江戸期会津の面影を今に残す街道の宿場町

大内宿

300mほどのゆるやかな坂道の両側に、雪国特有の重厚な茅葺きの民家が建ち並びます。ここ大内宿は、江戸時代初期に整備されたと言われる宿場町の一つです。町中を貫く会津西街道は、会津の若松城下から下野の今市を結ぶ街道ですが、それは関東側の呼び名で、会津側からは下野街道、あるいは南山通りなどと呼ばれていました。

江戸時代には、会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な役割を担っていました。数万俵の廻米や生活物資、参勤交代の大名行列や旅人がこの街道を往来し、街道筋にある大内宿の本陣や脇本陣、旅籠で旅の疲れを癒やしました。

1868(慶応4)年には、白虎隊で有名な会津戦争(戊辰戦争)の際に、周辺が戦場となりましたが、運良く戦火をまぬがれました。しかし、旅の要所としての役割を果してきた大内宿も、新政府の誕生と共にその役割を終えることになります。

大内宿

1884(明治17)年、現在の国道121号が開通すると、大内宿はその道すじから遠く離れ、過疎の山村となってしまいました。以来、大内宿は人々の記憶の中から姿を消していくことになりました。

大内宿が再び脚光を浴びるのは、1981(昭和56)年のことです。全国で16番目の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。その後、大内宿は、会津の歴史を生きたまま今に伝えることとなります。

保存地区は、旧宿場を中心とする南北約500m、東西200mの範囲です。茅葺・寄棟造の主屋が妻面を街道に向け、道路と直角に整然と並び、この地方の宿場によく見られる家屋の形態をよく残しています。床面積は約40〜50坪と一定で、他の一般的な宿場よりかなり大きめに作られています。これは、雪深い山間という土地柄、「うまや」を住居の中に収容するための知恵でした。

大内宿

道路の中央には、広い溝が設けられ、宿場の用水として利用されていましたが、1886(明治19)年に埋め立てられ、道路の両側に、新たに洗い場用の側溝が掘られました。この溝は、今でも豊かな水量を保ち、地元の人々によって大切に使用されています。

また、大内宿には、源平合戦の先駆けとなった「以仁王(もちひとおう)伝説」が残されています。京都から敗走した以仁王が、この地に潜行したという物語です。王の宮号「高倉宮」にちなんだと思われる高倉神社では、毎年7月2日の半夏生(はんげしょう)の日に、古式豊かな「渡御の行列」が執り行われます。この高倉宮を祭った祭礼は、数百年間全く変わっていないと言われています。

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