように、奥州三関の一つ「白河の関」が置かれ、古くからみちのくの玄関口として知られる白河。そんな白河市に春の訪れを告げる白河だるま市が、毎年2月11日、市中心部の目抜き通りで開かれます。
白河だるまは、眉やひげなどを「鶴亀」「松竹梅」に見立てて描いており、「白河鶴亀松竹梅だるま」とも呼ばれます。江戸時代中期、寛政の改革で知られる白河藩主の松平定信が、旧正月の市に縁起物として売らせたのがだるま市の起源と言われます。
江戸時代から続く伝統の白河だるま市には、毎年15万人もの人出があり、国内最大級のだるま市となっています。
だるまのサイズは、8cmの小さなものから、75cmの大きいのものまで18種類あります。定価はありますが、値切り交渉も可能。だるまを値切ることは縁起が良いとされるそうなので、臆せず声をかけてみたらいいかと。
また、店によっては、だるまに無料で文字入れをしてくれる所もあります。「家内安全」「商売繁盛」「合格祈願」など、願掛けしたい言葉の中から選んで、その場で文字を入れてもらえます。
ところで、話が変わりますが、「安珍清姫」伝説の安珍さんは、ここ白河の出身です。「安珍清姫」の話は、熊野詣での僧に想いを寄せた女性にまつわるもので、この話は、平安時代半ばに出来た『本朝法華験記』という仏教説話集に載っていたと言います。それが『今昔物語集』にも引き継がれ、「巻十四第三話」に、女の執念が凝り固まって蛇になった話として紹介されています。
この伝説は、中世の頃には確立されていたようで、能楽の演目として早くから定着し、それが、いわゆる「道成寺もの」として歌舞伎の中に採り入れられ、1752(宝暦2)年、中村富十郎によって『娘道成寺』として集大成され、京都嵐三右衛門座で創演されるに至ります。そして翌年には『京鹿子娘道成寺』として、江戸中村座でも上演され、今日まで受け継がれています。
一方、伝説そのものも、道成寺に土佐光重の筆と伝わる『道成寺縁起絵巻(国の重要文化財)』という形で残され、2017年には江戸時代以来362年ぶりに全面修復が施されました。
安珍さんは15歳の時に、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心だった「出羽三山」の一つ羽黒山に入ったと言われます。一方、清姫さんが住む熊野も、世界遺産「熊野三山」で知られるように信仰の地です。
修験者は、羽黒から熊野へ、また熊野から羽黒へと出向き、互いに交流があったとされます。そんな中、遊行中の山伏・安珍さんは、熊野へ行く途次、一夜の宿を求めたお宅で、清姫さんと出会います。安珍さんは、かなりのイケメン山伏だったらしく、清姫さんは、「ひと目会ったその日から」じゃないですが、安珍さんに一目惚れ。恋の炎を燃やしますが、思いかなわず、更には裏切られたと知って逆上。大蛇となって安珍を追い、最後には道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺してしまいます。
「道成寺もの」は、大体そんな感じのストーリーですが、『本朝法華験記』や『今昔物語集』では、安珍さんも清姫さんも、実名報道されていません。歌舞伎の題材に取り上げられるようになって、名前が付けられたのでしょうが、物語の舞台となった熊野古道「中辺路」では、清姫さんのモデルとされる人物(希代さん)が特定されています。また、安珍さんの出身地は、白河市萱根の根田地区とされていて、ここには江戸時代から「安珍歌念仏踊」が伝わっているそうです。
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