熱海に見る日本古来の「おもてなしの心」
今から15年ほど前のお盆休みに、娘と2人の姪を連れて、熱海に行きました。
初日は、足湯&足裏マッサージを体験。娘たちは初めてのマッサージながら、結構、平気な顔をして、気持ち良さそうにしていました。最後に私もやってもらったのですが、足裏の時は内臓は健康ですね、と太鼓判。ところが、指への刺激に移ってからが、さあ大変。指によっては、強烈な痛みを伴いました。どうやら、腰、肩、目に関わるツボのようでした。
「でも、お嬢さんたちの方が、ひどかったですよ」と、店の人。いちばん上の姪は肩に鉛が入っているよう。下の姪は、目がかなりひどい状態。我が家の娘も、足が相当、凝っていた模様。後から聞いたら、みんな飛び上がらんばかりの痛さを堪えていたとか。かわいいもんです。
ところで、この店で、我々一行はゼミ旅行と間違われました。私が教授で、学生をマッサージに連れてきてあげた、という想像だったようです。当時、上の姪と娘は大学生、下の姪は高校生でしたが、この子は身長が高く、また3人とも同じ中高一貫の女子校に行っていたので、姉妹と従姉妹ということもあって、雰囲気がそもそも似ていたのでしょう。
明けて2日目は、朝から岩盤浴。「これが本当の岩盤浴!」のキャッチ・コピーと、「うわさ以上の本物だ!」のサブ・キャッチ・・・。これを見る限り、かなり怪しい感じでしたが、とりあえず3人娘に付き合って、私も岩盤浴初体験。
で、どうだったかと言うと、あづい! の一言。10分入って5分休憩を3回繰り返すのですが、かなり体力を消耗するようで、昼食後はあくびが出て仕方がありませんでした。その上、上の姪は、なぜか熱発。当たっちゃったんですかね。
それにしても3人娘、昼食でビーフシチューを食べた後(私は、「阿藤快お勧めの」という冠がつく、あじ丼でした)、熱海銀座で目を付けていたレトロな喫茶店で、特大のバナナパフェやクリームあんみつ、パンケーキを平らげるという食欲を開示。あれだけ汗をかいても、結局、太ったんじゃないか、という珍道中でした。
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さて、そんな熱海に、日本開国後の初代駐日総領事として着任したオールコック卿にまつわる、ちょっといい話があります。
ラザフォード・オールコック卿(1809-1897)が、駐日イギリス総領事として着任たのは1859(安政6)年、日本は攘夷運動で騒然としている最中でした。翌年3月、桜田門外の変が勃発。国家の一大事にあるこの年の秋、オールコックは熱海に2週間滞在しています。国政の表舞台とは裏腹に、ある小さな出来事がその間に起こりました。彼をして「日本人は誠に親切な国民である」と言わしめた、その小さな出来事とは・・・。
熱海市内の道は、町の北西に向かってやや急な上り坂になります。道の途中に立って振り返ると、坂の切れた辺りにホテルなどの建物が建ち、その向こうはるかに相模灘が広がっています。昔は、建物の辺りからが海だったそうですが、今は埋め立てられて国道につながっています。
富士登山をしたイギリスの特命全権公使ラザフォード・オールコック卿は、1860(万延元)年9月14日の早朝、馬で三島を発ち、伊豆半島を横切って、昼頃「海岸に迫った谷間に横たわる熱海」の小さな町が見える所へ出ました。オールコックは、熱海に2週間ほど滞在して周辺を見て回ったのですが、大湯の間欠泉を訪れた時、愛犬のスコッチ・テリヤ「トビー」が、熱湯を浴びて死んでしまいます。当時50歳になるオールコックは、7年前に愛妻と死別しており、トビーは、外国での孤独な生活を慰めてくれる忠実な友でした。彼は愛犬の死を、「愛情と信用がこの世からなくなった」と記すほどに悲しみました。
熱海の人々の反応は素早いものでした。村人は「かご製の経かたびら」で犬をくるみ、むしろに入れて、宿屋の主に頼んで「木陰の美しい庭」に埋めました。トビーが好きだった豆も一緒に埋められ、墓石が置かれました。墓の北側には「常緑樹」が植えられ、僧侶が水と線香を供えました。オールコックは、その墓石に「かわいそうなトビー」と記し、村人たちが「彼ら自身の同族の者が死んだかのように、悲しそうな顔つき」で集まり、墓銘板を置くことを約束してくれたことに感謝して、次のように記しました。「わたしは自分が日本にいるのだということを忘れはじめていた。それほど多くの好意がしめされ、気まぐれの満足にたいしてさえもほとんどいかなる異議も申し立てられなかった」(『大君の都』山口光朔訳/岩波文庫版21章)
この時期、イギリス公使が、日本の庶民に対して好感を持っていたことは、かなり大きな意味がありました。イギリス公使の立ち居振る舞いは、日本の外交を左右しかねなかったのです。1853年のぺリー来航以来、日本は外圧に苦しみ始め、オールコックが来日した年から、横浜・長崎・函館の3港が開かれました。当初、日本との交渉はアメリカが牽引していましたが、1861年に南北戦争が勃発、対日交渉どころではなくなって、イギリスが対日外交の主導権を握るようになります。
国の外交政策が、一人の公使のプライベートな体験や印象で変わるわけもないでしょうが、当時の公使は、日本の国内事情に関わる全ての情報の窓口にもなっていました。その点から言えば、この極めて微妙な時期、熱海の村人が見せた優しい思いやりは、深い意味があったと言わざるを得ません。
熱海の人たちは、今もこの幕末の出来事に気を配り、オールコック・メモリアルフェスティバルを開催したりしています。また、トビーの墓がある大湯間欠泉には、オールコックゆかりの地であることを示す銘板やオールコックの肖像と愛犬トビーを描いたブロンズのレリーフが設置されています。レリーフはもともと、サンビーチの西に広がるムーンテラスの一角に設置されていましたが、3年前に本来あるべきゆかりの地に設置し直したそうです。
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